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のりピーのサブプライムな憂鬱 ――覚せい剤を資産経済から考える(伊東 乾)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090904/204047/
ダイナモ コメント
のりピー問題と薬物問題についてユニークな視点から社会的考察を行なった記事がありましたので投稿します。
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突然ですが、なぜ「覚せい剤」を使用してはいけないのでしょうか? 「法律で決まってるんだから、ダメなもんはダメに決まってんだろ!」 そんなお叱りを受けそうです。でも例えば、ミドルティーンの息子や娘に 「ねえ、どうして禁止されてるの?」 と聞かれた時、十分子供を納得させられる説明を、私たち大人は返してやることができるでしょうか? 選挙がひと段落したところで、今回はこの問題を考えてみたいと思います。 芸能は強し? 視聴率が伸びる酒井法子報道9月6日の日曜日、フジテレビの報道番組「サキヨミLIVE」に最後の出演をしました。月1回のレギュラーでコメンテーター(番組では「サキヨミスト」と称します)をしていたのですが、9月いっぱいで番組が打ち切りとなってしまい、幸か不幸か私の地上波テレビのレギュラー出演は暫時なくなってしまいましたさて8月9日にこの番組に出た折には「長崎原爆」(の日でした)も「裁判員裁判」(の特集になるはずでした)もすっ飛ばして、日本中が「韓流ドラマのような興奮と注目に包まれた」(スタッフの弁)酒井法子容疑者の報道に差し替えとなりました。 で、この回の視聴率が「番組歴代最高の18.8%出た」とプロデューサーからお礼のメールをもらいました。番組自体が変わる予定で、「内容がまだ決まっていないけれど、コメンテーターのある番組だったら、また是非よろしく」というのは有難いお声がけでしたが、視聴率が良かったのは明らかに「のりピー」のお陰で、私はたまたまその週に出ていたのに過ぎず、何か申し訳ないような心持ちになりました。「芸能は強し、でしょうか」。Sプロデューサーの総括の一言でした。 さて、ここで冒頭の問いを再び問うてみましょう。 「なぜ覚せい剤、やっちゃいけないの?」 テレビでは大半「シャブを食った(覚せい剤を摂取した)」という段階で、まるで池に落ちた犬に石を投げるように「悪いことをしたから悪いんだ」式のコメントばかりが繰り返されます。この日経ビジネスオンラインでは、小田嶋隆さんがそういう傾向を鋭く批判(「「のりピーの夏休み」は意外に短そう)しておられましたが、とても大事な視点と思います。 麻薬はなぜ「悪い」のか?麻薬はなぜ悪いのでしょうか。「覚せい剤やめますか? 人間やめますか?」 という標語がある通り、1つの答えは 「覚せい剤は体に悪い」 と言えるでしょう。 薬物を摂取し続けることで身体も精神もボロボロになっていく。誰もが耳にする「事実」です。こういう答えに対して、しかし、反抗したくて仕方がない生意気盛りはこんな風に反論するかもしれません。 若者からの反論その1 こんな類の「反論」が来た時、「・・・ええい、要するにダメなものはダメなんだ!」と、結論に短絡してしまうと、大人としての説得力はゼロになってしまいます。 「ちょっとくらいやったって、わかりゃしないよ。『スピード』とかっていって、とってもスッキリして気持ちいいんだってさ」 なんて言う、悪魔のささやきに対して、子供たちを守ってやれない。これではいけません。 「 カッコ悪さ」の抑止力さて、日経ビジネスオンラインでの小田嶋さんのコメントは、子供たちに説得力があるもの、と見えました。私なりにそれを総括すると「覚せい剤はカッコ悪い」 となるように思います。 今日びの若者はみんなファッショナブルですし、女性は永遠に美しくありたいとあらゆる努力を惜しみません、ね。小田嶋さんの指摘は 「覚せい剤を連用していると、確実に肌が汚くなる」 といったいずれも「カッコ悪くて最低」な、シャブ中(覚せい剤中毒患者)の実態を指摘するものでした。 次回、私が10年ほど前にK大学でテクノのライブである「レイブ(Rave)」(酒井法子がノリノリになっている報道で、にわかに有名になりました)の保護者としてハンコを捺した際の話をご紹介したいと思っていますが、時代を問わず、若い子たちは好奇心の塊です。その好奇心が、取り返しのつかない方向に流れないように考えるのが、保護者たる私たちの重要な務めだと考えています。 実際、小田嶋さんも、こうした側面を強調する方が、はるかに抑止効果が高い、という指摘をしておられたと思います。こうした「カッコ悪い」系の指摘に対しては 若者からの反論その2 ほとんど反論が返ってきません。 カッコ悪くて臭くて汚くて・・・という価値判断は、無条件に今の若者たちに 「・・・あ、そういうのだったら『スピード』(小売りされている覚せい剤の名称の1つ)やめとこ」 と判断させるのに明確に効果がある。私も「経験的に」そう思います。 「クスリ」は「取り返し」がつかないことが多い「経験的に」というのは、もちろん私が覚せい剤の経験がある、というようなことではなく、先ほど触れた「レイブ」の顧問をしたケースや、またかつて覚せい剤に手を染めて、更正中の人を数人、少しサポートした経験があること、などによります。テレビ番組「サキヨミLIVE」でも、その経験を話したところ、視聴者からも、また一緒に出ている出演者や制作側からも反応がありました。 かつて私が更正を手伝った中の1人は、両親揃って日本を代表する大学の教授職にあったお家の末っ子でした。 幸か不幸か、豊かな家庭で育った彼は、小学生時代から過分な現金を小遣いとしてもらってしまい、それが災いして中学に入る前後から「地元の先輩」と一緒にグレ始めてしまいました。 それが比較的早い時期に「覚せい剤」で検挙されて、鑑別所、教護院に送致となったのは、ある意味、深みにはまり過ぎなかったという意味では幸運だったかもしれません。私が知り合った25歳の時には、再び社会に出るべく、大学受験にチャレンジしていました。 もともと気のよい子で、私も若い連中の世話を焼く方ですので、よく懐いてくれ、「一緒に頑張ろう」と励んでいたのですが、2年ほど前、突然の不慮の事故で亡くなってしまいました。 休日に仲間と遊びに出かけ、初夏の川に飛び込んだところ、心臓マヒを起こしてしまったのです。 享年28歳でした。正直私も、突然連絡をもらい、お家を訪ね、棺に納められた彼と対面した後、数週間大変にショックで、体調に様々の変化を来たしました。 1回、クスリのようなものでおかしなことになると、そこから軌道修正するのはただ事では済まない。それは意識する以上に切実で、実は身体も至るところ、おかしくなっている。 そういう現実で、普段テレビに載らないような話を、「サキヨミ」は生放送ですので注意してキーワードを選びながらお話しました。いろいろ反響があったようでした。 こういう事実をご紹介して、何か感じてくれる人が1人でもあれば、故人も本当に報われると思います。 生前の彼自身「シャブ中カッコ悪いから、ゼッタイにやるなって、後輩にも言ってる」と繰り返していました。昨日のことのように思い出します。 麻薬が法的に禁止される社会的背景ここまでの範囲の話は、あくまで個人が麻薬を摂取する・しない、という範囲のことを取り扱いました。「身体に悪い」も「カッコ悪い」も、私たち1人ひとりが、あるいは個々の子供たちが、麻薬商人の魔手に引っかからないように、というところがポイントです。 しかし麻薬や覚せい剤はそうした個人レベルを超えた問題を、いくつも引き起こす性格を持ちます。だからこそ、法律でその摂取のみならず、売買はもとより保持すら禁じているわけです。 そうした側面は、最近あまり強調されませんが、やはり若い子たちに伝えていく必要があるのではないか? と思うのです。 ちょっと意外に思われるかもしれませんが、 「覚せい剤は景気が悪い(悪い景気をさらに悪くする)」 単に「景気」を低迷させる、などのみならず、実は社会全体を容易に崩壊させてしまうことが、麻薬が法的に禁じられる最大の理由であること。これを、経済の観点から日経ビジネスオンラインで、つとに強調しておきたいと思うのです。 シャブと景気と「共同幻想」仮に今、夜眠っている間に大金持ちになった夢を見たとしましょう。事業が成功し、所得も倍増、家族も幸せになり、栄華の夢を育んだ・・・。「邯鄲(かんたん)」というお能は、古代中国で50年にわたって栄華を極めたつもりが、実はすべて一夜の夢枕の幻想であった、というストーリーが展開します。人間社会と経済の本質を鋭くえぐる真実が「邯鄲」の中にはあると思います。 さて、この「邯鄲」は睡眠中の夢ですが、これが薬物によって引き起こされる「幻覚」や「幻影」であったならどうでしょう? というのが、ここで考えてみたいポイントです。 19世紀中後半、栄華を誇った中華帝国が少しずつ崩壊していった陰には「アヘン」という麻薬が抜き差しならず関わっていたことは、近代東洋史を紐解けばどこにでも記されているはずです。 ここで「アヘン戦争」を巡る史実には深く立ち入りません。しかし、国の支配階層の多くが嗜好品として幻覚性の麻薬を常用することで、現実とそうでないものとの見分けがつかなくなっていけば、国がおかしくなるのは当然です。 今、実体を伴って価値があるものを、それとして評価することが、健全な産業と市場の成長を促すと考えるなら、実質的な価値を伴わないまま、額面の数字だけが上昇していくことは、産業や市場の身の丈に合わない、資産経済の空虚な膨張ということができるでしょう。この20年来、私たちはこうした中身のうつろな経済膨張を「バブル経済」と呼び習わしてきました。 実際には成長の見込めない企業を不当なほどに高く評価する格付け機関。それによって吊り上げられる、実体経済と無関係に「額面だけ高価」な有価証券類。それらが複雑に組み合わされて、ちょっと見には訳が分からなくなっている金融商品・・・。 これを不動産、住宅ローンで考えるなら、まさに米国で経済危機の口火を切った「サブプライムローン」破綻の本質を示していると言っていいでしょう。 現実に起こっていることの判断がつかなくなって、自分にとって短期的な利得があるように錯覚したまま、夢まぼろしの一時の栄華に耽溺する・・・こう書くなら、サブプライム破綻と「50年の栄華の夢」から覚めた「邯鄲」の事例、そして、肥大しすぎた清朝末期、街々のアヘン窟で「京の夢逢坂の夢」と幻覚の幻に遊んだ人々とが、一直線上に並んで見えて来はしないでしょうか? 中毒患者は幻覚を見てニヤつくばかりですから、現実に市場がにぎわい、商品が売れ、在庫がはけ、生産ラインが回転し・・・といった全体を含む「景気」が良くなるわけがありません。本来は究極の目標である「満足」ないし「快感」を、カタギな社会の循環と一切無関係に、バーチャルにいきなり実現させてしまう・・・若い人が過度にゲームなどに耽溺するのにも私は危惧感を持ちます。「実体と無関係な幻覚としての満足」は、単に景気を悪くするという以上に、社会を、国を、確実に弱体化、ないし崩壊へと導いていきます。 詩人の吉本隆明はかつて「共同幻想」という言葉を使いましたが、アヘン窟や覚せい剤の幻覚が個人でてんでんばらばらなのに対して、新自由主義が見せた幻覚は社会の皆が短期間共有したという違いがあります。 しかし、実体経済に根拠を持たない、つまり健全に育っていく可能性がほぼゼロであるという1点で、つまり程なく「破綻」が約束されているという点、で「シャブ中」と「サブプライム」は同根、同列にあるのではないだろうか? そのように思われてなりません。 サブプライムのサブリミナル実際にはありもしないものにぬか喜びした、という点で、「サブプライム」の架空の夢は「のりピー」が異常にノリノリなハイテンションで「ぽぽぽぽ」なぞと叫んでいるのと、(サブプライム破綻については、被害者には極めて気の毒ではありますが)大して違いがありません。こんな風に書くと「またそんな極論を!」とご批判あるかと思います。でも、ちょっと考えてみてください。もし今、1つの国で若い人々の大半が、地道に実直に「この世」で夢を育てながら社会経済を成長させていく価値を忘れてしまったら? そのように堅実に使えるエネルギーも労力も情熱も、すべてドラッグの幻覚の中で消費してしまったなら?? あるいは、そのように堅実に使えるエネルギーも労力も情熱も、すべてギャンブルまがいの投機戦、ぼろ儲けで利ざやを抜くことだけ考える泥棒マネーゲームに執着するとしたならば??? 現実には、眼差しだけ夢見がちな廃人たちが寝そべっている、寒々としたアヘン窟の空間と、どれほどの差があると言えるでしょうか???? 意識の下では、つまりサブリミナルには、サブプライム商品が自己暴走した社会心理は、依存性のある薬物に中毒患者が耽溺していくプロセスとほとんど変わりがないような気がします。 のりピー、虚妄ではない「本物の生きがい」に戻ってこないか?かつて「宗教はアヘン」という一世を風靡したフレーズがありました。若い人たちの「価値観」という「信仰」が「マネーゲームで要領よく利ざやを抜く」ことに特化、先鋭化してしまえば、国の実体経済は成長を止めてしまうでしょう。カタギなモノ作りや、本当に産業も市場も充実・拡大していく地道な足取りから遊離して、実体と無関係な数字の増大にのみ、飽くなき欲望を募らせていったとするなら、国全体がハゲタカ集団化して、社会は末期的な症状を示し始めるに違いありません。 現実と無関係な「空想の快楽」への耽溺という意味で、根のない資産経済が暴走した新自由主義=ネオ・コンサバティズムの専横は、アヘンや覚せい剤と同工異曲の破滅を招き得るものでした。 手前勝手な夢まぼろしのなかで、自分1人気持ちよくなったまま、現実には国も国際経済もほとんど崩壊、というか実は既に回復=再建が難しい状態にあるのに、それに気がつかない、あるいは気づかないフリをしてやり過ごす、というのであれば・・・。 憂き世を忘れるクスリで、らりぱっぱとなってしまい「ぽぽぽぽぽぽぽ」なぞと口走っているのを、笑うことはできないかもしれません。 「実体と遊離した資産経済の膨張」は、「現実と無関係な幻覚に飲み込まれていくシャブ中」と、その本質においてオーバーラップする部分が大きいと思います。また、その本質的な解決に求められるものも同一であると言えるでしょう。それは何か? 「実体への回帰」がその答えだと私は考えます。 本当にヒト・モノそして金が動き、産業・市場が成長していくイノベーションと、実際にヒトやモノそして金が動き、薬物による幻覚で得るのではない、世界が動いてその結果得られる手応えや報酬などの「快」そして「楽」。つまり、二本の足で大地の上に立って、汗水垂らして働くことで得られる「本物の生きがい」への回帰。 実はこれこそ、私たちの社会が今失っている「大切なもの」を、最も如実に示しているような気がするのは、私だけの錯覚でしょうか? 酒井法子や押尾学を擁護するつもりは毛頭ありません。が、水に落ちた犬に石を投げるように、彼らだけを悪者にしたり笑ったりする資格が、今のこの社会にあるとは、私には到底思えないのです。 麻薬に汚染された芸能人たちの挙動が示すのは、もっとも醜く真実を照らす、鏡に映ったこの社会そのもの、負の実像そのままなのではないか? のりピーもまた、この時代に生きるほかの多くの人間と同様、淋しく悲しい憂鬱な人生を送ってきたのに違いありません。そこで、現実を忘れる薬に走るのではなく、地に足のついた「本物の生きがい」に、戻っておいでよ、と、私たち社会のサイドは厳しく、しかし深い音調をもった声をかけていくべきではないでしょうか? 大所高所から偉そうに、でも、なぜ覚せい剤がいけないかという根拠すら不明なまま「悪いやつが悪い」式の糾弾を繰り返しても、病根がそのままなのだから、必ず第2、第3ののりピーも押尾も現れ続けるに違いありません。 そうではない、振り返って私たちの社会が持つ構造的な病の治癒を考えない限り、この症状は重くなる一方であるように、私には思われてならないのです。 -------- 前回は予想を上回る多くの読者の方に読んでいただき、またコメントもたくさん頂きました。心からお礼を申し上げます。 頂いたコメントの中に、覚せい剤を利用することで、現実と非現実の見境がなくなり、それが暴力犯罪などを誘発する、それこそが禁止の大きな理由であるという指摘がありました。全くその通りで 「覚せい剤は治安が悪い」 これも、若者たちが有無なく「・・・確かにそうだね・・・」と納得する理由と思います。 ただ、 「だから、クスリをやりたい連中は、どこか無人島にでも行って、勝手にやってくれ。俺たちに影響のないところでヤル分には、治安は悪くならないから」 といった見解は、いかがなものでしょうか・・・。私は、そうは思わないのです。単に「治安が悪くなるから」が、覚せい剤の社会普及を法が禁止する、最終的な理由ではない、そう考えています。今回は、前半よりもう4〜5歩踏み込んで、子供たちに 「クスリって本当にダメだよね」 と思ってもらえる、理由の「源流を探訪」してみたいと思います。 セックス&ドラッグから始まった「音楽への今日的アプローチ」改めて考えると、まる10年前のことでした。1999年、テレビ番組「新・題名のない音楽会」の監督などをリストラしてもらい、博士の学位を取った私は、一方で慶応義塾大学の教壇に立ち、他方NTTコミュニケーション科学基礎研究所の客員研究員として、基礎研究と教育のサイドにシフトして、それまでの毎日の、正直砂を噛むような音楽の現場と少し距離を置くようになりました。どの業界もそうでしょうが、芸能界やテレビの仕事は、正直いい部分ばかりではなく、音楽作りを良心的に考えようとすると、救いようのない現実と直面せざるを得ません。20代半ばから現場で飯を食ってきましたが、もう少し本質的な問題と向き合いたいと思った、私にとっては34歳の転機でした。 私を教壇に迎えてくれた慶應義塾大学には、当時も今も変わらず最も感謝しています。元来、貧乏性でワーカーホリックな私は、一般教養の「音楽」のコマを担当しましたが、当時勃興期にあったインターネットの仕組みを多用して、自分としては創意を持って全力投球するつもりで授業を作っていきました。 特に私が考えたのは、200人くらい入る大人数教室で、学生に自分の好きな音楽について30分くらい発表してもらって、講評とディスカッションをするというもので、タイトルを「音楽への今日的アプローチ」とつけました。 耳で聞こえる音楽であれば、およそどんなものでも持ってらっしゃい、サウンドやビデオグラムなどをみんなと一緒に視聴しながら、音響の脳認知という基本的な道具だけで、どんな音楽からでも人間にとって基本的な問題をえぐり出すことができるのだから、というのが「売り」の授業です。 まだ学生と歳が近かったこともあってでしょうか、幸いこのコマはそこそこ好評で、ディープにはまってくれる学生もけっこうな数あり、私としても楽しく仕事させてもらいました。 この当時、慶應義塾大学で教えていた中でクラシック音楽の切り売りで食っていたのは多分、私1人と思いますが、その私が「ヘヴィメタ」「ビートルズ」「松任谷由実」から、コマーシャルのサウンドエフェクト、「ノイズ」「ドラムンベース」などなど、ありとあらゆるジャンルの音楽を、大学という音楽の解剖台に乗せて、客観的な角度で切り開いてみせるということをしてみたわけです。学生たちとはとても仲良くなり、慶應義塾大学の学園祭「三田祭」の歌コンテストの審査員に呼んでもらったりしたのも、とてもいい思い出です。 さて、この授業のシリーズの、一番最初の発表者はT君という学生で、2009年現在は29歳くらいになるかと思いますが、彼は「ベルリン・ラブ・パレード」という「テクノ」(「ク」と「ノ」にアクセントがある、尻上がりなイントネーションで読みます)の巨大イベント「レイブ(Rave)」について発表しました。 このベルリン・ラブ・パレードはとりわけ、ホモ・セクシャルやトランスジェンダーなどの「セクシャル・マイノリティー」のデモンストレーションという側面があります。そしてもう1つ、このレイブを考えるうえで、どうしても切り離せないのが「スピード」こと、覚せい剤にほかなりません。 私の慶應義塾大学「音楽の今日的アプローチ」の最初の学生発表とディスカッションは社会的に抑圧された人々が「セックス&ドラッグ」で自己解放する、非日常の「祭り」としてのテクノを批判的に考える、というところからスタートしたわけです。 六本木でレイブの身元引受人になるベルリン・ラブ・パレードの発表をしたT君は、言うまでもなくテクノが大好きなわけですが、覚せい剤をヤッていたりはしないわけで、テクノという音楽が、いかにして「クリーン」=「セックス&ドラッグ抜き」に音楽として日本で楽しめるか、といった内容が、ディスカッションの1つの焦点になりました。若い人は意見が直線的で辛らつです。クラシック音楽が好きな学生たちからは、比較的単調な音響が催眠的に反復するテクノを、「クスリでもヤッて舞い上がりながらでないと、聴くに耐えないんじゃないの」なんて指摘したりする。その後の数週間の授業でも、折に触れてこうしたトピックスで盛り上がり、ついに学生たちの間から「実際に六本木でレイブをやってみよう」ということになりました。 当時19歳だった彼らは「六本木で店を借りてイべントをやろうよ」という話に盛り上がったのですが、店の借用には身元引受人役の成人のハンコと署名が必要でした。 ある日の授業が終わった後、T君たちは「身元引受人になってくれませんか?」と私のところにやってきたわけです。 私「実際にやってみよう、ってわけだね。それは悪くないと思う」 T君「これが店の借用書なんですが、ハンコを・・・」 私「まあ、そう急がないで、ちょっと考えてみてよ」 彼らが最初に来た時は、計画はまだ、かなりずさんなものでした。収支その他からして、プランが明確ではない。「学園祭だってもう少しきちんとしているのだから」と計画を立て直させるところから始めました。「特にテクノに興味がない」と否定的だった子たちと一緒に制作してみること、終わった後で経験をシェアしてみることなど、「教育的」な条件をいくつかつけてみたわけです。 「責任意識」を共有させること翌週だったでしょうか、T君やS君など数人の学生が改善案を持ってやってきました。私「分かった。で、最後に、ダメ押しするけれど、クスリは一切関係するな」 T君「もちろん、分かってます」 私「いや、六本木って場所で、こういうことを公開でやれば、放っておいても売りたい連中とか紛れ込んできてしまうんだ。もしそういうのが来たら、どうする?」 T君「え・・・ええと・・・」 私は六本木のテレビ朝日で地上波の番組を作っていましたので、あまり表に出ない種類の噂なども、ひと通りは耳に入れていました。学生たちは確か西麻布のライブスポットを借りたように記憶していますが、間違いなく街区にはいろんな連中が棲息しています。 「教育」にはいろんな形があると思います。学生たちがテクノのレイブをやろうという時、絶対に異分子が入ってこない、例えば神奈川県藤沢市の山の奥とか、富士山麓とかで開催することも可能でしょう。 でも彼らは「六本木」という、清濁併せ呑む町のど真ん中で「レイブをやってみたい」と言ってきた。そこで「保護者として私に責任を取ってくれないか」と聞いてきた、そのことの意味を、学生たちによく認識させたうえで、実際に行わせてみるのが一番いいと、私は考えました。 私「いいかな? もし今回そこで変なことがあって、事件になったりしたら、君らも大変だけれど、その『顧問』をした僕も、ただでは済まなくなる。責任を取らなきゃならない。分かるかな?」 学生たち「・・・はい・・・」 私「慶應をクビになる、なんて当然だし、それどころか僕1代じゃない、3代4代やってきた家業の音楽活動全体ができなくなる。社会的に俺も死ぬことになる。それが責任を取るってことだよ」 学生たち「・・・・・・」 私「俺も大切に自分の仕事をしてきたし、まだライフワークの本番はこれからのつもりなんで、ここで俺まで潰さないで欲しいんだけど・・・約束できるかな?」 学生たち「はい!」 私「よし、じゃあ、きちんと危機管理の対策を立てて、それも報告持ってきて」 ざっとこんなようなやり取りをして、彼らのイベントの「身元引受人」になりました。当日は、始まる前に会場をざっと見、イベント自体は30男のおっさんは顔を出さず、終わった後で安否の確認に行きました。トイレなども含め、異臭もせず、おかしなことは一切なかったことを確認して、打ち上げ用に少しカンパして現場を引き上げました。 「現場」でなければ予防教育にならないハサミやカッターは手を切る可能性があります。だからと言って、いつまでもハサミもカッターも持たせなければ、それらを使えるようにはなれません。学生たちは、その気になれば、私のような教師と無関係に3〜4年生その他の成人を「身元引受人」にして、六本木でも麻布でも、どこでもレイブを開けます。ここで私が「学生たちの変なものに関わって、余計な火の粉が降りかかるのはマッピラだ」と身元引受人を断ることもできました。ただ、そこで考えたのは 「もし君たちが粗相をすると、それは親や教師、周りもタダじゃ済まない。その責任意識を持って、不測の可能性も事前に引き受けたうえで、危なっかしい六本木のど真ん中で『クリーンなテクノ』を実践することに意味がある。それを、テクノに興味のないという学生たちと一緒に制作してごらん」 という教育的な狙いでした。終わった後、教室では「テクノ反対派」だった女の子とか、「実際に会場を作ってやってみると、面白いですね」なんて言っているのを見ながら、「ああ、こういう課外の番外編もやってよかったな」と思ったものでした。 「無菌培養」では抵抗力はつかないと思うのです。学生たちは、汚濁に満ちた社会に出ていかざるを得ない。普通の「新入生歓迎コンパ」だって、街中のオープンスペースでやっていれば、バイニンは平気で入ってきます。彼らはそれがシノギなんだから。そういうものと、決然と一線を画することを、大学あたりで教えなきゃいけないのです。 2006〜7年頃から、慶應義塾大学や東京大学も含め、キャンパス内に大麻や覚せい剤がかなり出回るようになったようです。逮捕者も出ました。 と言いながら、大学当局は「大麻ぜったいダメ」みたいなポスターを貼る以上のこと、本当に学生を守る予防教育など、全くしていないと思います。 こういう時、 「俺が責任は持ってやるから、その代わり迷惑かけないようにしてくれよな」 と、相手への「信頼」を確認することで、学生を麻薬濫用から本当に守ってやることができるのではないでしょうか? 器量を持って「予防教育」している大学サークルや同好会の顧問教師は、大変少ないと言わざるを得ません。 これ、企業の一般業務でも同じじゃないでしょうか? 若い人が思いを持って企画を立ててくる。それを、安全措置などは補強させるとして、ある段階まで来たら 「よし、じゃ責任は俺が持つから、ひとつ好きなようにやって来い!」 と、部下を信用してこそ、人を育てる上司になるのではないか。少なくとも役所全般や国立大学に関しては、こういう器量のある人は、突出した人が存在する反面、圧倒的多数はサイレントマジョリティーというか、事なかれの責任回避体質が染みついているのが実態でしょう。 麻薬と学生の関係もまたしかり。大学当局や教師は大半が「余計な面倒とは関わり合いにならないに越したことがない」と思っている、それが本音と思います。 でも街にはバイニンがおり・・・キャンパスもオープンスペースですから、実は学内にもバイニンは入り込んできており、学生たちは無防備ですから、広まらない方がおかしい。まして、芸能人なんかはもっとナイーブですから、「のりピー」のケースは一事が万事に通じている、言うまでもないことです。 東ベルリンでの逸脱経験私は幸か不幸か、器量のある先生方(と、かなり大胆な親)の元で育ったおかげで、10代から様々な危なっかしい経験をすることができました。というか、責任を任されることで、逆におかしな道に入り込まず、自分を守る知恵も身についたと思っています。私は18歳の時、大学受験に失敗したのですが、浪人中であるにも関わらず、すでに給費が決まっていた西ドイツ留学に出してもらうという逸脱的な経験をしました。パスポート以外の身分証明書がない。予備校に行くのに定期券が買えない、なんて事実に改めてショックを受けたりしながら、ハイティーンで単身、ヨーロッパに出してもらったのは、かなり決定的な経験になりました。 このコラムにも書いたことがありますが、旧東ベルリンで警官にイチャモンを付けられ「米ドル建てで」罰金を取られたり(もちろんポリスがポケットマネーにするのです)、あれこれ「大ケガにならない程度」の逸脱の経験は、ペーパーテストでは絶対に学べない「地アタマ」のトレーニングになった(?)と思っています。 ちなみにこの「東ベルリン」、18歳の私はかなり腹が立ち、また向こうが体制側からしてそう来るなら、こっちにも考えがある、とばかりに、翌日米ドルを多めに持ち込んで、事前に情報を得ていたフンボルト大学周辺のエリアに行ってみました。すると果たして 「・・・ハロー、いい天気ですね。あの・・・私は学生で、アメリカの本が買いたいんですが、米ドルが・・・」 なんて言いながら、若い男が(やはり聞いていた通りの感じで)近づいてきました。そこで、かねて準備の米ドルを取り出し、相手が 「え? いいんですか!? こんなに!!!」 という程度、東ドイツマルクと米ドルを「超法規的換金」してやりました。自称学生さんが「ダンケ」を連発しながら小躍りして消えていく様を今でも覚えています。 ところがこの闇換金、安手の紙幣もアルミの貨幣も、使っても使っても全く減らない。最終的には壁のコチラでは絶対に手に入らない、東ドイツやソ連の楽譜やLPレコードを大量に買い込んで帰ってきました。両手に抱えきれないほどの大荷物を持って入った税関、「チェックポイント・チャーリー」では、ドイツ語で嘘八百の書類を書かねばならない。素浪人の18歳、かなり心臓を鍛えられました。 実は当時私は、音楽に進むことは決まっていましたが、大学では死んだ父と同じ数理経済を勉強しようと思っていたのです。マルクス経済学もアウトラインは知っていました。ところが、実際に行ってみると、ベルリンの壁の前には射殺された人の数だけ十字架が並んでいるし、東側の体制は子供の目にも明らかにめちゃくちゃ。 経済原理や、人間が決めたルールは儚いものだな、と心底痛感して、学校での勉強は人の勝手にならない物理をやろう、と進路変更することになりました。ちなみにベルリンの壁が壊れるのはその6年後のこと。今でも私は経済学が好きですし、ファンとしてマクロやミクロを考えますが、「思考の枠組み自体を疑う」という癖が、あれ以来抜けません。 こんな経験もあったので、18〜19歳が大半の慶應義塾大学の1年生たちにも「ケガしない範囲で、リアルな世間で一本筋を通す経験をしてごらん」と、六本木レイブの顧問=身元引受人を、安全ルールを約束したうえで、引き受けてやることにしたわけです。 オウム「サリン」と覚せい剤正直、日本国内の国公(立大学法人&)私立大学当局の、学生の薬物濫用その他への腰の引けた対応には、かなり憤りも持ちますが、それ以上に諦めの意識を強く持たざるを得ないのです。それは、事故の再発防止といったことに、日本の大学は本質的に無関心、というより、関心があるような装いで無関心をラッピングしている事実に、心底懲りているからです。 私には、オウム真理教にマインドコントロールされて、地下鉄にサリンを撒いてしまった大学時代の同級生がいます。現在も接見を続ける親友、豊田享被告ですが、今月、9月14日には豊田君たちの最高裁・最終弁論が開かれる予定です。あれから14年、被害者側も加害者側も、またその家族や関係者にも、この事件は終わっていません。 世の中では、今でも 「大学・大学院で高度なサイエンスを学んだ理系超エリートが、なぜ?」 「理解できない」 などと言われますが、オウム・地下鉄サリンの後も、大学ではああいった事態が再発しないような予防措置、予防教育など一切していませんから、「統一教会」「親鸞会」など、カルト新興宗教はキャンパス内にはびこり続け、被害者も出続けている。大麻や覚せい剤のケースも全く同様です。 それどころか、この両者は実は密接な関係を持っています。オウム真理教の場合、信者をだまくらかすのに、覚せい剤や麻薬が効果的に利用されています。「サリン」が作られた化学プラントは「覚せい剤」製造目的で作られた可能性があるとも指摘されます。 実際には国内で危ない思いをして作るより、海外から輸入した方が「安価で良質なシャブ」が手に入るということで、背後にあったプロの犯罪集団が見切りをつけてこれらは立ち消えになった。その後の施設が、いつの間にか「サリン製造プラントに化けた」可能性が指摘されているものです。 こうした関連を記した拙著『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)を書いた時も、本に書ける「ある一線」までしか記述を制限せねばなりませんでした。実際にいろいろ調べると、分かってしまうことがあるのですが、半分は確証を取るのが難しいこと、それと私も自分の本業、一身が大事ですから、あまり危なっかしいことに踏み込んではいけないことがあって、自分で線を引いて、本に書くことと書かないことを決めました。 覚せい剤、LSD、各種闇紳士から暴力組織まで、胡散臭い話は山ほど耳にしましたが実際、大半は記すことができません。テレビではもっと、話せることが限られます。でも逆に、その限られた中でどこまで表現できるかが、テレビに関わってきた人間としては勝負だと思うのですが。 LSD洗脳としての「イニシエーション」以下は本にも書いたことですが、オウムは「イニシエーション」と呼ばれる各種の「儀式」を行っていました。ここではLSDを始めとする、幻覚性の薬物が多用されています。こういう事実が、社会一般に広がっていきません。テレビで取り上げないのが主要な理由と思います。今回の「のりピー」「押尾」は 1つの契機と思いますので、もう一度これをお話したいと思います。「イニシエーション」の被害者であるオウム信者は、クスリを入れられた体で、過度の恐怖感、あるいは極楽浄土のような至福感、はたまた、教祖などが超常現象を起こしているような幻覚を見せられたり、集団から殴る蹴るの暴力を加えられたりしています。そうやって、おかしな状態に持っていかれた、その果てに「地下鉄内でのサリン散布」があるのです。 先日も、とある、ヨガの知識があり、分別のある立派な社会人の方から 「あぐらをかいたままジャンプするだけの<空中浮揚>に、どうして騙されるのか分からない」 と言われました。でもその人だって、LSDや覚せい剤を注入されれば、麻原彰晃の指先や鼻の穴からピンクの小象が行列をなして出てくるのを見る可能性だって低くないでしょう。 常識を疑うことなく信じている人に限って、そういう「事実」(ではないのですが)を見せられてしまうと、完全にヤラレてしまいます。「自分を疑え」「目に見える世界は幻」というソクラテス=プラトンの哲学は、こういう時に本当は活用せねばならないのですが。 薬物を投入された、異常な状態で体験した記憶は、常態に戻った後も人間の脳裏に残ってその人の行動や判断を支配し続けます。 オウム事件では「マインドコントロール」という言葉が一般化しましたが、マインドコントロールは暴力や薬物などを使わない「心理操作」です。 そうではなくLSDを使って行われる「イニシエーション」は「マインドコントロール」ではありません。一般にブレイン・ウォッシング、つまり「洗脳」と呼ばれるものです。 この事実を、はっきり認識し直す必要があると思います。 クスリは人を奴隷にするこれは一番基本的な事実なのに、社会にうまく理解されていないポイントだと思います。麻薬中毒者はクスリに依存し、禁断症状が出ると苦しみます。クスリ欲しさに何でもする、罪も犯す。これは「薬物を使った人間操作」つまり「洗脳」の状態そのものです。覚せい剤中毒になると、人は二重の意味で「奴隷」になります。1つはクスリの奴隷になること、もう1つは、クスリをくれる人にコントロール、支配されるロボット的な奴隷になってしまうことが少なくない。 こうした基本的な事実を、とりわけ若い人たちに、私は強調して伝えずにはいられないのです。 「覚せい剤やってると、奴隷に洗脳されるよ」 この「理由」は、若者も子どもも、大半が即座に「・・・それは本当にイヤだな・・・」と受け入れてくれるように思っています。 来週、最高裁で開かれる、私の親友の最終弁論の後、早ければ2週間程度で結審してしまう可能性があります。もし友達の死刑が確定するなら、初めての経験で、私も物事の考え方を根本的に再検討することになると思います。 優秀な、人間的にも素晴らしい人物だった親友が、どうしてあんなことになってしまったのか。 はっきりしている理由があります。 クスリを併用する「洗脳」のテクノロジーが、可能性に満ちた優秀な若者の未来を、無へと捻じ曲げてしまった。言葉に尽くせません。 オウムに操られた親友の最高裁判決を前に、改めて、薬物を併用して人を殺人マシーンに仕立て上げたり、地下鉄に毒ガスを撒いたり、自殺特攻させたりする。そういう非人間的な「コントロール」全体に対して、一個人として私は確信を持って「ノー」を言いたいと思うのです。 「ラブ&ピース」は愛にも平和にもつながらなかった「のりピー」や「押尾」のゴシップ報道をご覧になる時、どうか思い出していただきたいのは「オウム」そして第2次世界大戦末期の日本にほかなりません。「向精神性の薬物」は「社会全体を簡単に崩壊させかねない」恐ろしい可能性を持っています。クスリは人の自由を本質的に奪うものです。誰もがクスリを喫するようになり、街中が「ラリパッパ」状態、ハシが転げても楽しい、という状況になれば 「ハッピーでいいじゃん」 という若者がいるかもしれません。実際1970年代初頭、学園紛争に敗れるなどし、青春の蹉跌のなかで、映画「イージーライダー」のように ラブ&ピース の桃源郷を求め、同時にセックス&ドラッグ に走った人たちも存在しました。 でも、クスリをヤルと現実が直視できなくなります。というより、そもそも現実に何が起きているのか、正確に理解することができなくなって、ただただ楽しく「ぽぽぽぽぽぽぽ」などと言っている。 この状態は一種の痴呆、最近の表現を使うなら「認知障害」にほかならない。これ、かなり悲しい状況です。ラブ&ピースは、愛にも平和にもちっともつながらなかった。もし薬物症状による痴呆を「愛」だ「平和」だと強弁するなら、あまりに悲しすぎます。事実はかくの如し。麻薬がどれくらい亡国の薬物であるか、学生たちにはもっと肌身に感じて欲しいのです。 テロ組織の資金源に疑われるクスリ先ほどから繰り返している通り、21世紀に入って麻薬や覚せい剤事犯が増え、大学内でも麻薬事犯で検挙される学生が出るようになっています。この背景の1つとして、テロ組織が資金源として麻薬や覚せい剤を「脇の甘い先進国」(日本のことですが)で換金しているらしい事実が挙げられています。以下は、内閣府などの情報を静岡県立大学の西田公昭先生がまとめてくださったものをご紹介したいと思います。 「最貧国」と呼ばれるような国々で生産された「白い粉」や「乾燥した葉っぱ」などは、様々なアンダーグラウンドのルートで、まず効率よく通貨に化けさせることが可能な「脇の甘い先進国」に持ち込まれます。 ここで換金された後、小型火器を導入するならフィリピン、自爆テロリストの兵士が必要ならバングラデシュ、といった具合に、再度別種の途上国に持ち込まれます。日本でクスリを売るのは「換金」の手順でもあり、また「虚栄をむさぼる先進国」を芯から腐敗させるという二重の目的にも適っているのだそうです。 一度、途上国の目からは「信じがたい富貴の国」である「日本」を通過することで、ある国で作られた、どうということのない化学物質の結晶や植物の葉っぱが、別の国で、人ひとりが命を捨ててもいい、一族みんなが生涯暮らしていけるほどの巨万の富に化けてしまう。恐るべきマジックの仕掛けがここにあると言います。 内閣府の危機管理会合で西田先生が聞かれたレポートによると、インド・ムンバイあたりで自爆テロで死んだ兵士の「家族への俸給」には、日本で大学生や芸能人が買ったクスリの対価も混ざっている可能性が高いのだそうです。本当なら、驚くべき事実です。 でも、考えてみると確かに納得はいきます。日本円で10万円とか100万円という金額が、国民平均年収2ドルというような国でどういう意味を持ってしまうか。それを理解しない限り、自爆テロ兵士がいつまでも補給され続ける理由は分かるわけがない。西田先生から伺った、重い重い時代の構造と思いました。 猫目錠と一億玉砕今触れた「自爆テロ」バングラデシュなどの最貧層で、親や妻子、一族の富貴と引き換えに自爆兵士として「決死の覚悟」をした人たちにも、「向精神性の薬物」が投与されて大きな作用を及ぼしている可能性が考えられています。というより早い話、覚せい剤の主要成分は、そもそも日本で発見・単離されたもので、欧米で工業的な大量生産法が確立された後、1930〜40年代、とりわけ第2次世界大戦中は「疲れを吹き飛ばし」「無駄に眠ることなく国内の生産性をアップし」「戦地にあっては兵士たちの士気を高揚させる」国家資源として位置づけられていました。実際、東京大学帝国医学部も、その効果を称揚する研究論文をある時期までたくさん出しています。 こうした歴史を直視する必要があると思います。当時、クスリは別の名前で呼ばれていました。 当時は普通に薬局で買うことができた「睡眠薬」と対になる「眠気防止薬」(=「覚醒」剤)の商標です。太宰治、坂口安吾、あるいは後にノーベル賞を受賞した川端康成などもヒロポンを普通にしていた。文士のヒロポン愛好者は決して少なくありませんでした。 禁止される以前、「覚醒」剤は「かぜ薬」と同様に、当たり前に社会に流通していた薬剤の1つに過ぎなかった。 そしてその時期はまた、日本は常軌を逸した「八紘一宇」「本土決戦」「自殺特攻」から「一億玉砕」に至る、亡国の坂を転がり落ちる「失敗戦略」を繰り返し続けた時代にも重なっています。 厳密な科学的手続きを求めるなら、第2次世界大戦中期・末期の日本の戦争指導部の方針と、覚醒剤使用との因果関係を立証することは困難でしょう。 しかし「猫目錠」などの名の下に、貴重な「資源」であるとされたアンフェタミン(覚せい剤の主要成分)を抹茶と練り合わせて錠剤にしたものが、歩哨や見張り兵士などにまで配られていた事実を、改めて認識することには意味があると思います。『さよなら、サイレント・ネイビー』にも、この辺りの経過は細かく記しておきました。 クスリは「失敗の本質」を繰り返す現在は「経営の暗黙知」で知られる野中郁次郎さんが、防衛大学校時代になさった秀逸なお仕事に「失敗の本質」の共同研究があります。そこでは、現実を見ようとしなかった日本の戦争指導部の愚かさが如実に実証されています。今考えれば「どうしてこんな愚策を」と思うのに「カミカゼ」が吹くことを前提としたような、無理かつ無茶な作戦立案の数々・・・それが国全体の(吉本隆明氏の言葉を使うなら)「共同幻想」となっていた背景の1つに、私はクスリがあるのではないかと考えています。 実際、夜中の空襲が普通だった戦争末期、国内にはアンフェタミンが蔓延し切っており、その影響を無視することは難しいのではないかと思うのです。 「現実を直視できない」 「合理的に判断して的確な行動が取れない」 「喜怒哀楽、いずれの感情も、振れ幅が大きくなりすぎて、責任ある対処が不可能になる」 これらいずれも、第2次世界大戦末期の日本にも、ワイドショーで報道されるゴシップにも、共通して当てはまるようには見えないでしょうか? 合成麻薬の大量摂取によって、同衾していた女性に異変が起き、最終的に死亡してしまう過程で、押尾学容疑者が取ったとされる行動。あるいは、夫が検挙された折「辱しめを受けたわ!」と叫んだり、突然号泣したりしたという酒井法子容疑者が取ったらしい行動。すべて 「現実を正確に把握できず」 「合理的な判断行動が取れない」 「異常な感情の振れ幅を示し、無責任な行動に走る」 という点で、第2次世界大戦末期、「猫目錠」が過剰摂取されやすかった時代状況と酷似していると、私には思われてなりません。 さらにここで「覚せい剤は洗脳の道具」という基本事実を思い出しましょう。 もし、1つの国全体、あるいはその指導部の大半が、薬物依存的な状態に陥ってしまうなら、それを外部から恣意的にコントロールすることが、とても容易になるのは自明のことです。「アヘン戦争」以降の清朝をはじめ、歴史に事例は多く存在します。 これはもう失敗国家とかそういう言葉を超えて、末期も末期、もう、どうしようもない状況です。そんな状況に社会経済を簡単に追い込んでしまうこと、それが麻薬・覚せい剤の「亡国」の恐ろしさだと強調せねばなりません。 若い人たちに「覚せい剤は亡国のクスリ」と言っても、どれくらいピンと来るか、定かではありません。しかしこれを「シャブは洗脳の道具」なんて言うと、もう少し理解度が上がってきそうです。「クスリやってると奴隷にされるよ」など、道を踏み外しやすい世代に、より通じる表現から、工夫する必要があると思っています。 「ミュージシャンだから」は理由にならない最後に、酒井法子や押尾学、あるいはマイルス・デーヴィスでもビートルズでもいいのですが「ミュージシャン」と「クスリ」の関わりにも触れておきましょう。音楽に関係する人がクスリにはまるのには、大別して2つのケースがあると思います、 1 才能が足りない 2 心に問題を抱えている 実際には両者が混ざっていることが多いと思いますが、分かりやすいように箇条書きにしました。 ロックミュージシャンなどがクスリに走るケースなどで、しばしば「創作に行き詰まって」というフレーズを耳にします。ハッキリ書くなら、要するに、音楽の能力の低い人、素人が、格好だけミュージシャンしていることが間違いの大本と思います。 なーんて、こんな風に慶應義塾大学の授業などで断じますと、大半のケースで学生から反発が来ます。自分が好きなアーティストを、壇上の教師風情、と思っているやろうが「才能が足りない」などというのは面白くないでしょう。このコラムでもそういう可能性はあると思います。 しかし、例えばマイルス・デイヴィスのような人も、彼の場合、音楽の能力というよりメンタルな面が強いですが、私の従兄弟、ジャズ・ジャーナリストで整形外科医でもある小川隆夫が、主治医として付き合った、一患者としてのマイルスの話を聞くにつけ、弱い人間の面を如実に感ぜざるを得ません。そこで、 「彼(彼女)はアーティストのデリケートな感覚は、現実に耐え切れなかったんだ。それでクスリの力を借りて・・・」 などと美化しては、絶対にいけないのです。やはり何かが足りなかった。それは厳然たる事実です。 ファンは美しそうなストーリーを考えたがるものです。それはファンというマインドコントロールの状態にあるからアバタもエクボに見えるのであって、実際には前回も記した通り、汚くて、臭くて、年より老け込んでしまった、シャブ中のうすら寒い、悲しい現実があるだけ。 変に美化したドラッグ伝説は、若い人が道を踏み外すキッカケを作りかねませんので、明確に「才能不足」など、教室ではくだらぬイリュージョンを粉砕する表現を取るようにしています。 「心のサブプライム」は「私たちの問題」もう1つは、これは音楽に限らない、どんな人にも訪れ得る「心の隙間」、悲しい現実からの逃避が人を幻覚性のクスリに走らせます。そこで、先ほどの「六本木レイブ」の時にも触れた「信頼」、心の底から安んじてつき合える人間関係の大切さを思わないわけにはいきません。 テレビ番組を制作していた頃、芸能界のいろいろな体質が正直とても嫌でした。特に「人を信じられない」精神風土が、正直何より嫌いでした。 テレビや雑誌、さらにはインターネットなどには、真偽とは別に様々なゴシップが氾濫していますが、実際、酒井法子や押尾学がクスリに走った「憂鬱」の背景には、現実を直視したくない、芸能界を含むメディア社会の「人間不信」風土があると思います。 そう考えると、なおさら、単に「落伍した芸能人を叩く」といった反応(をテレビではよく見るわけですが、私自身テレビに出る際には決してこれだけは言わないようにしておりますけれど)ではなく、私たちの社会自身が抱える精神の貧困が、もっとも悲しく表れた現象として、こちら側にも引き受けて考えてこそ、再発防止や改善の役に立つと思うのです。 一連の「のりピー」報道を見て一番強く思うのは、見かけだけは派手に膨張しながら精神的な内実は全く空虚な「心のバブル」です。あえて引っ掛けて言うなら、信用ならざる「安全安心・信頼感のサブプライム破綻」が起きている21世紀日本の社会風土そのもの、とも言えるでしょう。 のりピーのサブプライムな憂鬱は、決して1人のものではない。彼女や押尾学が端的に示してしまった心の病を、一人称複数の観点で解決していくこと、アチラ側の腐りきった出来事、と傍観するのでなく、日本社会の疾病、「私たちの問題」として根治に取り組むことこそ、「亡国のクスリ」から私たちの国、私たちの社会を守る最大のポイントなのではないかと考えます。 (つづく) 著者プロフィール |