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7月10日(金)。10時40分から講義があったが、ギリギリまで参議院の「インターネット審議中継」をみていた。10時開会の参議院本会議。臓器移植法改正案についての厚生労働委員長の「中間報告」が行われた。審議経過が淡々と報告されていく。だが、このタイミングで厚生労働委員長が報告をしていること自体、実は問題なのである。
委員会で審査中の案件について、本会議で「中間報告」を行うことができる(国会法56条の3)。これは、委員会の審議を途中で打ち切り、本会議で直接審議(採決)する仕組みである。「中間報告」が行われると、委員会で再び審議されることはまずない。つまり「中間」とは名ばかりで、委員会審議打ち切り、本会議吸い上げとほぼ同義である。とはいえ、それがなされるのは「特に必要があるとき」であって(国会法56条の3第1項)、さらに、本会議で直接審議(採決)ができるのは、「特に緊急を要すると認めたとき」とされている(同第2項)。委員会中心主義がとられている以上、よほどのことがない限り、審議打ち切り機能をもつ「中間報告」は使われるべきではない。では、臓器移植法改正は「特に緊急を要する」状況にあったのだろうか。
6月18日(木)。衆議院本会議で、脳死を一律に「人の死」とし、年齢制限を外した「A案」が一発で可決された。この時も「中間報告」が行われ、厚生労働委員会での採決なしに、本会議に4つの法案が抜き身で上程され、採決に付された。その際、ほとんどの政党が党議拘束(政党所属議員が党決定に従った投票行動をとること)を外して、投票行動を議員個人の判断に委ねた。その結果、大方の予想に反して、「A案」が一度で可決されたのである。直言で「走る国会」状況について批判したが、そこで紹介したように、審議打ち切りとなった衆院厚生労働委員会のメンバー45人のうち、27人が、本会議での採決で「A案」に賛成しなかった。この事実は重い。委員会でさまざまな立場の参考人の意見をしっかり聴いた委員たちは、性急な「A案」には躊躇せざるを得なかったのだろう。
こうして、衆議院の所管委員会で採決しておれば通らない可能性の高かった法案が、参議院に送られたわけである。「良識の府」「再考機関」といわれる参議院では慎重な審議が期待されたが、わずか17時間で「中間報告」に突入してしまった。西岡武夫参院議院運営委員長は「脳死を『人の死』とする国民の意思が定まっていない」として、議決には一貫して慎重だったという(『読売新聞』7月1日付「スキャナー」欄)。『朝日新聞』7月12日付社説のタイトルは「臓器移植法案 参議院らしさを見たい」だった。参議院は「A案」を簡単に通すことはないだろうという期待も込めて、社説は、「再考の府としての参院の責任はきわめて重い」と書いた。だが、期待は裏切られた。
参議院では野党・民主党が「中間報告」の方向に舵を切ったのである。なぜか。地方選挙や都議選で自民党は連敗。麻生内閣不信任決議案(参院は問責決議案)を出すことが決断されたからである。これを「特に緊急を要する」事情とするのは、あまりに「政局」的発想だろう。だが、実際はそうなっていった。当初は10日の「中間報告」のあとにすぐ採決の予定だったようだが、さすがに民主党内部からも異論が出て、13日にのばされた。
7月13日(月)午後1時1分。参議院本会議開会。まず、衆議院で可決された「A案」に対する参議院の修正案が賛成72、反対135で否決された。すぐに「A案」の採決が行われ、賛成138、反対82で可決された。衆議院を通過した法案なので、これが可決されれば成立となり、他の案の採決はできない。その結果、「子ども脳死臨調設置法案」(E案)は採決に付されることなく、廃案となった。議事録によると、閉会は午後1時5分とある。たった4分で、「人の死」に関わる重要法案があっけなく成立したわけである。ちなみに、参議院厚生労働委員会のメンバー(7月7日の最後の委員会出席者)21人のうち、本会議での「A案」賛成者は13人。7人が反対し、自民党の1人が欠席した。民主党は4対5で反対が多かった。
なお、この日の午後、麻生首相は7月21日に衆議院を解散し、8月30日に総選挙を行うことを決断した。夕刊各紙のなかでは、解散・総選挙よりも、臓器移植法改正を大きく扱った『毎日新聞』の一面が印象に残る。選挙が終われば、麻生首相の決断時期などはすぐに忘れられる。むしろ、臓器移植法改正「A案」成立の日の方が重要だろう。この点、『毎日』夕刊の当番デスクの判断が光る。
さて、本来ならば、委員会採決の際、特に与野党が対立する法案の場合、多数の附帯決議がつくものである。だが、衆参両院とも、「中間報告」方式により本会議での直接可決だったから、附帯決議は一本もない。「人の死」に関わる重要な法案だから、もし通常のように委員会審議を続けていたら、おそらく採決時には多数の附帯決議がついていただろう。
このようにして「A案」が成立したわけだが、現行臓器移植法6条2項から、臓器移植をする時に脳死を「人の死」とする部分を削除したこの案への疑問はつきない。現行法については、12年前にラジオ第一放送「新聞を読んで」で取り上げた。当時から一貫して、私は臓器移植のハードルを下げることには批判的である。6条1項では、臓器提供について、本人が書面による意思表示を行っており、しかも、「その旨の告知を受けた遺族」の同意が要求される。本人が臓器提供をする意思をもっていたことを知らなかった遺族は、厳密にいえば「その旨の告知を受けた遺族」ではない。だが、「A案」は本人が生前に拒否していない限り、家族の同意で臓器提供可能にしている点で、本人の自己決定権を著しく制約するものといえる。生前に臓器提供を拒否する意思表示を明確にしておかないと(「臓器提供拒否カード」の必要性)、限られた時間内の家族の同意で臓器が提供できることになる。
なお、「A案」が年齢制限を外した結果、乳幼児の心臓摘出も可能となった。生前に提供を拒否する意思表示をしない者について、脳死を一律に「人の死」とすることは、20歳、14歳、1歳の自己決定の扱いを平準化している点でも疑問である。乳幼児は意思表示ができない。乳幼児の脳死判定は困難といわれる。また、子どもの生命権は、親の親権をもってしても勝手に奪うことは許されないだろう。これは、虐待によって脳死した子どもの場合、親は証拠隠滅のため、臓器提供に同意するだろうという極端な話を持ち出すまでもなく、脳死した子どもの生命権と生きる可能性(子どものとほうもない生命力と医学の進歩の両面から)といった観点からも議論されるべきだろう。
臓器移植が癌などの治療と決定的に異なるところは、臓器提供者の存在なくして成立しない点である。ここには2つの「当事者」がいる。臓器提供を受けて「生きる」命とその家族、そして、臓器提供により「死にゆく」命とその家族である。この2つの「当事者」の関係は複雑である。波平恵美子氏(お茶の水大学名誉教授)は、脳死とされた“死体”に医療行為を続けてほしいと家族が要請する具体的状況を想定した議論が欠落していると述べ、「文化人類学的にいえば、ギフト(贈与)とは社会関係の積み重ねの上に成り立つ。臓器移植の課題は社会すべての問題とつながっている。政治の世界に蔓延する、わかりやすいことだけをねらった風潮に引きずられることなく、複雑な現実を見据えた多方向からのていねいな議論が、改めて求められている」(『朝日新聞』7月3日付)。重要な指摘である。臓器はあくまでも「ギフト」されるものである。上司に御中元や御歳暮をせざるを得ないというのは、本来の「ギフト」の関係ではない。臓器の場合はなおさらである。無理強いや暗黙の強制とは最も距離をとるべきなのに、その配慮を欠いた性急な議論がまかり通っている。
臓器移植が普及するにつれ、「ドナー」(Donor)という言葉が使われるようになった。私はこの言葉にはかねてから違和感を覚えてきた。「ドナー家族」という言葉を安易に使うべきではない。「臓器提供者の家族」と、きちんと日本語でいうべきだろう。また、「日本はドナー不足なので、海外にドナーを求める」という言い方には、臓器提供者を人間としてではなく、臓器というパーツの保持者としてみる傾きが感じられる。
作家の渡辺淳一氏は、「子どもを救うA案」(『毎日新聞』7月3日「論点」)という文章のなかで、「心臓移植を受けなければ死んでいく子どもが年間200〜300人もいる現実を忘れるべきではない。医学が進歩し技術がありながら、先進諸国の中で日本だけが見殺しにしている」と書いている。こういう議論のやり方は「恫喝」に近い。『欲情の作法』で稼ぐこの作家は、人の命に関わる理性的な議論の作法を欠いているようだ。
「A案」が成立したいま、そのマイナス効果を最小化する努力が求められる。何よりも、長期脳死の子どもの世話をしている夫婦に対して、「死者に対して大切な医療費を使うのか」というようなプレッシャーがかからないようにすることだろう。この国では、「法律で決まったのだから従うべきだ」と訳知り顔でいう人が少なくないから、長期脳死の子どもと生きる家族は、「例外的」存在とされかねない。また、植物状態の身内の介護に疲れた家族も少なくない。「脳死を人の死」という法律が存在することの付随的効果に対しても敏感であるべきだろう。社会のなかの最弱者に直接影響するだけに、徹底的に慎重であるべきである。現行法6条2項に関連して、国会審議でも「A案」提案者は、6条2項の当該文言の削除の後でも、臓器移植に限って「人の死」になるのか、それとも一律に「人の死」になるのかという肝心要の点をめぐって、解釈に揺らぎがみられた。「脳死は人の死」、が一人歩きしないよう、縛りをかけていくことが求められる。
ある子どもへ心臓を移植するには、別の子どもの心臓が摘出される、つまりそこには別の子どもの死があり、その家族がそれと向き合うことになることを忘れてはならない。
この点で重要なのは、「A案」が成立する過程で、臓器提供者の家族の問題がほとんどかえりみられなかったことである。作家の柳田邦男氏は、参議院厚生労働委員会の参考人質疑で、このことを強調している(『朝日新聞』7月3日付)。柳田氏は、自殺未遂で脳死状態となったご子息の臓器提供に同意した体験をもつ。1997年6月に現行臓器移植法が制定されるとき、柳田氏は自己の体験を踏まえて、提供者家族の問題を指摘していた(拙著『時代を読む ― 新聞を読んで1997-2008』柘植書房新社参照) 。
柳田氏はいう。「ドナー家族の問題が、衆議院では伏せられ議論されませんでした。検証会議〔2000年に厚生大臣(当時)の諮問機関として設置された臓器移植検証会議のこと〕が10年かけた調査が少しも生かされていない。ほとんどの議員が何も知らないで、A案に投票したのです。国民の命がかかわるのに、驚くべき議決です。この国の政治はおかしい」(「緊急提言・柳田邦男『臓器移植法改正』を問う」『週刊文春』7月16日号)。
こう述べたあと、柳田氏は次のような提言をしている。(1)本人の意思を臓器提供の必要条件とする、(2)行政と医学界がドナー家族のグリーフワーク(悲しみを癒す歩み)に対応すべきことを法律に盛り込む、(3)意思表示ができない子どもの脳死は、小児科学会や関連分野の見解がまとまるまで、法律が先行して枠組みを決めるべきではない、(4)脳死判定の結果が出てから臓器摘出までの間に、家族に十分な「お別れの時間」を与えることを法律に明記する、などである。特に(4)は柳田氏の一貫した主張として注目される。
「混乱のなかで、愛する家族との別れに納得感を得るには、時間が絶対に必要なのです。納得した看取りと、追い立てられた看取りでは、その後の心のあり方がまったく違う。お母さんが、まだ温かい子供の身体をさすりながら泣き明かす時間を、法律によって奪ってはなりません」。そして、「誰かに死んでもらわなければ実現できない移植の不自然さについて、人間の生命観や死生観の多様さについて、慎重に考えていただきたいと思います」と、柳田氏は提言を結んでいる(同上)。まったく同感である。
死を受けとめ、死を受け入れるためには、「時間」が重要である。外から「説得」されるものでも、急かされるものでもない。臓器移植法改正によって、「納得できる看取りの時間」が奪われてはならない。解散・総選挙に向けた問責決議案採決という政局的な頭で、脳死を「人の死」とすることの意味を熟慮しないまま「A案」に賛成した参議院議員たちは、『犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日』(文藝春秋社、1995年、文庫、1999年)をもつ柳田氏の重い言葉を、どう聞くのだろうか。
話はかわるが、先々週、千石真理さんという浄土真宗本願寺派布教師の方から『大法輪』2009年8月号が送られてきた。そこには、千石さんの論稿「仏教ビハーラ・チャプレンとしての模索と気づき」が収録されていた。かつて千石さんにインタビューされ、「イラク戦争・憲法九条・聖徳太子 ― 水島教授との出会い」(『大法輪』2004年8月号)として公表されたことがある。千石さんは13年間、合衆国ハワイ州において、本願寺から派遣された開教使として、病院の仏教チャプレン(カウンセラー)として活動してきた。どこの国でも、癌などで死を迎えるにあたって、人々は心の支えや拠り所を求める。だからこそ、「寄り添い、語りつづけること」が大切だ、と千石さんはいう。阿弥陀像を祀った特別養護老人ホームや、心のケアをはかるさまざまな実践例から、「死にゆく人」と「死にゆく人の家族」に「寄り添い、語りつづけること」の意味を、この論稿から学んだ。これは、柳田氏が訴えたい点とも重なるように思う。
最後に、小松美彦氏(東京海洋大学教授)が「A案の本質とは何か―『脳死=人の死』から『尊厳死』へ」(『世界』2009年8月号)で指摘する、より本質的な論点に触れておこう。小松氏によれば、今回成立した「A案」は臓器移植法「改正」ではなく、「尊厳死法」への傾きをもった新法であるということである。この指摘は重要である。無自覚な国会議員たちの意図を超えて、「A案」成立が「尊厳死法」のように機能していくことになれば問題だろう。
ドイツでも6月18日、連邦議会で「リビングウィル」(Patientenverfügung)を認め、「尊厳死」への一歩となる法案が可決された。大連合政権なのに、賛成317、反対233と割れた。党議拘束を外しての採決である。法案はあくまでも本人の意思を重視する。自己の生命の処分についての自己決定権が前提にある。それでも、与党のなかから反対がかなり出た。法律で「人の死」について定めるのは簡単ではないのである。
お隣の韓国でも、尊厳死をめぐって揺れている。家族により延命治療中断の訴えが裁判所に出された、植物状態の女性(77歳)のケースは衝撃的だ。大法院(韓国最高裁)までいき、呼吸器の取り外しが認められた。
6月23日、判決を受けて、女性の延命措置が中止された。家族や医師団、一審判決を出した裁判官などが見守るなか、人工呼吸器のホースが外され、電源が切られた。しかし、女性は死ななかった。1分間に18回という正常な呼吸をいまも続けている。延世大医療院長は「医師としての経験から言えば、人間は極限の状態でも生命の火を燃やし続けようとする本能的な要素を持っている」と語っている(「韓国初の『尊厳死』のはずが、意外な展開に」(下)『朝鮮日報』2009年6月24日)。
韓国の医学専門記者は、コラム「人体の神秘を悟らせた尊厳死」をこう結んでいる。「多くの人は医学とは、数学のように予測可能で、物差しで測れるものと考えている。いや、そう望んでいるのかもしれない。しかし、残念ながらそんな期待にすべて応えられないのが医学だ。われわれが知りえない体の働きがあり、それは人によってそれぞれ異なる。改めて命の尊さを感じる。それだけに人間を扱う法律と制度はもっと謙虚でなければならないという思いが強くなる」(『朝鮮日報』6月27日)と。
「人の死」とは何か。この大問題について、日本の国会「表決」堂の住人たちは、政局的な思考を捨てて、もっと「謙虚」に議論すべきだった。できたばかりの法律だが、施行停止や再修正を含めて、根本的な議論が必要である。