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Re: test
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投稿者 gataro 日時 2009 年 6 月 08 日 13:58:48: KbIx4LOvH6Ccw
 

(回答先: Re: test 投稿者 gataro 日時 2009 年 6 月 07 日 15:38:08)

カール・マルクスの「資本論」第一巻が劇になっているそうだ。NHK教育の「芸術劇場」
(7月10日22時30分〜)で放映される。深夜なのでパソコンで録画予約して後日干渉することにしよう。

だが、「資本論」なんてものがいったい劇なんかに、できるものなのだろうか?この想念は脳内に強くこびりついたままである。そこでNHKのHPを検索してみた。こんな風に紹介されている。 ⇒

7月10日(金)の「芸術劇場」 放送内容

案内役:礒野 佑子アナウンサー
ゲスト:萩原 健(演劇学)

情報コーナー「ドキュメンタリー的演劇 リミニ・プロトコルの魅力」

今年3月、「あたらしいリアルへ」をテーマに演劇祭「フェスティバル/トーキョー」が開催された。開幕を飾ったのは、ヨーロッパで人気のリミニ・プロトコルによる「カール・マルクス:資本論、第1巻」。プロの俳優を使わず、実物の経済学者や革命家、労働者らが登場する作品に、今回は日本人も加わった。自らの実人生を語りあい、現代社会を描こうというユニークな舞台はどう作られたのか、演出家のインタビューを交えて紹介する。

<リミニ・プロトコルとは>
ギーセン大学応用演劇学科で出会ったヘルガルド・ハウグとダニエル・ヴェツェル、シュテファン・ケーギの3人によるアートプロジェクト・ユニット。ベルリンを拠点にパフォーマンスやドキュメンタリー的な手法を用いた型破りなプロジェクトで世界の注目を集めている。

(以下略)

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演劇学研究者の北野雅弘さんはこの劇についてこう述べている。

http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/theatre/daskapital.html

カールマルクスの資本論第一巻(リミニ・プロトコル)

これも赤旗に劇評を書いた。劇の内容についてはそちらを参照。いかにも赤旗らしい劇評だと自分でも思うのだけれど、別に内容に特に注文があったわけではなく、こういうテーマになると自分が赤旗風に考えているという事実があからさまに出てしまうということだ。編集部とのやり取りで変えたのは二点、(1)労働力価値説という表記をしていたのを、より一般的な労働価値説に直した。(2)左翼活動家を”左翼活動家”と二重引用符で括った。第二の方は、私の語感として新左翼や旧東ドイツの共産党の人たちを括弧なしに左翼って括ることに抵抗があり、どうしようかなぁと相談した結果である。

さて、リミニ・プロトコルのやり方には、ちょっと考えてみなければならない問題があると思う。簡単に言うと、適当な人生を選べば、レーニンでも毛沢東語録でもそれなりの説得力を持った舞台に仕立てることが出来るのではないか、という問題だ。この点はそのうち書き足すことにする。

ここから書き足し。西洋比較演劇研究会での刺激的wなシンポジウムの後で

リミニ・プロトコルというグループは1995年から活動をしているらしい。後に、リミニ・プロトコルと名乗ったそうだが、この名前って思い出すのは2003年のRimini Protocol(リミニ議定書?)なんだけれど、グループ自体がこの名前を使い始めたのは2002年のことらしい。Wikipediaによると、グループ名はRimini Protocolから取られたのではないそうな。(ホンマかいなと思いつつ)

さて、普通の演劇(例えば『人形の家』が、物語を再現することで、観客に解釈を促し、あるイデオロギー的な主張を説得しようとするのに対して、リミニの再現対象はイデオロギー的な主張そのものだ。特にDas Kapital (資本論)第一巻と名付けられたこの上演では、貨幣、労働力の価値、恐慌などの、去年あたりから一挙に誰にとっても身近になった問題についての資本論の文章があげられ、舞台上で講義され、登場人物(何らかの形での資本論(ないし資本主義)のエキスパート)の体験がそれと符合する形で物語られてゆく。

これって、幾つもある『マンガ・資本論入門』と同じやり方やん。

大きな違いは、彼らの身振りにある。『マンガ・資本論入門』が理論に添うような形で例を作り上げるのに対して、彼らは、調査とインタビューを行い、それによって、現実の人生そのものが、理論に符合していることを示す、と主張するのだ。だからこの上演は、舞台上で観たことによってのみ判断されるのではなく、彼らが上演のためにどんな準備をしたのかについてのメディアを経由しての我々の知識によっても判断される。実際、実例が全部「創作でした」という、舞台経験上見分けがつかない作品があったとしてそれは、少なくとも同じ意味では、芸術としての演劇の中には入って来ないだろう。

しかし、私たちは、当然のことながら、彼らのこの「身振り」を舞台上で端的に受け入れているに過ぎない。いや、そうでもないかな。私は一応、大谷禎之介先生のことは調べて、彼が協力しているんならまともなんでしょうと思ったものな。でもそれは私が「赤旗」に書くというので下調べをしていた結果だからなぁ。ただ、彼じゃなく、最初から、スガ秀美他新左翼系ばっかりだと、観に行くこともなかっただろう。つまり彼らの「身振り」に不信を持つと、私にとってはこの芝居はおなじ上演としては現れないだろう。その身振りを括弧に入れて、純粋に「美的」対象としてこの上演を観ることに何か意味があるとは思えない。その意味で、この作品を芸術たらしめているのは、実のところ様々なサブテクストでもある。

さて、イデオロギー的な主張(理論と呼んでも良いけれど)を再現することは、それ自体イデオロギー的に中立ではありえない。この上演の価値は実際の人間の体験を通じてマルクスの『資本論』第一巻の価値を認識させるところにある。しかし、経験は理論を単純には正当化しないので、最初の方に書いた、「レーニンでも毛沢東語録でも」同じような舞台は作ることが出来るし、それなりの説得力を持つことが出来るのではないか?という疑問が生じる。どんな理論でも、それに適合するような複数の経験を選び出すことはおそらく可能だ。

たとえば、『民衆の敵』のイデオロギー的主張の当否は、そこで展開する物語を逐次たどることで私たちはある程度正しく判断される。しかし、『資本論』から恐慌の不可避性の箇所だけを端折られて、それを実際に恐慌で酷い目に遭った人の体験と結びつけられても、実際のところ、その主張の正しさは判断できない。正しさを主張しているわけではなく、単に真面目に考えるべき対象としてintroduceしているだけなんだ、と言うことは可能だけれども、それがintroduceされるに値する理論かどうかは、(サブテクスト抜きの)この上演からは実は分からない。結局のところ、予めマルクスがintroduceされるべきだと知っている人にとってしか、この上演はそれが取り組むべき存在であることを示さない。理論を再現することの弱点がそこには存在すると思う。

特定の年代の出来事を並置する、という今回の上演で、マルクス主義にとって極めて重要な年代が全て省略されていることも、この意味で示唆的だ。おそらくは、ここで取り上げられているのが資本主義であって、人々が忌まわしい記憶を持つソ連型の「社会主義」(かっこ付き)ではないことがその大きな理由だろう。

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なんかわかったようで、やっぱりよくわからない。どうやら現物にお目にかかるより仕方がなさそうだ。7月10日にはパソコンの電源を切らないように、録画し忘れないようにしておこう。  

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