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新しい経済学は可能か(内橋克人×宇沢弘文) 阿修羅♪にアクセスしている人の中には、政治・経済の専門家、いわゆる有識者の主張をばかにするものがいるようだ。自分の方が知られていない真実を知っている、などと思っているのかもしれない。しかし、その道の専門家は使える時間の大半を専門分野の調査・研究に投入しているのであり、論考の基礎がしっかりしており、根拠が明確だから説得力がある。彼らの言説に学ぶべきものは多い。 なお、文中で「パックス・アメリカーナ」という言葉が出てくるが、これは「超大国アメリカ主導型の世界的安全保障」というほどの意味だ。(ダイナモ) 日本を襲った危機の異例の苛酷さ内橋 世界は、社会的共通資本が企業化され、利潤追求の対象として取り崩されていくという状況に追い立てられ、そのさなかに世界経済危機の襲来です。一方が他方の結果であり、同時に原因でもあったように見えます。しかし、一般市民・勤労者の受難の程度において、多少とも社会的共通資本に対する国民的合意の形成されていた社会と、そうではなく希薄な認識のまま市場原理主義の罠にはまり込んでしまっていた社会とでは、誠首された勤労者の生活ひとつをとっても、大きな違いが出ています。例えば「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」と巨額の外資を誘い込み、破綻した、かの金融立国アイスランドにおいてさえ、首切りを通告されても企業から放り出されるのは最短三ヵ月先だという。雇用形態を問わず、基本的な労働権が確立された社会であるわけですね。とりわけ社会的市場経済を標榜してきたドイツにおいては、様々な制度的保障も確立している。そういう国々においてあらわれる今回の影響と日本ではどう違うか。目本においては、まさに即座に、有無を言わせぬ派遣切り、雇い止めが横行し、仕事も食も住も奪われてしまった。人間の基本的な生存権の侵害が剥き出しのかたちで、何のためらいもなく強行されました。この違いがなぜ出てきたかは明らかです。これから後の耐久力とか、今回の世界危機からの脱出という面において、社会的共通資本のコンセンサスのできた国とそうでない国とでは違ってくるのではないでしょうか。 例えば北欧モデルとは、社会的共通資本の認識、そして国民的合意の形成がすでに通念としてなされており、その上に立って、人々の「生きる、働く、暮らす」の日常的統合が位置づけられている社会です。 ところが日本を見ると、日本はもちろんヨーロッパでのような福祉国家も未経験ですし、基本的な労働権や人権をきちんと守っていこうという時代も経験したとはいい難い。そこへ市場原理主義、新自由主義の思想がダーツと入ってきた。ですから日本は、福祉社会、福祉国家、社会保障という体系が市民社会において築かれ、それが「行き過ぎた」ために新自由主義の思想でもってそれをつぶすという過程さえも経ていないわけです。戦前からの連続性の中で新自由主義思想がダイレクトに注ぎ込まれた。ちょうど一九九三年八月、細川政権のもとでスタートした「平岩研」(経済改革委員会・首相の私的諮問機関)のころでした。 いまも忘れませんが、「規制緩和・天国論」で満たされた「平岩レポート」が鉦や太鼓で打ち出されております。「規制緩和によって、企業は新しいビジネスチャンスが与えられ、雇用も拡大し、消費者には多様な商品・サービスの選択の幅を広げる。内外価格差の縮小にも役立つ。(中略)中長期的には自己責任原則と市場原理に立つ自由な経済社会の建設のために不可避なものである。強力に実行すべきである」 最近、”転向”なさった中谷巌氏らが勇ましくとりまとめたものですね。日本経団連は、その後、『規制緩和の経済効果に関する分析と雇用対策』なるものをまとめ、「規制緩和に伴う産業調整によって九三四万人の雇用機会が喪失する恐れがあるが、規制緩和によって生まれる新規産業などで一〇六四万人の雇用が創出されるから、ネットで一三〇万人の雇用増加が期待できる」と数値まで示して鼓舞しました。 絵空事とはこのことをいうのでしょう。マスコミ、経済学者、政治家たちの大合唱が続きました。真に求められていたのは「規制の組み替え」だったはずなのに、です。その平岩レポートから一五年、たどり着いたのが今回の危機でした。いまも私の念頭にあるのは、これらの反応が、アメリカ大使館が日本政府に「規制緩和の推進」を突きつけた異例の要求書(声明)に呼応してなされたものだったという事実です。以後、アメリカからは日米構造調整プログラム、年次規制改革要望書と矢継ぎ早の督促状でしたね。規制緩和万能、市場原理至上の価値観が日本を染め上げていきました。いったいだれの期待に応えてのものだったのか、いまは瞭然です。 今回、業界団体によると、この三月までに派遣労働者だけで四〇万人が職を失うという。非正規雇用者が師走の寒空の下に射影されるというような事態は、恐らく北欧、ヨーロツパ諸国、とりわけドイツにおいてはあり得ない。だからこそ日本では『蟹工船』が読まれる時代になっているわけです。職なくば人間の尊厳もない、という基本的な認識がないところへ、今回の危機が到来し、二重、三重に働く場を破壊している。同時に、極めて不均衡な社会、不均衡な経済-----日本の経済は「いざなぎ超え」の中で、過剰な外需依存の経済が進んだために、海外がだめでも国内で盛り返す、という自律的な景気回復力を失ってしまった----によって、今回の危機の衝撃が世界の中でも異例の厳しさ、苛酷さを伴う現実としてあらわれてきました。 それを用意した前段階に派遣労働法の改正があり、それはさらに平岩研にさかのぼる。その前には、中曽根政権の下での国鉄民営化、その他国有企業の民営化に始まる長い歴史がある。日本という社会が、最もラディカルに今回の世界危機の辛酸を嘗めさせられているのではないか。 株式市場などでの指標や金融機関の受けた打撃だけをみていると、ヨーロッパも北欧も同じように深刻だ、となりますが、必ずしもそうではない。ヨーロッパでは、数々のデモも起こっています。オルタナティブも用意されている。とりわけ金融から始まった今回の危機が勤労者の雇用調整という形であらわれたときには、それに対抗していく力もすでに持っている。これが一様に世界を覆っている危機なのかと言えば、大いに疑問があります。アメリカに追随してきた国々、アメリカ型の市場原理主義をもってよしとする「シカゴ・ボーイズ」たちが地ならしをし、道を掃き清めてきた国が、最も激しく打撃を受けている。解雇・整理がいよいよ本格化し、正社員にも深く及んでいくという事態は、国によって違いがあって、むしろ世界経済危機というよりは、アメリカ、日本、韓国、その他の危機ではないのか。ラテンアメリカはまた少し事情が違っていますね。ですから国によって、あらわれ方も、危機の深さも、衝撃の強さも相当違ってきているのではないかと見ているのですが……。 宇沢 日本の場合、占領政策のひずみが戦後六〇年以上残っている。アメリカの日本占領の基本政策は、日本を植民地化することだった。そのために、まず官僚を公職追放で徹底的に脅し、占領軍の意のままに動く官僚を育てる。同時に、二つの基本政策があって、戦争中に自らの利益を度外視して国のために協力したアメリカの自動車産業に、戦後、日本のマーケットを褒美として差し出すのが一つ。もう一つは農業で、日本の農村を、当時余剰農産物があったアメリカとは競争できない形にする。 日米構造協議が開かれましたが、実はアメリカの商工業者の団体が原案を作成し、アメリカ政府がそれに基づいて日本政府に要求と交渉をするというとんでもないもので、一番の焦点は経常赤字と財政赤字が膨らみ、非常に混乱した時代のなかで、日本政府に対して一〇年間で四三〇兆円の公共投資をしろという要求でした。しかもその公共投資は日本の経済の生産性を上げるために使ってはいけない、全く無駄なことに使えという。信じられない要求でしたが、中曽根政権はその要求をそのまま、日本政府のコミットメントとするわけです。次の政権で実行に移されますが、国は財政節度を守るという理由の下に地方自治体に全部押し付けたわけです。地方自治体は地方独白で、レジャーランド建設のような形で、生産性を上げない全く無駄なことに計四三〇兆円を使う。そのために地方債を発行し、その利息の返済は地方交付税でカバーするという。 ところが、小泉政権になって地方交付税を大幅に削減してしまったため、地方自治体が第三セクターでつくったものは多く不良債権になって、それが自治体の負債となっていまだに残っているわけです。四三〇兆円ですからものすごい負担です。そのときから、地方の、例えば公立病院は非常に苦しくなっていくわけです。 内橋 押しつけられた地方財政の赤字、それを住民への行政サービスの削ぎ落としによって埋めさせる。「みせしめの夕張」が必要だったわけですね。 宇沢 そういう政策を見ていると、日本は完全に植民地というか……属国ならまだいいのです。属国なら一部ですから。植民地は完全に搾取するだけのものです。それがいま大きな負担になっていて、救いようのない状況に陥っているわけです。 社会的共通資本のいろいろな分野、特に大気、教育、医療が徹底的に壊されていくことに対して、例えば内橋さんがずっと正論を二〇年も主張されているときに、同僚の経済学者たちがそれを揶揄したり批判したりする流れがあるのは、私は経済学者の一人として許せない。 経済財政諮問会議も制度的な問題があるのではないでしょうか。首相自らが諮問し、首相自らが議長の会議で議論して、答申を出す。それは首相自らが議長の閣議に出されて、自動的に決定され、政府の正式な政策となる。ヒトラーが首相になって権力を握ったときと全く同じ方法です。 内橋 官邸独裁ですね。世界で初めて「生存権」をうたい、もっとも民主的とされたワイマール憲法のもとでヒトラーが生まれました。政治的独裁の危険に通じます。 いま、先にも触れました経済学者の中谷巌氏が市場原理主義からの「転向」「告白」「懺悔」の書を発表し、話題になっておりますが、気になるところもありますね。アメリカでは競争万能の市場原理主義が社会に激烈な分断と対立をもたらしました。「喉元をかき切るような競争」のはてに共同体が崩れていく。そこで失われた絆とか人間信頼の輪を取り戻し、社会統合を回復すべき、と唱えて登場したのがネオ・コンと呼ばれる「新保守主義」でした。 中谷氏は今回の著作『資本主義はなぜ自壊したのか』のなかで、「古き良き日本」を回復すべき、と説いておられるように見えます。昔の日本企業には人間相互の儒頼とか絆があった、白分たちのやってきた規制緩和万能、市場原理主義がそれを破壊したので反省している、そういった筋書きです。 だから、古き良き日本型経営に戻ろう、と。そういうお気持ちなのでしょう。ですが、かつての日本は企業一元支配社会であり、官僚絶対優越社会でした。企業に対してロイヤリティ(忠誠心)を差し出し、献身を誓わなければ排除され、排除されれば社会的にも排除される。そういう企業一元支配社会にほんとうの人間的な絆はあったのか。そうではないでしょう。規制緩和、市場原理主義という幻想から、今度は古き良き日本的経営という幻想へ。 願わくば、幻想から幻想へと飛び跳ねる思想転向ではないことを、切に祈りたい気持ちです。 四つの項目から日本経済を見る内橋 歪んだ政策選択によって、日本は歴史的危機の淵にまでおびき寄せられてしまったと思います。深刻なテーマとして、四つの項目を挙げておきたいのですが、すでにご指摘のありましたように、第一は地方自治体財政です。竹中総務相時代、彼は「私的懇談会」と称する恣意的な機関を三つも立ち上げました。うちの一つが「地方分権21世紀ビジョン懇談会」でした。この懇談会で出された答申の主旨がいよいよ今年四月から効力を発揮します。地域にとってかけがえのない公立病院を、自治体財政の負担を理由に切りはなす、という処置が多くの地方都市で進められていますが、もとをただせば、その震源地はこの私的懇談会の提言に発している。まるで地下深く埋められた時限爆弾のように、小泉政権が去ったあとのいま、作裂する時期を迎えました。 二番目に再販問題です。公正取引委員会の「政府規制等と競争政策に関する研究会」(略称・政府規制研)の下に「再販制度問題検討小委員会」が設置されたのは一九九四年四月のことでした。翌九五年七月にははやくも「現時点では再販を維持する必要はなく、弊害が生じている」として、強く廃止を示唆する中間報告がまとめられてしまった。新聞、雑誌、その他著作物一般について、「再販制度・即時撤廃」への流れがプログラム化されようとしていました。私が同委員会の拡大小委員会委員として要請され、参加するようになりましたのは九七年二月からのことです。市場原理主義が怒濤のごとくに文化の領域を踏み荒らす、その勢いを肌身で感じ、危機感にさいなまれるという苦い経験を味わいました。 そして第三に、日本型自営業、地域の中小零細企業を壊滅させるような剥き出しの競争政策。大規模小売店舗法(大店法)撤廃も大きな節目であったと思います。最後に、いうまでもないことですが、戦後、営々と築き上げた労働基本権をご破算にする「労働規制緩和」の完成でした。 私の関心は、これらの問題を方向付けていった人々の多くが日本版「シカゴ・ボーイズ」の仲間うちだったということです。中谷巌氏などは、自分が平岩研に入ったのは「個人的な呼びかけに応じて、だった」と”反省の弁”で打ち明けておりますが、時の政権から権力のおこぼれをいただいた特定の民間人、あるいは学究者が、まさに個人的に、同じ考えの人を呼び集めて「何々研究会」とか「竹中チーム」をつくる。やがてそれらは人々が予期した以上に大きな、決定的な力を発揮するようになっていきました。 宇沢さんがおっしゃったように、例えば経済財政諮問会議の議長と官邸閣議の議長とが同じである。まさに諮問して、報告が上がってくれば、それを裁決するのも同一人物という、一種の首相官邸独裁の体制が構築され、そのもとで多くの私的懇談会が乱造された。私的懇談会のメンバーとして、とりわけアメリカ帰りの、中谷氏自ら「アメリカかぶれ」と表現しているような人々が同じような主張を繰り返し、見事に「期待通りの結論」へと導いていった。 四つの項目のどれを見ても同じパターンです。構造改革に名を借りた、一種のマフィア=私的なコネクションがつくられ、さらに次なる知人を呼び集めていく。「私的」と称しながら、それらの機関がいつの間にか「公的」な強い力を発揮し始める。いずれも時限爆弾のように社会に仕組まれ、いまや次つぎと爆発の時期を迎えています。 ここで再販問題で私か経験したことをお話ししたいと思います。いま、触れましたように、公正取引委員会の拡大委員会が一九九七年二月から一年間に二四回開かれ、一回当たりの議論も三〜四時間に及びました。しかし一七名の委員の中で、新聞、出版物について社会的共通資本として再販を維持しなければならないと主張したのはわずか三名です。拡大委員会に私は新聞協会のほうから入り、出版からは江藤淳さん、法律専門家として青山学院大学の清水英夫さんの三名。あと立場を同じくしたのは新聞社からの二名だけ。座長は規制緩和論者として知られた鶴田俊正・専修大学経済学部教授(当時)。実に八年も座長をやっていました。私たちが加わったときにはすでに、再販制度即時撤廃が結論という中間報告が出されておりまして、三人が頑張らなければ、恐らく新聞・出版物の再販制度は撤廃という緊迫した状況でした。一年かけて、粘りに粘って、江藤さんが机を叩いて怒るような状況の中で、最後にひっくり返して、一定期間は維持する、と。それがいまも続いている、非常にあやふやなままに、です。 即時撤廃論者らがくり広げた議論の幼稚さはいまも忘れることができません。例えば東京で新聞を配るコストは安いはずだ、山間僻地でのコストは高くつくだろう、それがどうして同じ値段なのか。地域や事業領域別の黒字と赤字を全体としてバランスさせ、採算を合わせる、そういうやり方は許されない、という。宅配制度も否定する。文化の破壊といいますか、言論への稚拙な理解。それ以上に新聞、出版文化の力を削ぐ、という意図もあったのではないかと思います。 結局、何とか再販制度は当面維持ということで折り合いがついたわけですが、彼らには最も重要なことが理解されていなかった。新聞は民主主義を守る情報の器、公器の一つであって、日本じゅうどこに住もうが、市民の支払うコストに大きな差があってはならない、過疎地ではアクセスに一〇〇円かかるが都市にいるなら一〇円で済む、などという議論そのものが、言論の世界では意味をもたない。この、たった一つのことすら理解してもらえなかった。彼らは、恐らく市場原理主義の教科書どおりの主張を繰り返したのでしょう。国鉄分割民営化も、郵政民営化・四分社化も同じ理屈で、強力な反対者がいなかったから教科書どおり「成功」した。つまりひな型はすでにあった、ということです。 労働規制緩和について、ひとつ、あまり指摘されていないのは、小泉構造改革の当時、たくさんの日本企業の工場が中国・アジアから戻ってきました。「日本回帰」と、日経はじめメディアは甘い拍手をおくった。日本でなければつくれないノウハウが中国に奪われてはいけない、だから帰ってきたという。けれども、いま振り返ってみますと、その工場が今回、真っ先かけて派遣切りを始めた。労働規制緩和が完成し中国、アジア並みの解雇自由・超低コストの労働力でモノづくりができる。そういう見通しがたったところでの工場の「出戻り」でした。当時の奥田氏、その後の御手洗氏(ともに経団連会長)らは何を考え、何を政権に迫ってきたか。その全体像がいま派遣切り、雇い止めなどの現実によってはっきりと国民の眼に見えるようになりました。 もう一つ、中小零細企業の問題ですが、これはまぎれもなく商店街と地域社会の衰退に結びついています。宇沢さんと同じで、私も阪神・淡路大震災や再販など切実な問題を除きまして、一度も審議会はじめ政府系の会議にかかわったことはありません。そのなかでただ一つ、規制緩和について意見陳述を求められ、九六年五月に衆議院の「規制緩和に関する特別委員会」で話したことがあります。「シャッター通り」化する地方の現実など、いまにつながる問題はほとんど指摘し、地方の駅前商店街でいま何か起こっているかとか、力を込めて話したつもりでした。昼食時に議員の皆さんが寄ってこられて、「私の地元も同じだ。一度私のところに来て話してくださいよ」みたいな調子のいいことをおっしゃる。 そうしたら、この特別委員会自体が突然、廃止になってしまったのです。取って代わったのが「平岩研究会」。その後いろいろ名前を変えていくけれども、要するに、例の宮内義彦氏が自分のお気に入りの人だけを集め、ずっと座長を務めた規制改革推進関係の「私的な」機関です。衆議院の、有権者によって選ばれた議員で構成される特別委員会をつぶして、法律改正の必要がなければ即時に実施できるという強力な行政権を持った「私的機関」に権限を移してしまった。私が話したことはムダだったのか、とまことに悔しい思いです。 いまの四つの問題については、いずれもそれを推進した人々、少なくともそのリーダーは学究者の方々でした。その意味で、今回の経済破綻に至る、日本の防波堤をどんどん内部から掘り崩していったプロセスに、経済学者と称する人々が果たした役割を軽く見ることは許されないと思います。 曰本における規制緩和の特異な進め方宇沢 私も日本に数多くある審議会や委員会には原則としてかかわらないようにしています。かかわることによって、人間としての尊厳を傷つけられ、学者としての権威が失われることをおそれるからです。そういう類の委員会、審議会を利用して、行政なり、官僚なり、政権政党がやりたいことを実行に移すというのは、民主主義では見られないような制度ですね。最近、私は日本の医療崩壊のことで悩んでいるのですが、そこで一番重要な役割を果たした経済財政諮問会議に経済学者が二人入っていて、「小泉総理が診療報酬を三・一六%切り下げろとおっしゃっている」「マクロ経済的な基準に従って国民医療費を抑制する」という類の発言が多かった。ある雑誌のインタビューで、「経済財政諮問会議に経済学者が入って、政権の走狗となって権力に奉仕しているのは、怒りを越えて悲しみに耐えない」と結んだのです。すると、インタビュアーの記者が、経済財政諮問会議はアメリカ大統領直属の絲済財政諮聞委具会をまねてつくった、同様の機能をもつ委員会だと理解していると言う。とんでもない誤解です。 アメリカ大統領の経済諮問委員会のメンバーは、フルタイムです。大学教授も、例えば一年とか、二年とか休みを取ってワシントンDCに住んで、仕事に専念する。もちろん大統領も政治家も委員会に口出しすることは一切ない。委員会の基礎的な資料、方針をまとめるスタッフ・ディレクターには、学者としても最高の人がなる。ケネディ政権のときの最初のスタッフ・ディレクターは、ケネス・アローで、後を継いだのはロバート・ソローでした。 ところが、日本の場合は全く片手間に、官僚が用意した書類をそのまま、あるいは総理に言われたことをそのとおり実行に移す。そういう仕事をしたら、学者としては全く失格であり、人間としても救いがない。 人選の面でも、官僚が選んだメンバーにはほとんどが専門知識がなく、あるいは学者であれば奇矯な、学者としては評価できないような人たちで、しかもパートタイム。日本では、まともに評価されている経済学者は、まず政府の諮問委員会とか審議会には入っていないと思います。 内橋 規制緩和の進め方に、同様のことが特徴的にあらわれています。アメリカの場合、一九七八年に航空自由法(オープン・スカイ・ポリシー)を成立させるに先立ち、全ての議論を公開した上でさらに三年をかけた。薬で言えばどのような「副作用」があるかを議諭し、公開したうえでカーター大統領が法案にサインしました。日本の場合はそれが全くない。 ある種の作為を持って審議会や規制改革会議をつくり、気に入った人々を集め、情報公開もないまま、異議を唱える者には守旧派だ、官僚の味方をするのかと糾弾する。規制緩和の日本における進め方は世界に類を見ないものであり、「失われた二〇年」として歴史的に総括されるべき、と思います。 自治体行政への市場原理の導入内橋 今回、いろいろ問題になっている派遣にしても、労働の規制緩和は八代尚宏・国際基督教大学教授らが中心になって進めてきている。現実社会でいま起きていること、白身が主張してきた諭理、両者の関係について何ひとつ省みることなく、同じ主張をメディアでくり広げている。経団連などからすれば、これほど頼りになる代弁者もいないでしょう。宇沢 戦後、有沢広巳先生とか束畑祐一先生が審議会の会長になられたけれども、それは戦後の非常に混乱した時代だった。その後は官僚なり政権政党が自分に都合のいい人を選ぶという、これほど国民をばかにした政策決定のプロセスはない。特に最近になって、完全に官僚が隠れ蓑として都合よく利用している。 内橋 先に触れました「地方分権21世紀ビジョン懇談会」の提案を読むと、現代を「グローバル都市問競争の時代」と定義づけ、「自治体破産制度を含めた市場原理を導入した自治体づくり」を目指すべき、としています。これが政府の骨太の方針に反映されて法律化され、この四月から適用される。それが「自治体財政健全化法」です。重要なのは、本体の財政状況とレジャーランド、病院、その他第三セクターといった、全く次元の異なったものを連結決算して評価すること。連結ですから、例えば公立病院が赤字だと財政再建団体に指定されるおそれが出てくる。施行を目前にして、レッドカードをつきつけられているのがすでに四自治体、イエローカードの危険性のある自治体も四〇ある。懇談会の答申は、自治体も経営に失敗すれば破産という事態に立ち至るという危機感を持つことが、地方財政の規律の回復のために必要であるなどと指摘し、市場原現による自治体間競争こそ「あるべき二一世紀ビジョン」だと結諭づけています。 宇沢さんがご指摘になったように、自治体財政の赤字はそもそも一〇年間で四三〇兆円、生産性向上に結びつかない分野に使えというアメリカからの要求があったため、国民の暮らしを豊かにする投資には使えず、レジャーランドぐらいしかないわけで、そこから出てきた第三セクターなどの赤字が中心です。住民が飲み食いして消尽したわけではない。 これに対応してできたと思われるのがリゾート法で、非常に無残な結果を招いた。私もリゾート法の跡地を『ETV特集』などで随分回りましたが、ひどいものです。中央からやってきたゼネコンが、ちょっとうまくいかないと引き揚げてしまう。夕張の松下興産もそうですね。夕張の場合は、その前に閉鎖炭鉱の土地、住宅、病院から浴場まで引き継ぎ、五八三億円もの借金を背負ってしまった。 二一世紀ビジョンをいうのなら、まず不当なアメリカの対日要求の全貌、自治体財政窮乏の由来を明らかにし、国が地方に迫ってきた過去のサイクルを断ち切って、真に地域の内発的な力をいかに蘇らせていくのか、提案すべきです。 それを十把一からげで市場原理だと。しかも、地方債の発行を、税負担=交付税交付金で面倒見ると言っておきながら、御破算にするという非道徳性。そういう形で地方を追い詰め、結局、行政サービスを削ぎ落とし赤字病院を遺棄していく。「市場原理を導入した自治休づくり」などという提言をまとめた宮脇淳・北海道大学教授をけじめとする方々は、いったい何を研究なさっておられる方々なのか。 かくも愚かな提言が、審議会なり私的懇談会から出されて、それが骨太の方針とか、改革工程表などに組み込まれた。これは民主主義ではありませんね。民主国家ではそんなことはあり得ない。今日、可視化されるようになって多くの人が気づき始めたけれども、たくさんの許せないことが平然と行われてきた、と私は考えます。 植民地としての日本とパックス・アメリカーナ宇沢 いまのご指摘は、民主主義以前の問題で、日本が果たして独立した一つの国であるのかどうか、信じられないぐらいの状況ですね。属国ならまだいい、完全に植民地だと申し上げたけれども……。ケインズが最初に書いた経済学に関する本を思いだします。『Indian Currency and Finance(インドの通貨と金融)』というタイトルで、ケインズがインド省にいたときに書いた本です。金と銀の相対価格はどう決まるかというのがテーマで、当時、インドのルピーは銀本位制、イギリスのポンドは金本位制でしたが、イギリスの軍事費と国家公務員年金はインド政府が払っていたため、金と銀の交換比率が重要な問題だったのです。イギリスの国家公務員は任期中に必ず二〜三年インドに赴任し、インドのために尽くしてきたという名目をつくって、年金をインド政府が負担する。イギリスの軍事費も、イギリスがインドを守っているという名目で、インド政府が負抑する。当時、世界で一番豊かな子ギリスの軍事費と国家公務員年金を一番貧しいインドが負担するという信じられないことが起こっていた。 しかしケインズは、そこには一切触れていない。私は昔、この本を読んで、そこにケインズの限界を感じた。インドでは、イギリスの徹底的な搾取、社会破壊、人間破壊、そして自然破壊がいまでも非常に重い影になって残っています。イギリスの植民地政策として、インドのエリートは徹底的にイギリス式の教育を受け、オックスフォード、ケンブリッジを出て、イギリス的な考え、生き方を持って国に帰って支配層となる。これがイギリスの植民地支配の典型です。 いまの日本は、かつてのインドほどではないけれども、非常に似た形で、軍事費を負担しアメリカに守ってもらっている。さすがにアメリカの国家公務員の年金を日本が負担するところまではいっていませんが、基木的な考え方は非常に似ていると思う。まず、日本の官僚を徹底的に脅して、意のままに動かす。同時に、アメリカの自動車産業に日本を褒美として差し出すために道路をつくる目的で、徹底的に日本の町を空襲して燃やしてしまったのです。木造家屋が燃えやすいような焼夷弾をわざわざ開発して。 内橋 ナパーム製焼実弾。あれは神戸大空襲が最初だったんです。私もその下を逃げ惑った少年の一人でした。 宇沢 そのあと自動車が普及するよう広い道路をつくり、その自動車も、日本では生産できないように規制を設けたんですが、朝鮮戦争を契機に変わっていく。そして、まず日本人の考え方、生き方を、アメリカの製品・産業に順応する形につくり変えるという徹底的な教育をしたわけです。 内橋さんも覚えていらっしゃると思いますが、日本人の体格が貧弱なのは魚を食うからだとか、米を食べると頭が悪くなるといった類の言説。パンを食べろというのは実はアメリカの余剰具産物を消化させる意図で、非常にきめ細かい占領政策を展開した。また、日本にはアメリカの農産物と競争できないようにする選択制農業を押しつける。それらが重なって、いまの日本の生き方というか、社会があって今度の大恐慌で目本はやはり一番大きな被害を受けていると思いますね。 内橋 日米安保とは、車事条約だけではなく経済協力とのパッケージであり、アメリカの世界戦略は非常に周到につくられた。日木との経済協定の中には穀物、例えば小麦の輸入自由化スケジュールまで示されていて、日米安保条約が締結された翌年には、早くも六品目の輸入が自由化されるなど、順次、市場開放に向けて日本は追い込まれる。軍事力で占領政策を展開すると同時に、文化、経済をワンセットにした占領政策がつくられていった。私たちの世代でさえ日米安保に軍事しか見ていない節があります。 宇沢 日米安保も、結局、パックス・アメリカーナのコンテクストで考えた方がいいように思います。 パックス・アメリカーナは、なによりも、共産主義の脅威を強調し、ケインズ経済学もまた危険視され、市場原理主義を良しとするものだったわけです。とくに、マッカーシズムが全米にわたって猛威を振るっていたころ、アメリカの大学の置かれていた立場はきびしかった。 マッカーシズムあるいはその延長線上にある非米活動委員会がまず攻撃対象として焦点を当てたのは、マルクス経済学者でした。一九五一年、ハープアート大学のポール・スウィージーは、偽証罪を問われ、大学を追われた。その後、十数年間、法廷を通じてたたかい、無罪の判決をかちえたのは一九六六年になってからでした。ポール・バランも、スダンフォード大学の教授として、アメリカの主要な大学における唯一のマルクス経済学者としての地位を保っていましたが、非米活動委員会はなんどもカリフォルニア州の首都サクラメントに出張して、しつようにバランを追及しました。バランの証言はみごとでした。委員会の、悪意にみち、蝋のような毒をもった質問に対して、バランは決して自らの思想的立場を変えることなく、また自らの人間的尊厳を失うことなく、堂々と答えたのです。スタンフォード大学はもともと保守的な色彩がつよく、とくにその卒業生の多くは、政治的にも社会的にもアメリカのいわゆるエスタブリッシュメントに近い人々でした。そのため、大学に対して、さまざまな圧力が加えられ、また大学当局も経済学部に対して、陰に陽にバランの解任を迫った。しかしスタンフォード大学の経済学部教授会は全員を挙げてバランの擁護に立ち、大学外部あるいは大学当局からの圧力からバランを守ったのです。 非米活動委員会の中傷、攻撃は、マルクス経済学者からさらに、ケインズ経済学者にまで及ぶようになっていきました。 アメリカ・ケインジアンを代表する経済学者ローレンス・クラインは当時、ミシガン大学で、研究員としての職にありましたが、大学から教授の地位に就くよう話があって、交渉中でした。たまたま非米活動委員会がアナーバーに出張してきて、公聴会が開かれることになった。クラインはじつは、学生時代に共産党員だったことがあり、その公聴会には当然自分も喚問されるに違いないと思った。そこで、大学当局に、自分がかつて共産党員であったことを伝え、非米活動委員会に喚問されるかもしれないということを知らせた。大学当局は、クラインに対する大学からの話は、そのようなことによって左右されないと表明した。このことを伝え聞いた同僚の市場原理主義者の教授が、大学当局のとった態度を批判して、全国の同志的な大学教授たちに手紙を送って、大学当局に対して抗議の手紙を出すように依頼した。多くの抗議の手紙が、ミシガン大学に送りつけられ、クラインは自ら職を辞したのでした。皮肉なことに、クラインはそのとき非米活動委員会に喚問されなかった。しばらくのちに、非米活動委員会が、クラインが大学院時代を過したケンブリッジに出張したときに、喚問されました。クラインは「あなたは共産党員だったことがありますか」という非米活動委員会からの質問に答えて言ったのです。「はいその通りです。自分はかつて大学の学生だったころ、共産党員だったことがあります」。非米活動委員会はつづけて、クラインが属していた党細胞のメンバーの名前を言うように要求した。この要求に対して、クラインはこう答えたのです。「私の属していた党細胞は非常にうまく組織されていて、自分以外のメンバーの名前はわからないようになっていた」。 クラインは、アメリカの大学で職を得ることを断念して、オックスフォード大学に移った。クラインが故国の大学の教授に迎えられたのは、その後数年たって、アメリカの政治的、社会的状況に大きな変化が起こってからでした。 有名なアイオワ州立大学の「マーガリン論文事件」、イリノイ州立大学の「イリノイ事件」が起きたのもアメリカ社会のこのような雰囲気のなかでした。「マーガリン論文事件」というのは、当時若い研究生だったオズワルド・ブラウンリーが書いたマーガリンとバターとの比較にかんして計量経済学的手法を適用した論文が、州議会で問題となって、州議会から大学に対してブラウンリー追放の要求が出され、当時学部長であったT・W・シュルツをけじめとする数人の教授の辞任という事件にまで発展したものです。また「イリノイ事件」は、エヅアレット・ヘーゲンが提案した、ケインズ経済学を中心としたカリキュラム改革を、州議会が問題にして、学部長の更迭、さらにはヘーゲンを始めとしてモジリアーニ、ハーヴィッチなどの有能な経済学者がすべて大学を去るという事態にまで発展した事件です。 これらの事件はいずれも、パックス・アメリカーナの下、アメリカの大学が置かれていた社会的、政治的状況を如実にあらわすものです。これらの事件を通じて、私たちがつよく印象づけられることは、多くの経済学者たちが、社会的、政治的な圧力を排除して、学問の自由と研究者の良心を守るために、全力をつくして闘ったことです。 戦前の目本において、軍国主義的弾圧と官僚的抑圧とに対して、その生命を賭して、学問の自山と人間の尊厳とを守りつづけた大内兵衛、河上肇、山田盛太郎、有沢広巳、脇村義太郎、河合栄治郎、矢内原忠雄などの経済学者を彷彿させるものがあります。戦前の弾圧、抑圧は、アメリカの場合と比較できないほどきびしく、これらの経済学者の払った犠牲は大きかった。しかし、これらの先達が経済学における学問研究の白由を守り、自らの人間的尊厳を保ちつづけていったことによって、目本の経済学が救われたといっても過言ではないと思います。 (つづく) 雑誌「世界」五月号 |