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香田誉士史 4.5. 日刊スポーツ
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2019 年 2 月 23 日 08:19:15: tZW9Ar4r/Y2EU QlJJQU4gRU5P
 


暗くて地味で情けなかった/香田誉士史4


2/22(金) 6:01配信

日刊スポーツ

暗くて地味で情けなかった/香田誉士史4


05年夏2連覇を達成した駒大苫小牧ナインは田中(中央)を中心に大喜び。手前は松橋


95年の赴任当初、全国屈指の強豪だったアイスホッケー部やサッカー部が肩で風を切る横で、室蘭地区予選すら突破できない駒大苫小牧野球部は目立たなく、香田の言葉を借りれば「暗くて、地味で、情けなかった」。そんな情けないチームを形にするには、どうしたらいいのか。技術がないなら、せめて恥ずかしくない態度を身に付けさせたい、と考えた。

【写真】 香田誉士史氏

自転車で球場まで移動する時に2人乗りはしない。カバンや靴はきれいに並べて置く。返事、あいさつはきちんとする。「野球はすぐにうまくなれないけど、そういう部分は変われるだろ」。駒大苫小牧といえば、大きな声でのあいさつ、道具を扱う際の気配りなど、今や道内一と言っていい。むしろ徹底されすぎていて怖いくらいだが、土台はこの頃に作られた。

24歳の熱血監督と甲子園など夢にも思わなかった高校球児の距離は、簡単には縮まらなかった。それでも、当時の話になると、香田の表情はパッと輝く。

香田 あの頃が一番面白かったな。あいつらのおかげで勉強になったし、あのスタートがあったから、その後もあった。

赴任して2年目の96年夏、さっそく結果が表れた。室蘭地区で春の北海道大会を制した苫小牧工を撃破し、13年ぶりに南北海道大会へ駒を進めたのだ。南北海道大会では初戦突破も、準々決勝で北海に2−3で敗退。紙一重の勝負だった。勝った北海は、甲子園出場を決めた。

香田 悔しくて、球場を出る時に泣いていた。あの時、甲子園との距離が見えた気がした。泣きながらも明確な自信が湧いてきた。

97年以降、駒大苫小牧は室蘭地区を勝ち上がり南北海道大会の常連となっていく。道具を一切使わない駒苫名物の想定練習や人さし指を掲げるNO・1ポーズ、そして雪上ノック。あふれ出るアイデアが全国制覇への道を加速させた。

当時、北海道でしのぎを削った指導者たちが香田を語る時、必ずと言っていいほど口にするのが「徹底力」や「反骨心」という言葉だった。同じ71年生まれで古豪・北海の監督として16年夏の甲子園で準優勝した平川敦(46)は言う。

平川 駒苫といえば、やっぱり機動力。野球自体が違った。リードの出方、走るタイミング、ベース前の加速の仕方、ランナーの意欲も常に全力。熱くて、激しくて、泥臭い。

フライでも、走者は次の塁にスライディングをしてからベンチへ戻った。守備のミスを想定しているからだ。「あんな無駄なことをさせて、どうするんだ」。あざける人もいたが「常にやっているから、とっさにできる」と平川は思っていた。

一瞬でも、諦めない。夏の甲子園で常勝を誇った04〜06年の3大会は、14勝のうち逆転勝ちが8試合。5点差、6点差もはね返した。もちろん、運はあった。驚くような投手起用がはまり、監督のサインミスを選手が救った。勝機では吹奏楽部員が奏でるチャンステーマに乗って、一気に相手をのみ込む猛攻撃。その戦いぶりは、香田がチームへ注ぎ込んだ信念を如実に表し、勝利の女神を魅了した。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

(2018年1月30日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190222-00485581-nksports-base


駒苫以外のイメージ沸かないでしょ/香田誉士史5


2/23(土) 6:01配信

日刊スポーツ

駒苫以外のイメージ沸かないでしょ/香田誉士史5


17年11月、西部ガスの新球場で打撃練習を見守る香田監督


その日の天気予報は雨だった。香田は駒大苫小牧の監督として01年夏、03年春と甲子園出場を果たしたが、いずれも1点差で初戦敗退。迎えた03年夏のことだった。初戦の倉敷工(岡山)戦は序盤から打線がつながり大量8点をリードも、試合前のノックから降り出していた雨が次第に強まり4回途中で降雨ノーゲームに。翌日、仕切り直しの一戦で敗れた。

【写真】05年夏2連覇を達成した駒大苫小牧ナインは田中を中心に大喜び

香田 勝ちが欲しくて欲しくて…。選手ではなく、俺自身が気持ちを切り替えることができなかった。俺は甲子園で勝てない監督なのか、勝負師にはなれないのかっていう劣等感に押しつぶされそうだった。

降雨ノーゲームで甲子園初勝利が流れてから1年後、04年夏の初戦を控えた甲子園の室内練習場は、妙な熱気に包まれていた。現駒大苫小牧監督で、当時主将だった佐々木孝介(3年)の手には、前年悔し涙を流した卒業生からの手紙があった。「甲子園での悔しさは、甲子園でしか晴らせない」。ミーティングの様子を練習場の隅で聞いていた香田は、選手よりも号泣していた。

佐々木 僕らは「香田信者」でした。監督の不器用で繊細な部分が、選手に伝わってくるんです。勝った日の夜は必ず宿舎のホールでニコニコして「熱闘甲子園」を見ていましたね。

泣いたり、笑ったり。威厳のある監督ではなかったかもしれない。それでも、香田が口にする「全国制覇」は、いつも本気だった。04年夏、初戦の佐世保実(長崎)戦でようやく甲子園勝利監督となった香田は、一気に頂点に上り詰めた。大会史上最高打率で初優勝したメンバーは全員、北海道出身者だった。

初優勝から3年後、香田は監督を辞し、翌08年に駒大苫小牧を去った。「指導者として情けなかった」との思いをかみしめて。05年には57年ぶりの夏の甲子園2連覇を果たしたが、部内で相次ぐ不祥事にチームは何度も空中分解しかけた。06年、それでも夏に3年連続で甲子園の決勝へ進んだ。南北海道大会まで主将を務めた田中将大(現ヤンキース)がエースだった。決勝で演じた斎藤佑樹(現日本ハム)擁する早実(西東京)との2日間にわたる熱戦は、球史に残る名勝負として語り継がれている。

香田 もめ事が多くて、選手には寂しい思いをいっぱいさせてしまった。将大の存在が大きかった。あいつの精神力は無条件に強い。それを見せつけられた。

「ほんの遊び心で」入学時には捕手だった田中を公式戦に登板させた頃が、懐かしく思えた。最後の夏は胃腸炎に苦しみながらも絶対エースとして君臨した右腕に、感服した。

高校球界と決別し、時は流れて昨年11月、福岡に拠点を置く社会人野球の西部ガスで監督に就任した。実に10年ぶりの「監督」復帰だった。

香田 高校野球という舞台で、俺が別の高校の監督をしているイメージは湧かないでしょ。踏み出せない。怖さもある。それに、経験したことのないステージで試したかった。

新たな道を歩み始めたが、甲子園の思い出が色あせたわけではない。

再び、時を準優勝した06年夏に戻そう。閉会式後のことだった。早実・和泉実監督(56)の胴上げを見届けた選手たちが「監督、胴上げ、お願いします」と集まってきた。ひっそりと甲子園で行われた、もう1つの胴上げ。香田の体が、宙を舞った。

香田 あいつらとはわかり合えなかったと思っていたけど、体が浮いた瞬間、全てが吹っ飛んだ気がして、涙ボロボロだった。優勝した時より、涙が止まらなかった。

「薄っぺらい」と感じていた教え子たちとの絆は、しっかりとつながっていた。「奇跡の夏」が、終わった。(敬称略=おわり)【中島宙恵】

(2018年1月31日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190223-02170440-nksports-base
 

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