http://www.asyura2.com/09/sports01/msg/454.html
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カツィディスのフェイス・ブックより:
http://www.facebook.com/pages/Michael-Katsidis-The-Great/136295246383555
“There are reports out there that I have retired however that decision has not yet been made”.
「俺が引退したというレポートがあるが、まだそれは決めてはいない。」
日本に来て日本人の奥さんと娘さんと相談するそうだ。(マイケルがタイでずっとトレーニングしていたので、日本に帰国していた様だ。)
*
元記事:
http://www.blurty.com/talkpost.bml?journal=chilledvodka&itemid=107226
Michael Katsidis likely to retire following bad medical exam
健康診断の悪い結果を受け、マイケル・カツィディスは引退するだろう
http://www.badlefthook.com/2013/2/11/3979126/michael-katsidis-likely-retire-following-bad-medical-exam-mri-cat-scan-boxing-news
この世代のトップ・アクション・スターの内の一人であるマイケル・カツィディスは、MRIとCATスキャンの悪い診断結果を受け、ボクシングから引退する模様だ。医師達は32歳の前世界タイトル挑戦者に再びボクシングをしない事を助言し、そして彼は2月21日に予定されていた試合をキャンセルした。
トレーナーのジョニー・ルイスのコメント:
「マイケルはこのニュースに泣いていた。心が折れそうだ。何かを発表する前に彼は家族と話したいそうだが、彼が戦って本当に悪い何かが起こる前に、診断結果が彼を止めたのは本当に良かった。」
<以下省略>
私がカツィディスを知ったのは、たまたま彼と英国人ボクサーのグラハム・アールの2007年の試合をネットで観たからだ。アールの評判は知っていたので、どんなものかと軽い気持ちで観たが、衝撃を受けた。カツィディスは典型的なイン・ファイターで、それこそおでことおでこがくっつく位の距離で相手と打ち合う。これが出来るのは、カツィディスが生まれつきの強打力の持ち主だからだ。パンチ力というのは、足が速い遅いが生まれつきに決まるのと同じで、特別なものだからだ。ああ、この選手はいつか世界チャンピオンになるだろうな、と思って遠目から注目していたのだが・・・こう言った事実があった様だ。
Boxer Michael Katsidis on coming to terms with his brother Stathi's death
ボクサー、マイケル・カツィディスが、兄スタシの死を受け入れるまでを語った
http://www.news.com.au/sport/boxing-mma/boxer-michael-katsidis-on-coming-to-terms-with-his-brother-stathis-death/story-fndkzthy-1226545192934
マイケル・カツィディスは今でも多くを彼の兄のせいにする。例えば、左眉の丁度上のギザギザの古傷だ。
カツィディスがアメリカの強打者ヴィンセンテ・エスコビードとWBOのライト級王座戦を戦い、1ラウンド目に(古傷が)切れた様に。
血は一晩中(試合中)流れ続けた。
対ジョエル・カサマヨァーの時は2ラウンド目だった。リッキー・バーンズの時は4ラウンド目。ロバート・グエレロの時は5ラウンド目。
そしてタフなフィリピン人選手ツァー・アモンソットの時は・・・戦争の9ラウンド目にその古傷は切れ、最終的には顔を26針縫い、彼は脳内出血を起こしていた。
だが、このオーストラリア人ボクサーは、(西部劇俳優の)ジョン・ウエインが保安官のバッジを着けるよりも誇りを持って古傷をしょう。
「何故かというと、」彼は微笑む、「スタシが俺にくれたからさ。」
ゴールド・コーストの静かなカフェに座り、カツィディスはもう10分以上も彼のキャリアにおける最大の試合を思い出している処だ。
そして我々(記者とカツィディス)はウェンブリー・アリーナやMGMグランド(英米のボクシングのメッカ)にまだまだ近づいていない。
いや、代わりにこのタフなトゥーウーンバ(出身)の青年は、兄のスタシがクッキング・フォークで彼を刺した朝について君に伝えている。そして数か月後には、(クッキング・フォークは)キッチン・ナイフにアップグレードされた。
此処には、小さなマイケルの18か月歳上であるだけでなく、勝ためには彼のつま先の爪さえ噛み切るライバルがいた。または彼の足をダーツで刺す様なライバルが。
「そして取っ組み合いだろ?」カツィディスは笑う。「スタシは強すぎて、あいつが乗っかると、逃れる術はなかったよ。」
「実際に、これが俺が14歳でボクシングを始めた理由さ。俺は兄貴が乗っかられないという唯一の目的でジャブを打って動く事を学んだのさ。」
そして彼等の最大の殴り合いについては?
「金属の棒でここを殴られた時じゃないかな、」カツィディスは歯を見せて笑い、彼の左目の上の古傷を指す。「兄貴が俺(の傷)を割ったのは俺が10歳の時で、あれ以来、(試合のたびに)切れ続ける。
「スタシの野郎・・・そうだ・・・」
一瞬止まり、カツィディスの右手は本能的に金のネックレスへと動く;それから下がるペンダントには、今は亡き彼の兄の指紋が彫られている。
オーストラリアのチャンピオン騎手スタシ・カツィディスがブリスベンの借り屋の床の上に顔を下にして死んでいるのが発見されてから2年経った。酒とドラッグという致命的なミックスからだった。
それ以来、答えを2つの体重階級に求め、トレーナーを3人変え、マネージメント・チームも同様に変え、5度戦い − 4度敗れた − このボクシングをする弟には長い2年だった。
彼はラスヴェガスから日本に移った。日本からはロサンジェルスに移った。今でさえ、1月からの新たな始まりのためにシドニーへ移る前に、ゴールド・コーストに一時的に滞在している。
世界(タイトル)を制圧する寸前だった2年前だったが、カツィディスは今、衰えたと考えられている。全盛期は過ぎたと。
最近のキューリアー・メイル紙のアンケートによると、彼の同郷のクイーンズランドの人達でさえ、彼は引退すべきだと思っている。
「そして俺はそれらの全てについてスタシのせいにするべき、だろ?」カツィディスは肩をすくめる。「此処に君と座り、そういう路線で行くのは確かに良い言い訳に聞こえる。」
「でも真実は、あいつのせいじゃない。俺のせいだ。」
「スタシがドラッグで死んだ時、俺は受け入れるのを拒んだ。俺はほとんど18か月位、俺の親友(兄貴)のために一粒の涙を流さなかった。俺は単純にあいつがそういう風に逝ったと受け入れるのを拒んだ。」
そして誰が彼を責められるだろう?
無敵の様だった男が、有名になった事だが、ブリスベンの競馬レースにスーパーマンの衣装で現れた男が、彼の究極の救い(償い)の前夜に逝ってしまうと誰が信じられただろう。
スタシ・カツィディスは、何にせよ、エクスタシー(ドラッグ)使用による出場停止が解けていた男だ。彼はダマスカス(医療施設)でのドラッグとアルコール依存症プログラムも終えていた。
全てのハイは、彼は聞く耳を持つ人全てに云っていた、今はパートナーであるメリッサ・ジャクソンと彼女の5歳の息子ブルックリンという小さな家族からのみ来ると言っていた。
競馬場のトラックでもカツィディスは飛んでいた(好調だった)。既にその年(2010年)には500,000(オーストラリア)ドルを稼ぎ、この遠慮なくずけずけ言うフープ(?)は、シュート・アウト(馬名)に乗って最初にコックス・プレートで勝ち、それからメルボルン・カップでの競争での更なる栄光を予想していた。
「それでよ、俺はお前にミック(マイケル)がホアン・マニュウエル・マルケスと戦うのを伝えたか?」
そうだった。2010年の10月にカツィディス(兄)と出くわす事は弟のマイケルがメキシコの超大スターとWBAとWBOのライト級の(世界)タイトルを賭けて戦う事の詳細を聞くのと同じだった。
彼の弟は既にイングランドのグラハム・アール(25勝1敗)とケヴィン・ミッチェル(31勝0敗)という、2者の戦績合わせて56勝1敗という二人の英国人を破り驚かせていた。
だが、マルケスの首を取る事は、戦うクイーンズランドの青年にとって真の頂点であり、ただアメリカにいるだけではなく、アメリカのボクシング・ファンを熱狂させる(知名度が上がる)事を意味する。
「でも、それから、」カツィディスは思い起こす、「俺に電話が来た。」
彼の兄貴が死んだ朝、マイケル・カツィディスはトレーニングをした。
母ロビンからの涙の電話を切ったの後、タイのトレーニング・キャンプの熱気へと真っ直ぐ歩み殴り始めた。
確かに、カツィディスは、ツァー・アモンソットに対する勝利においてさえも顔に26針の傷をうけるファイターがするだろうと思われる程、常にハードに調整する。
だがこの日の彼は違っていた。
「何故かと云うと、俺にとってスタシは死んでいなかった、」カツィディスは言う。「俺が意味してるのは、それはその前の夜に俺達はこの凄い会話を電話で話したばっかりだったって言う事だ。」
「ずっと話したよ。俺達の両方が俺達の最も大きい勝利の寸前にある事を。俺がマルケスに勝ち、あいつがシュート・アウトに乗ってメルボルン・カップを取ると。」
「俺達の子供達がどれだけ親父達を誇りに思ってくれるかとか話した。2,3年もすれば、俺達皆が誕生日やクリスマスに一緒にすごすとかね・・・どう俺達が俺達自身で偉大な遺産(レガシー)を築いているとかね。」
そしてレガシーがカツィディスが気にする全てだった。それが、26歳で無敗だったこのクイーンズランド出身者がある朝、起きて、兄貴に彼がアメリカに渡る事を伝えた理由だった。
「そして俺は行ったままだ、」彼は言った、「どれだけ長くかかろうとも成功するまで。」
そして君は彼がそうしなかったと思うか?
それから6年、自己保存という感覚全くなしで戦い続け、カツィディスは2つの世界タイトル(暫定王者)を取るだけでなく、ロンドンやラスヴェガスやロサンジェルスの道端で永遠に(ファンに)止められる程の戦士的な評判を得た。
カツィディス兄弟(2006年)
http://resources0.news.com.au/images/2012/12/30/1226545/192884-stathi-katsidis-michael-katsidis.jpg
確かにオーストラリアではアンソニー・ムンダインがニュースの話題になる。「でも、誰がsh*tを与える?」彼は肩をすくめる。「それは何故、俺が戦うかではない。」
「それらの何人かのファイター達がそれぞれ自分がベストだと言っているのを聞いた事がある。でも、彼等はそうか?彼等は本当にベストか?」
「スタシと俺があの夜話したのは、俺達がやった事で覚えておいてもらう事で、俺達がやると言った事じゃない。」
「俺の兄貴はとても鮮明なマインドの様で、とても幸せそうだった。だから俺はあいつが逝ってしまった事を信じるのを拒否した。」
「俺がお袋からあの電話を貰った時に、俺は直ちに真っ直ぐにオーストラリアに帰るべきだった。悲しむべきだった。その代りに、俺は電話を切ると、自分自身に言い聞かせた’これをfu*kしろ。俺がマルケスを破れば俺の兄貴は生き続ける’。」
そして2010年11月27日に − スタシの葬式の4週間後に − マイケル・カツィディスは、ギリシャ移民という遺産にホマージを払い古代スパルタの兜をかぶり、3対1という劣性の賭け率と共にMGMのグランド・アリーナに入場した。
あの最後の会話の中で、カツィディスはスタシに彼に賭けろと強く勧めた。彼(が勝の)は確かな事だと。
その自信は、第3ラウンドに強力なフックでマルケスをノックダウンした時に、彼の左手からにじみ出ていた。
そして丁度その様に、ボクシングの最大のステージで、カツィディスは突然、勝利から10秒、9秒、8秒の秒読み寸前だった。永遠の名誉から。そしてそれから、まあ、彼は彼等を聞いた。
「あれは2人のコメンテーターだよ、」カツィディスは思い返す。「俺が丁度マルケスをノックダウンさせた処で、俺に聞こえた全てはその2人のリングサイドのコメンテーターがこれは俺の兄貴のためだって言っているのだ。」
「彼等は大声で叫んでいたよ。おお、彼は彼の兄貴の事を考えてる。彼は彼の兄貴の事を思っていると。そして何か知っているか?俺はそうしていた(考えていた)。
「マルケスが立ち上がった頃には、俺は動物に変わっているべきだった。ガンッ、ガンッ、ガンッと行ってそして仕事を終わらせるべきだった。」
「でも、俺は仕事を終わらせる事を考えていなかった。俺はスタシの事を考えていた。」
「君はリプレイを観てみろ。マルケスを始末する一つの好機が其処にあったが、代わりに俺は彼を見て、そしてポンとジャブを彼の唇に打った。俺は(ジャブ以外の)何でも打てたのに・・・」
それはタイトル戦が勝たれるコンマ数秒の一瞬の内の一つだった。マルケスは続く6ラウンドで驚くべきタフさで対抗し・・・君も想像しただろうが・・・あの左目の上の古傷が開いた。
カツィディスは力尽きた。
数日後、アメリカのボクシング評論家達はこの死闘をHBO年間最高試合と称した。だがそれはスタシ・カツィディスを生き続けさせる勝利ではなかった。
「だから俺は直ぐに次の試合を求めた、」彼の弟は言う。「そしてその後も、その後も。18か月以上、俺は俺のキャリアの他の段階と比べても最も多い数を戦った。」
そして彼が戦っているかトレーニングしているか以外は、カツィディスは買い物をした。
金のローレックスを買い、黒いBMWを買い、ほとんど着もせず彼の母の押し入れに仕舞われたデザイナーの服一式を買った。
それはカツィディスが26歳の時に無敗でWBO世界ライト級の(暫定)王者になり、ラスヴェガスで一人で住んでいた時に取り入れた一種の対処するためのメカニズムだった。
寂しさを紛らわすために、彼は馬鹿らしい程高い、土地の売買を2000年前に成立させた古代ギリシャのコインの様な小物を買った。
値段:$18,000.
「総て使って、俺は何百万ドルもつかった、」カツィディスは肩をすくめる。「何百万も。でも、長い間、それが俺の対処のしかただった・・・俺はスタシの事を考え始めて行ってローレックスを買った。」
マイケル・カツィディスはようやく5か月前に彼の兄貴を埋葬した。
彼は一人だった。ロサンジェルスの借家のアパートのラウンジ・ルームに座り、涙を流しながら、彼の兄貴の葬式のDVDの録画を観た。
2年間の間、カツィディスは録画を観るのを拒んだ。「俺の人生の毎日の日々を手助けしてくれた」友に、もう彼がとどく事が出来ない事を信じるのを拒み続けた。
確かに、スタシ・カツィディスは − 喫煙者で、ジョークを言う人で、深夜に大麻を吸う人で − 暴れん坊だった。ネッド・ケリー以来の騎手で最も長いラップ・シート(逮捕・犯罪記録)を持つ者だった。
だが、奴には金玉があった。
サウナで5キロ体重を落とせる奴だ − そうだ5キロだ − そして次の日にまたやる奴だ。2008年に彼の足の骨を500キロの馬の重さで想像出来る位に粉々にされた戦士だ。
医者は彼が二度と乗れないと言った。
だが、彼等を弁護して云えば、彼等は彼の事をそんなに良く知らなかった。「そしてあの録画を観て、どれだけ多くの人達があいつのために集まってくれたのかをみて、俺はやっと受け入れた。俺の兄貴の人生は、それは生きられたと、」カツィディスは言う。「あいつはあいつがするために生まれてきた事をしたと。」
カツィディスはあの録画を観て以来、戦っていない。
代わりに、彼はオーストラリアに戻り、資金事情を整理し、彼自身の周りを、2人の幼馴染とオーストラリア人のベテラン・トレーナーのジョニー・ルイスだけで固めた。
今週中に彼は、オファーが必ず来ると彼が知っているシドニーに移転する。
彼等を相手にするのは、カツィディスは言う、もっとスマートになったファイターだと。用意周到に動き、フェイントをかけ、彼の疑う余地のない強打と心と、何年も最高の対戦相手と戦う事からのみ得られる知識を持つ戦士だと。
「だから、そうだな、俺は本当に帰ってきた気がするよ。俺のキャリアの最終段階に入って行く様な感じだ、」彼は言う。「そして2年間しょい続けた重荷からやっと解かれたからだ。」
「勿論、俺があいつに今でも怒る日はあるさ。俺が、スタシ、お前、このチンポコ野朗、何のためにそれをやったんだ?っていう日がね。」
「でも、少なくとも今、俺は理解している。あいつは間違いを犯したが、兄貴はそれでも一つの伝説として死んだ。あいつを偉大な騎手で、好かれやすい大口叩きで、素晴らしい友として覚えてくれている多くの人達がいる。」
「スタシは彼のレガシーを創造して逝った。そして本当に。・・・一人の男にそれ以外何がある?」
(おしまい)
マイケル、お疲れ様。
ありがとう。
Michael Katsidis v Graham Earl 17 February 2007 The Arena, Wembley, London, UK
カツィディス(WBO世界ランク2位)対アール(WBO世界ランク1位)(暫定王者決定戦)
http://www.youtube.com/watch?v=FTKioYMkm9c
Michael Katsidis v Kevin Mitchell 15 May 2010 Upton Park, West Ham, London, UK
カツィディス対ミッチェル
http://www.youtube.com/watch?v=KXh5TiAEE4o
Michael Katsidis v Juan Manuel Márquez 27 November 2010 MGM Grand, Las Vegas, USA
カツィディス対マルケス(世界戦)
http://www.youtube.com/watch?v=ExCKwg-JF4w
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