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http://sankei.jp.msn.com/life/body/100102/bdy1001021951000-n1.htm
「誰かが死んで私が生きていいの」。重い心臓病に苦しむ小学校5年生の女の子が、国会で臓器移植法改正の議論が続くなかで「よかったね」と言った母親に、泣きながら、こう言った。昨年6月の法改正の動きにあわせ連載した「風」に寄せられた手紙につづられたエピソードだ。 昨年7月、臓器移植法が12年ぶりに改正された。臓器提供の年齢制限はなくなり、15歳未満の臓器提供もできるようになり、本人意思が不明な場合は、家族の同意で提供が可能になる。改正法は今年7月に施行され、手紙の母親が望んでいた状況に近くなる。 法改正の目的は大きく2つ。1つは、年間10例程度と少ない臓器提供を増やすこと。施行後は提供増加が予想されており、日本移植者協議会の大久保通方理事長は「平成23年度には80例程度まで増えるのではないか」という。もう1つは、事実上国内で不可能だった小児の心臓移植を可能にすること。小児の脳死判定基準整備などの問題を解決する必要があるが、少なくとも「道」は開かれる。 しかし、改正法は、冒頭の少女のような臓器提供を待つ人の「罪悪感」を払拭(ふっしょく)することはできるのだろうか。 全国交通事故遺族の会は「他人の死を待つ医療」と題する意見書を発表した。そこには「自分や家族の命を助けるために、誰かが死んでくれるのを待っている、そんな構図の上に立つ医療は、医療とは呼べません」と記されていた。 確かに脳死移植は、誰かの死がないと成立しない。だが、ある医師は「移植は『人の死』を待っているのではない。言葉にするのは難しいが『善意』というか『愛』というか、無償のプレゼントを待っているんだ。難病で苦しみながら移植を待つ患者が、罪悪感にさいなまれる社会はおかしい」という。 改正法では生前に臓器提供しないという意思表示ができ、家族も脳死判定を断れると規定している。もちろん、提供を断ることは責められるべきものではない。改正法はすべての人に、臓器提供するかを考えてほしい−と呼びかけているともいえる。それぞれが真剣に考えることが、医師がいう「おかしな社会」を変えられるかもしれないのだ。 改正法施行後、運転免許証などで臓器提供の意思を拒否を含めて表示ができるようになる。自らも移植を受けた経験を持つ大久保さんは「これをきっかけに移植について真剣に考えてもらいたい」と願っている。 (溝上健良) -------------------------------- 臓器移植法が改正され、脳死は例外なく人の死となった。それまで脳死を人の死と考える人と、脳死は人の死ではないと考える人の間の意見の相違をギリギリのところで調和させるために、生前のうちに脳死状態となったときに臓器を提供したい人だけが臓器移植カードに移植したい臓器に印をつけるという仕組みを作った。この仕組みは脳死について異なる考え方を持つ人々をそれぞれに納得させるものだった。 しかし臓器移植法が改正されたことにより、脳死=人の死 となった。脳死医療(脳死状態での臓器移植を医療と呼べればだが)は脳死者を待ちわびるものであり、脳死になりそうな人は治療よりも脳死臓器移植に備えた処置が優先される危険が常に存在する。脳死がどのような意味であるかを正確に知っている人は少ない。また脳死判定が被験者を脳死に陥らせるストレス(無呼吸テスト)を与える問題がある。そして現実の脳死臓器移植ではあらかじめ定められた手順を間違える事例が少なくない。 15歳未満でも臓器提供ができるようになったが、それは保護者の意思によって決められることになった。これまでの考え方からすれば、15歳未満は自分の意志で脳死について判断する能力がないため臓器提供の対象外とされてきた。それが今回の改正で保護者の忖度で臓器移植するかどうかが決められてしまう。これはどう言い繕っても暴挙というものである。小児の脳死判定には不明な点が多く、現時点での小児からの脳死臓器移植は不可能である。 今回の移植法改正で、重度の脳損傷者の家族に脳死判定テストを押し付ける事例が増えることが危惧される。 |