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出典 : http://bund.jp/md/wordpress/?p=2932#more-2932
2009 年 9 月 16 日
【 あなたは人を憎んだことがありますか?】----(ブログ旗旗)
唐突ですが、あなたは人を「憎んだこと」がありますか?
「まあ、あるかな」くらいが一般的な答えかと思うのですが、その程度では「憎んだ」ことになりません。
私はあります。
やっとその時の心情程度なら書くこともできるようになりましたが、10年以上がすぎた今でも、詳しく話すことができません。
話そうとしても口がカラカラに渇いて言葉が出なくなります。ましてや文章になんて絶対にできません。
ですがおそらく、まだまだそれも「憎しみ」としては生ぬるいものであったろうことが、むしろそういう経験をしたからこそわかります。
よく残忍な殺人事件などで「遺族の気持ちを考えろ」とか言う感情的死刑賛美派のマッチョな人がいますが、私はそういう人には心底腹わたが煮えくりかえります。
憎しみの辛さや恐ろしさを知らないからこそ、そういう無神経なことを平気で言えるのです。
そういう人は単に「遺族」をダシにして、自分のちっぽけで薄っぺらでくだらない「正義感」を満足させたいという、軽々しくて醜い欲望があるにすぎません。
もちろん私にだってそういう「こんなやつ殺してしまえ」的な感情は人並みにありますが、軽々しい気持ちでそれを口に出して煽ることは、くだらない自己満足ではあっても、遺族や被害者のことを考えた行為では絶対にあり得ないと思っています。
これは死刑の賛否とは別問題です。
本当の死刑存知派の冷静な意見は、それなりの悩みと苦悩を持って、判決文にもよく使われている、「やむをえない」という文脈になっているのですぐにわかります。
憎しみは本当に恐ろしいです。
憎しみはそれを抱く人の心を侵食し、ボロボロにします。
心だけでなく、体にも大きな変調をきたします。
寝てもさめても考えるのは、復讐と自殺へのこらえがたい誘惑ばかりです。
物もほとんど食べられなくなります。
無理に食べても吐きそうでした。
ほんとうにどう言えばわかってもらえるのか、どんな言葉を使えばいいのかわかりません。
私は子供の頃、いじめられっこだったので、イジメの相手を激しく憎んでいたと思い込んでいましたが、それは単なる、ちょっとばかり粘着質なただの「怒り」の感情にすぎなかったとはじめてわかりました。
その経験から断言しますが、憎しみは、憎む相手への復讐では決して癒されません。
それも少し冷静になった今だからこそわかるのですが、もし、当事に誘惑のままに復讐を果たしていたとしても、あるいは相手をズタズタに殺したとしても、それでも私の中の憎しみは決して癒されもせず小さくもならず、さらなるむなしさが私の心を吹きすさんだにすぎないと思います。
「憎しみからは何も生まれない」−ありがちでよく聞く言葉です。
ですがこの奇麗事とさえ思える言葉を、心底理解できる人がどれだけいるでしょうか。
私はこの言葉を、本当によく言ったもんだとしみじみ思います。
「憎しみは復讐では癒されない」−これもそうです。
人が憎しみの地獄から救われるただ一つの方法、それは相手を「赦す」ことができた時だけです。
断言します。それ以外には憎しみの苦しさから逃れる方法は絶対にありません。
しかしきっと、憎しみの真っ只中にいる人には、こういう言葉もむなしく響いてかえって反感を持つだけでしょう。
私がこういうことを言えるようになったのも、自分の憎しみを客観視できるようになったからです。
たった20年もたたないうちにこんな心境になれたというそのことが、私の憎しみの地獄もたいしたもんではなかったということが、経験者としてわかるのです。
私が差別や犯罪の問題を考えて発言するとき、何かしら犯人や差別者に甘いと感じる人がいるかもしれません。
しかし必ずしもそうではありません。
なにより差別や犯罪の被害者の心情を第一に考えるからこそ、むしろそうであるからこそ、被害者が差別者や犯人を「赦す」ことができるためにはどうしたらいいか、そのことを第一に考えてしまうのです。
「被害者の立場を考える」とは、決して差別者や犯人を、事件とは関係ない無責任な誰かが吊るし上げることでは果たされません。
もしそんなことで被害者の心情がすっきりと癒されて満足してしまうのなら、それは憎しみではなくて怒りの段階であったということでしょう。
私が4年前の3月に書いた「差別被害者の救済とは」というエントリーも、こういう経験があって書いたものです。
これは差別に限らず、憎しみから救われるためにはどうしたいいかを考えた上でのものです。少し引用します。
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では「被害者の救済」とは何だろうか?私は以下のように考えます。
第1段階)被害者が加害者に、自己の苦しみ・悔しさ・怒りを直接ぶつける場を作る(糾弾)
第2段階)人権・差別の専門家をまじえ、加害者の言動の何が問題だったのかを3者で検討(確認)
第3段階)加害者が、専門家と被害者の指摘や援助で自分の罪を認識することに成功(反省)
第4段階)上記の内容に基づいて加害者より心からの謝罪が行われる(謝罪)
第5段階)被害者が謝罪を受け入れ、許し、癒される(和解)
これらはこの順番とおりに行われなくてはならないし、表面的な謝罪が行われても問題の解決(被害者のトラウマの回復)にはつながりません。
たとえばありがちなパターンとして、自分が悪いと思っていない加害者に無理矢理に形だけ謝罪させた後、被害者がここぞとばかりに加害者を糾弾しまくり、お互いに「何が問題だったのか」を確認もせず、「今後は気をつけよう」で終わる場合など。
これでは被害者・加害者双方の心にわだかまりが残り続け、和解や癒しにつながらないどころか、かえって差別を温存・拡大し、被差別者への偏見を助長することにもなりかねません。
最悪の場合には、抵抗できなくなった加害者への報復(逆差別)さえ考えられます。
ですから1年でも2年でも、時間がかかってもいいから、確実に中身をともなって、この順番とおりにすすめていくことが大切です。
そして被害者の心の救済で一番大切なのは、1)の「糾弾」ではなくして、5)の「和解」であると私は思います。
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これを書いた時には知らなかったのですが、「修復的司法」という概念があるそうです。
私が考えることなんて、とっくの昔に偉い人が考えていたということですね。
これに対する概念が「応報的司法」ですが、もちろん両者は必ずしも対立するものではなく、早急に修復的司法の考え方を、被害者救済制度の中に位置づけて導入し、応報的な制度と並立させた上で適度なバランスをもって運用されていくことが、被害者救済のためには必要だろうと思います。
よくある刑罰の重罰化論の動機は、ほとんどの場合は応報的司法にのみ偏った考え方で、私が言うところの「無理矢理に形だけ謝罪させ」る行為に相当すると思っています。
その究極の形が死刑だろうと思います。
いろいろな考え方はあるでしょうが、死刑囚に反省を求めることはできない。
反省を求めないかわりに手っ取り早く殺してしまうというのが死刑の思想なのだと思います。
もちろん犯罪によっては適切な刑罰に改正することが必要な場合もあるでしょうが、少なくとも被害者や遺族の心の救済という点では、「できるだけ重い刑を科す」というだけでは不充分であると思います。
私が「犯人の人権を徹底的に尊重した上で毅然として罰せよ」と言うのは、わかる人にはわかるでしょうが、決して犯人の人権ばかりを尊重して被害者を軽視するとか、何かしらカッコ付の浅はかなニワカ「右派」が言うような、人権原理主義からではありません。
むしろその逆なのです。
昔の人は本当によくしたもので、憎しみ・怒り・憤り、そして義憤、これらに全部別の言葉があてはめられているのは、すべてが全然違う感情だからです。
念のため、それは決して国語辞典に書いてあるような意味で違うということではありませんよ。
だってそれぞれの言葉で本が一冊書けるくらいですもんね。
ともかく、「憎むべき」と形容されるような敵権力が相手であろうとも、決して憎しみの心で闘ってはいけないと心底思っています。
より小さき愛すべきもののために、あるいは虐げられても人間の尊厳を忘れない尊敬すべき人々のために、それが三里塚農民でもイラク民衆でもチベットや東トルキスタンの人々でも、あるいは人間以外の自然でも、ともかく彼らが好きだ、尊敬しているという愛の心情のためにこそ「闘い」は正当化されると思います。
憎しみは新たな憎しみを生むだけで、それ以外の何者も生み出しません。
ここに書いたことは人間としてはかなり難しいことで、今だからこそ書けるのかもしれません。
いつどんな場合でも同じことを言えるかといえば、私にも自信はありません。
それくらい「人を憎んだ」経験は重いものでした。それでも、こういう文章を書いたことは忘れずにいたいと思います。
※動画はさだまさしの『償い』。さださんの知人である被害者の奥さんの実話を元に詩が作られたという。
のちに世田谷区の電車ホームで少年が銀行員の男性に対し4人がかりで暴行を加え、死亡させた事件の公判で、実刑判決を下した裁判長が「唐突だが、君たちはさだまさしの『償い』という唄を聴いたことがあるだろうか」と切り出した。そして「この歌のせめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と説諭を行ったことで話題となった。