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「日本人の心性」のいくつかの特徴(3)=奥田史郎
http://www.asyura2.com/09/social7/msg/400.html
投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 8 月 23 日 09:42:29: mY9T/8MdR98ug
 

http://jcj-daily.seesaa.net/article/126255882.html#more

 「ここ」と「いま」が大切だから、日本社会では組織として何か失敗したとしても、その原因の調査や分析をすることがとても少ない。調査をすると誰か“失敗の責任者”を炙り出すことになるから、調査や分析を主張する声があっても大抵は「もう済んだことだ。それよりもこれからやる仕事に前向きに取り組む方が大事だ」と諭されて、ウヤムヤに終わることが多い。

【「ノモンハン事件」とは】 戦争・戦術失敗の場合、当事者は当然、軍部全体としても分析などしたくない。その典型例が「ノモンハン事件」である。1939(昭和14)年5月中旬から8月末にかけて、満州西北部に位置するノモンハンを中心とする広大なホロンバイル草原で、関東軍+満州国軍と極東ソ連軍+モンゴル軍とが激突した戦闘を「事件」というのは互いに宣戦布告なしだったからで、中国との場合同様に、国際法上の「戦争」にしたくない日本側の腹づもりもあった。発端は「相手が越境した」と主張し合う国境紛争であった。

「満州国」とソ連との国境は全長4000キロメートルもあり、しかもソ連は、傀儡の満州国を認めていないので清国と締結した場所を国境と考えている。満州国(日本)の主張と食い違う箇所がたくさんあり、さらにモンゴル人は昔からの土地に後から線引きされた境界を意に介さず、羊の群れが草を食うまま、かまわず移動している。だから国境警備を巡る小競り合いは1936(昭和11)年以来毎年150回以上、特に38〜39(昭和13〜14)年には数え切れぬほど頻発していた。

 常々、陸軍中央から「ソ連相手に大戦争にならぬよう、うまく収めろ」と命令されていた現地の関東軍は面白くない。今度相手が侵犯してきたら徹底的に攻撃してやると独自方針を準備したところへ、39年5月にノモンハンで紛争が起こった。そこで第23師団がすぐ出動してモンゴル軍を追撃したが、モンゴル軍+ソ連軍は反撃に転じ、日本軍の捜索隊が全滅するという結果になった。

 こうして陸軍中央が止めるのも聞かず関東軍は他の師団も投入して戦力を拡大し、ソ連軍も最新鋭の戦車部隊と大口径を誇る重砲部隊を投入したから、たちまち大規模な戦争になってしまった。ついに8月下旬、ソ連軍は戦車部隊、重砲部隊に加えて航空機部隊を投入して総攻撃を開始し、基本的に銃剣と白兵戦で応戦した第23師団は80%近い損害を出し、師団長は辛うじて脱出したが、日本軍の連隊長6人が戦死または自決という惨憺たる結果を招いた。日本軍の出動5万8925人に対して、死傷者1万9768人(約33.5%の被害率 1師団=2万人の壊滅に匹敵する)、ソ連・モンゴル軍も死傷者2万4992人という甚大な被害を出したが、停戦交渉の結果、国境線はソ連側の主張がすべて通ったので、日本軍の完敗に終わった。

【「ノモンハン事件」の教訓】 戦闘終結後「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われた。「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢との白熱的衝突である。国軍伝統の精神威力を発揮せしめ、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」と、両軍戦力をそれなりに分析しながら、最後を「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力ますます拡充するとともに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」と結んだ。今後もますます精神力を鍛える必要と、水準の低い火力戦能力を向上させた方がいい、という結論である。

 この反省文は例によって軍上層部の内部資料とされ、国民には「事件」の真相は隠された。参謀たちは一部左遷されたが罪は問われなかった。ノモンハンの戦闘が終わって2年半も経たぬうちに太平洋戦争が始まる。だが “低水準の火力戦能力”が補強された様子は皆無である。日本軍の小銃は明治38年製の“38式”のままだった。国民への精神力要求だけが、さらに強調された。

 この場合も「いま」と「ここ」だけが重要で、敗因の分析を将来に生かすことを真剣に考慮した気配は見られない。「自分たちに不利なことは徹底して隠し、その結果、報道は偽装する」という点だけが貫かれた。

 おそらく当時の軍指導者が学んだ最大の教訓は「北(ソ連)に手をだすな」「今後は、欧州戦線で羽振りのいいドイツを頼りにしよう」というものだったにちがいない。その後の昭和の歴史が、そのように歩んだからである。

【「日本不敗」神話で自縄自縛】 1941(昭和16〉年12月8日の太平洋戦争開始の日、内閣総理大臣兼内務大臣兼陸軍大臣である東条英機は、国民に向かってラジオで次のように力説した。「皇国(天皇が支配する日本)は開闢以来二千六百年、戦って負けたことはありません。戦って負けたことがない国の国民であるという幸せをまずきちんと味わうこと」そして「日本という不敗の民族がもつ皇国の大精神こそが、米英を討つにあたって重要である」

 その後も東条は、国民を鼓舞するために、何度も「皇国は負けたことがない」「皇国を思う庶民の心が何より大きな武器であって、それがあるかぎり決して日本は負けない」という言責を口にしつづけた。

 これが日本軍部の象徴的存在で、実質的に戦争最高指導者でもあった東条英機という人間の“思考の中身”であり、同時に日本軍部全体の信念でもあった。そのドグマに自縄自縛されて、戦争が進むにつれて、大本営(陸軍参謀本部+海軍軍令部)は戦局の不利や悪化を隠蔽し、“戦えば常に大戦果”という虚偽と誇張のニュースを繰り返し報道するようになったのである。

 なぜこのような虚構の戦果が報告され、そして日本全体がそれを信じてしまったのか。大本営が、現実よりも“願望による確信”と “甘い予測”に重点をおき、“日本不敗神話”を盲信して自分らのメンツにこだわったこと、そして戦況報告を現地の報告だへに頼って検証しなかったこと、さらにメディアが軍部に徹底的に統制・支配されていたこと、などが挙げられる。

【戦争に対する日米の差】 日本は総力戦と称して軍事がすべてに優先し、政治も経済も文化も国民生活も、社会全体が軍部に従属する国づくりが進められた。だがすべてを従えた軍のトップは現実を見ず、観念論に陶酔していた。

 それに比べ米英では、それを獲得してきた歴史的経過からみても、民主主義こそが社会の絶対的規範であり、それは戦時体制下においても不変であった。だから軍事も、政治・経済・文化と同等に社会を形成する部分だった。アメリカでは戦時下でも、プロ野球やスポーツ、映画やミュージカル類の娯楽はもちろん、メディアも制限されることなく、国民生活も日常のままだった。その実例は、戦時中に作られたアメリカ映画をいくつか見れば明らかである。

 戦略や戦術もビジネスと同様に、効率と損得をベースに組み立てられ、個々の作戦結果は(自軍の損失も正直に)指揮官による報告を義務づけ、事後に偵察飛行で撮影した綿密な点検が励行された。こうすれば、指揮官の思い違いや水増しによる誤差は最低限避けられる。米軍参謀部は、個々の作戦報告の点検にもとづいて、次の戦略・戦術を練り上げていったのである。

 その上、これらの軍事機密報告書も30年経てば一般公開されるシステムだから、第二次世界大戦の戦況の逐一(数字や写真)も、自国民のみならず、他国人にも一定の手続きさえ踏めば、規制や差別なく公開されている。

【日本本土空襲作戦の事前準備】 たとえばマリアナ基地からの日本空襲作戦では、事前に日本全土(朝鮮・台湾)と近海、周辺諸国を高々度撮影してアジア全体の写真地図を作り、縦横の座標軸に3桁の特定数字を与えて全軍の認識を共通化し、攻撃命令では数字の組み合わせで爆撃中心点の緯度・経度を誤りなく伝えるシステムになっている。それと併せて、2台のカメラを航行進行軸に対して両方から同じ傾斜角で撮影すると3D効果の地図が容易に作れるので、地形や建造物のイメージ化が必要な場合には、立体模型を作って出撃兵に確認させることもしている。攻撃目的地(市街)にある工場・発電所・鉄道駅・港湾設備など目標物写真はかなり古い時期のものも揃えてある。

【空海救助作戦】 日本空襲のB29爆撃機は5つのマリアナ基地全体で約1000機駐留していたが、各作戦ごとに250〜300機、後には500磯も出撃した。中間地点の硫黄島上空で体勢を整えて指定されたコースを往復するのだが、日本軍の迎撃や攻撃を受けて海上に墜落・不時着する場合を想定して、毎回、コースに沿って空と海に何カ所も数機・数隻からなる救助隊が配置されていた。

 研究者の計算によると、この用意周到な作戦によって救助された者は、墜落・不時着機の搭乗員の半数に及ぶという。撃破された飛行機はまた作れるが、搭乗員の教育と訓練には時間も費用もかかるので、米軍にとってこの空海救助作戦は必要不可欠だったと、その研究者は解説している。

 一方、兵隊は「呼び出し」のハガキ代でいくらでも召集できるんだと豪語し、武器の不足や機能不備を搭乗者の肉体と精神力で補えとばかりに“特攻部隊”を計画・実行した日本軍とでは、人命に対する考えの質的な差があまりにも大きい。“国のために命を捧げることが大事だ”と、いまも靖国派や幸福実現党の面々は主張するが、国民一人ひとりの命を粗末にする考え方は、太平洋戦争時代と根本的に変わっていないし、戦争の歴史から何も学んでいない。

【将兵と市民の犠牲者の差】 それに現代戦では、戦闘員と非戦闘員(一般市民)との区別は無意味である。昔は「戦争は征かない者がやりたがり」
などといわれたが、次の『戦争による死者』の推移を見て考えてほしい。

 死者の比率は、第一次大戦では《戦闘員=95% 非戦闘員=5%》だったものが、第二次大戦で《戦闘員=52% 非戦闘員=48%》とその差が縮まり、朝鮮戦争《戦闘員=16% 非戦闘員=84%》、ヴェトナム戦争《戦闘員=5% 非戦闘員=95%》と、非戦闘員の被害率は急激に高くなっている。第一次大戦とヴェトナム戦争の半世紀を経て、その比率は完全に逆転してしまった。

 大量絨毯爆撃や、ロケット・ミサイルなどの性能拡大、爆弾・砲弾の破壊力増大で、現代戦での無差別大量殺戮がどんどん加速しているから、今後の戦争では一般市民の被害がさらに拡大することは確実である。断るまでもなく、いったん戦争になれば、一方の都合だけで中断や終結は不可能である。
 殺戮の武器で人間は実にあっけなく死ぬ。そのなかに、あなたの家族、恋人の家族、いや、あなた自身が入っていないという保障はどこにもない。
                *
【平均寿命23.9歳】 みなさんは、もし「日本人男子の平均寿命が23.9歳だった時期はいつのことか」というクイズを出されたら、間違いだろうと思うにちがいない。

 正解は1945(昭和20)年、敗戦の年である。当時、日本男子の17歳から45歳の4割以上が徴兵されていた。特に若者の比重が高く、少年航空兵や戦車兵など、召集は10代にまでひろがっていた。彼ら死者には家族や恋人がいた。

 こうした事実や数字を挙げると、“自虐史観”と批判する人たちがいる。だがそんな連中こそ、自説や自国に不利な現実を、まともに見ることが怖くてできない“臆病者”と呼ぼうか。臆病な犬はどよく吠える。

 「歴史は繰り返さない」というが「人間がそれを繰り返す」との言葉もある。また「歴史を正しく学ばない者は、未来に裏切られる」ともいう。ダマサレテから嘆くのは、いつの場合でも、情報に無知・無関心な人びとであることだけは確かである。

(了)

 

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