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加藤周一氏が最晩年に書き下ろした著書『日本文化における時間と空間(岩波書店)で、日本の文学、美術、建築、演劇など社会学的な行動様式を古今東西の多様な事例と縦横に比較・参照しながら考察した結果、日本文化の特質を、時間的には「いま」、空間的には「ここ」、共同体で言えば「外」より「内」を優先することだと認定した。 これら一見次元の異なる傾向を“つなぐ共通の心性”を見つけ出すことに著者は最も心を砕いたそうだが、行き着いたのが「部分主義」であった。「いま」は歴史的時間軸の全体から見れば「部分」であり、「ここ」も全世界から見ればやはり「部分」となる。部分へのこだわりが「いま・ここ」主義を生んだと著者は言う。 しかも「全体」から「部分」へ、ではなく、「部分」を積み重ねて「全体」に至ろうとするのが、現代に至るまで通底する日本文化の特質と結論づけた。 そう言われてみると、改めて思い当たることがいくつか浮かび上がる。 「いま・ここ」優先主義は、「新しいものに飛びつく」とか「古いことにこだわらない」ととらえると進取の気性に富んでいるようだが、「変わり身が早い」とか「逃げ足が遠い」ならば自己保身や“一種のずるさ”を感じさせられる。 【日本が戦争に負けたとき】 たとえば戦時中には、搭乗兵士の生命や安全を顧みることなく米軍の軍艦や船舶に飛行機もろとも体当たりで突っ込む特攻戦法(自爆テロである)を実施し、また、どんな不利な戦況に陥っても降伏を拒否して部隊全体が全滅(玉砕といった)するまで戦闘を続ける、という破天荒な戦法で連合軍を驚かせ悩ませた日本軍が、敗戦になると一変して、ほとんどトラブルらしいトラブルなしに全軍の武装解除を成し遂げたことは、再び連合軍を驚かせた。いくら天皇による直接放送があったとはいえ、このような“整然たる右ならえ的な変身行動”は、占額軍にはもちろん、世界を驚かせるに十分な “日本人のもう一つの謎”であった。 【「戦陣訓」とは何だったか】 日本兵士がどんな負け戦になっても、降伏することを拒否して死ぬまで戦い続けた背景には、「戦陣訓」の教えがあった。「戦陣訓」とは、1941(昭和16)年1月に時の陸軍大臣・東条英機によって示達された、戦場における軍人の道義高揚のための具体的な実践要領であった。戦争の拡大にともなって兵員増を実現するために、兵役年齢の引き下げ(20歳以下の召集)や予備役の召集も必要となって実施されたが、一方で兵員の訓練も不十分となり、軍の統制力低下も影響して、軍紀・風紀の乱れも目立ってきた。それに対処するための教科書として「戦陣訓」が作成された。その中でも特に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の部分は有名で、これが第一線の兵士たち(部隊まるごと)に降伏して捕虜となるよりも、むしろ自ら死を選ぶという行為を正当化させる(より正確には、暗黙の命令や圧力のき根拠となった。 捕虜がどのように扱われるかという国際的協定などは全く教えられずに、この文言と精神だけは学校でもメディアでも繰り返し教えられたから、当時は女性でも子どもでも「日本人なら最後の1人になるまで戦う」ことと、「捕虜になるくらいなら自分で死ぬ方が日本人としては立派」ということは理解し、一定年齢以上の国民は、そのように覚悟をしていた。 【「戦陣訓」の影響と悲劇】 戦争末期のアジア各地の密林地帯や太平洋の島々で日本軍の“玉砕”が相次いだのもこの「戦陣訓」のせいであるし、またサイパン島や沖縄各地など民間人が多数巻き込まれることになった戦場でも、この教えのために、女性たちが断崖から身を投げたりする事例が多く生じた。なかには、幼い子連れの若い母親もいた。さらにこれらの国内戦場で「緊急時に使え」と教えられ、民間人にも携帯させられていた手榴弾や青酸カリなどの毒薬類で“自決を強いられたりする”という、痛ましくも無残な悲劇が多数生じたことは、太平洋戦争の被害を検証する際には忘れてはならない歴史的な事実である。 「戦陣訓」と東条英機の罪過はこのように大きく重いが、敗戦直後(45年9月11日)に占領軍(GHQ)は東条以下39人の戦争犯罪人逮捕を命令した。その日、東条英機はピストル自殺を図ったが失敗して、自らが「生きて虜囚の辱めを受ける」という皮肉な醜態を全国民の前にさらした。もっともらしく威張りクサって他人を強要する人間の末路の好見本であるが、それにしても学校やメディアで繰り返された結果、それを信じ切って犠牲になった多くの人びとの人生を考えると、強制・高圧的な教育や宣伝効果は恐ろしい。 【国民の変身ぶり】 変わり身の早さは軍隊ばかりではない。敗戦の日といえば、皇居前広場に座り込んで天皇に詫びている民衆の姿を今でもよくテレビなどで放映されて、戦後生まれの世代にもすっかり定着しているイメージがある。たしかにあれも一局面の光景であった。しかし、日本人は必ずしも一色ではなかったという、次のような貴重な証言もある。後にプロ野球の選手や監督として活躍した関根潤三氏は、8月15日の午後、 念のために記すが、戦時中は大人も子どもも男子は丸刈りで、中学生以上は戦闘帽に国民服か学生服、ゲートル着用が強制されていた。同様に女子もパーマネントなどの髪型は許されず、和服姿なら絣地か地味な模様の筒袖上着にモンペ姿の上下、洋服姿の上は白のシャツスタイル、スカートは禁止でモンぺかズボン姿と決められていた。長い袂の女性には、町内ごとに組織された愛国婦人会や国防婦人会の会員が街角にグループで監視していて、「長い袂を切るように」と強要し、実際に鋏で袂を切ったりした(映画「母ぺえ」に戦時中のそうした光景が出てくる)。 男も女も外出時には銘々が背嚢(リュックサック)を背負うか、「雑嚢」と呼ばれる布製の小型袋を肩から掛けていた。小学生から例外なく防空ずきん(成人男子では鉄兜持参もあった)が必携で、防空ずきんと各自の左胸ポケットに「氏名・住所・年齢・血液型」を記入した白い布きれを縫い付けることが決められていた。空襲や機銃掃射、艦砲射撃などで怪我・負傷したときに、素早く対応や連絡ができるようにというためであった。文字通り、頭のてっぺんから爪先まで、服装はもちろん、生活態度の端々についてまで、国民は細かく規制され、監視されていたのである。現在の北朝鮮を嗤える立場にはない。 【焼却された戦時中の記録】 いま1人、当時NHKのアナウンサーだった近藤富枝さんの体験談もある。8月15日の午後4時すぎ、仕事を終えて新橋駅に向かおうと田村町(現在の内幸町。NHKは当時そこにあった)の職場から外に出ると、空一面が暗く煙っていて焦げ臭いニオイがあたりを覆い、紙を焼いた灰と焼け焦げた紙の破片がところかまわず降ったり舞ったりしていた。敗戦になり、戦時中の諸々の悪事の証拠を隠滅するため、虎ノ門・霞ヶ関の官庁街で膨大な書類を焼いているのだった。国民に威張って命令していた法令や規則も、国際通念から見れば“後ろめたい”ものが多々あったのである。 このようにして、戦時中最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」の裁判関係書類も、慰安婦関係の証拠書類も、沖縄の集団自決に関する命令書もみな、このときに焼かれた。陸軍省・海軍省・大本営をはじめ、官庁街の煙突から出続けた書類焼却の煙は、3日から1週間程度も目撃されている。もちろん、下級役人が独断でできる行為ではない。内務省のトップ官僚がいち早く命令した結果の一斉作業であった。現在も、日本の官庁では都合の悪い証拠書類の廃棄は日常的に行われているのではないか。シュレッダー使用と、パソコンからの「消去」が昔よりも手軽になっているから、行政の証拠書類を残して“後世の歴史に判断を仰ぐ”姿勢は、なかなか定着しない。 そんな風景を眼にした近藤富枝さんが郊外の叔母の家を訪れると、ふだんはモンぺ姿の叔母さんが、夏のよそ行きの着物にきちんと帯を結んだ格好でうれしそうに出迎えてくれたので、彼女にとても強い印象を与えた。 【内面は簡単に変われるか】 服装やスタイルの変化だけなら、人間一般の本音にもとづく発露でもあるし、大人たちにとっては少し以前の“平和時代”の習慣に戻ったのだから、それほど罪はないかもしれない。しかし、当時中学1年生だった私たちと近い世代が受けた精神的被害は、教師たちが軍国主義教育から民主主義教育へ、何の苦渋もなく変わったことによってもたらされた。つい先日まで声を大にして「神国日本」「一億一心」「八紘一宇」「東洋平和」「大和魂」「愛国心」、そして「鬼畜米英」「米英撃滅‖撃ちてし止まむ」などと叫んでいた同じ人間が、敗戦を境にして“これまでの教えは間違っていた” と教科書の誤った部分に墨を塗らせ、おまけに「平和日本の建設」「東洋のスイスをめざす」「民主主義先進国のアメリカ・イギリスを見習おう」と、同じ教壇で教え出した。学校の教師に限らず、すべての大人たちの態度がガラリと変わった。 【国の主導で変心を促す】 敗戦のように価値観が大きく変わったときだけではない。戦時中に私自身が体験・記憶していることでも、1940(昭和15)年2月11日、皇紀2600年(この年、日本は最初の神武天皇即位からちょうど2600年に当たると計算した)の紀元節(今の建国記念日)のときもそうだった。国民は、文字通り全国津々浦々で国を挙げて祝賀行事に参加させられた。その当時は国の方針に従わない者は“非国民”扱いで、監視や逮捕の対象だった。同盟国だったドイツの音楽家R・シュトラウスに依頼した『2600年祝典曲』なる音楽がラジオで流されたり、各町内ごとに自作の山車を曳いたりという“お祭り騒ぎ”であったが、その翌日から街には「祝いは終わった、さあ働こうJというポスターが方々に張り出されて、政府はお祭り気分を一掃するためにすぐさま国民の尻をたたく方針を示した。 これは想像だが、黒船が来航したときも、長い間つづいた徳川幕府が瓦解して明治新政府が始まったときも、おそらく庶民の多くは、あまり驚いたり怒ったりせずに気持ちをうまく切り替えて、身分や境遇が大変化した者もそれなりに工夫して、坦坦と生活を続けてきたのではあるまいか。 どうやら日本人には、国も役所も民間も区別なく、権力が大変化しようとも困難な状況に陥ろうとも、それほど抵抗や騒ぎもなくスッと受け入れて対処できる心構えの“遺伝子”が組み込まれているようである。そして、どんな約束もアテにできない“変身・変心”がコロリと行われる国でもあることを理解しておかないと、信じてとんだ目を見る羽目になる。 (つづく) |