憎み続けることで 何かが生まれるか 六月二十日、東京・文京区民センターで、「被害者は死刑を望むのか 韓国の被害者遺族を迎えて日本の裁判員制度を考える」集会が死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90Ocean│被害者と加害者の出会いを考える会の主催で開かれた。 「昨年十二月から被害者の法廷参加も始まり、被害者遺族は死刑を求めるのが当然という風潮が報道を通して流されています。しかしそれは本当でしょうか。被害者遺族で加害者と交流を持つ人はいないのでしょうか。憎み続けることから何かが生まれるのでしょうか。加害者を死刑にすることで遺族はいやされるのでしょうか。加害者を赦すと言い大きな反響を巻き起こしたコ・ジョンファンさんを韓国から招き、講演をしていただき、死刑廃止へ向かう韓国での動きを、パク・ビョンシク東国大学教授に話していただきます。そして日本の被害者運動を担うお二方、及びこの問題を追い続ける映像作家・坂上香さんとシンポジウムを行います。裁判員制度はさらなる重罰化を招かないか。ともに考えたいと思います」。(チラシより) 韓国でも死刑執行 停止見直しの動き 最初に、パク・ビョンシク東国大教授が、「韓国の死刑をめぐる動き」を講演した。 「韓国では、金泳三政権末期の一九九七年十二月に二十三人もの死刑が執行されてから、金大中政権、ノ・ムヒョン政権と現在まで死刑の執行は停止されている。〇七年十月には『死刑廃止国家宣布式』がソウルで開催された」。 「しかしこうした流れが変わり始めた。二〇〇三年、二十一人の女性と老人を殺した事件、〇六年、十三人を殺した事件、〇六年、女性八人を殺した事件が発生し、死刑再開の世論が強まった。それでも、マスコミ関係者と裁判官、弁護士、国会議員の五〇〜六〇%は死刑廃止に賛成。今年三月、法学部教授の百三十二人(刑事法専攻者は160人)が死刑制度に反対する声明文を出した」。 「イ・ミョンバク大統領は選挙で唯一、死刑をやむを得ないと答えた。彼の任期中、死刑がいつ執行されてもおかしくない状況だ。死刑再開を止めているのは国際的な圧力と国内で、仏教・新教・カトリック教が『死刑制度廃止のための汎宗教人連合』を結成して、広範な運動を行っている」。 「最後に言いたいのは、日本は一九九〇年から九三年まで死刑を執行しなかった。この時、『日本に見習え』と言ったが、今は『韓国に見習え』と言いたい」。 「私はなぜ加害者 を赦したのか」 次に、コ・ジョンウォン(高貞元)さんが「私はなぜ加害者を赦したのか」について説明した。 「二〇〇三年十月九日、コ・ジョンウォンさんの母、妻、成人した息子の三人が自宅で金づちで撲殺された。何の憎しみで殺したのか、ぶっ殺してやりたかった。時間が止まり、地獄のような眠れない日々が続いた。家族を守れなかった罪悪感と家族を追って自殺しようとも考えた。十カ月間、聖書を筆写し洗礼を受けた。翌年七月、犯人のユ・ヨンチョル(柳永哲)が逮捕され、二十一人もの連続殺人が明らかになった」。 「しかしある時、奇跡が起こった。犯人を赦してから死のうと考えた。「犯人を生かしてほしい」と嘆願書を書いた。そうしたら、自分も死のうという意識がなくなった。三周忌の時、犯人に手紙を送ったら、『罪を懺悔し、心より謝罪する』という返事がきた。死刑制度について、人の命を奪ってはならない、命を与える喜びを持たなければならない、と思う」。 もの静かな淡々とした「赦す」という発言はなぜそこまでできたのかと、思わざるをえないような深いものであった。 続いて、イ・ヨンウ神父が被害者家族の運動を報告した。 「囚人たちの矯正や出獄後の福祉を行っている。十年で十二人の死刑囚と会ってきた。死刑囚は生きる執念を持ち変わっていくものだと分かった。被害者家族との出会いはむずかしいものだ。深い傷を負っているので、二回目の傷を与えないように注意している。加害者を赦すという家族と会うことができた」。 「二〇〇五年冬に被害者家族の会合開いた。最初は泣いてばかりいた。痛みは想像を超えるものだった。苦しみを自由に言えないこと、泣けないことだった。自由に泣いた後、くさびがぬけすっきりしたと言う。しかし、そう簡単なことではなく、感情の起伏が大きく、出なくなる家族もいた」と、運動の困難さを説明した。そして、「被害者対加害者では憎しみが増すばかりだ。被害者への支援運動が癒しのきっかけになり、加害者と和解させることにもつながる」と、運動の意義を明らかにした。 被害者遺族が 問題を共有する 休憩をはさんで、韓国の被害者と日本人被害者が問題を共有するシンポジウムが開かれた。 原田正治さんが最初に発言した。「一九八三年一月、弟を保険金目的で殺された。加害者は三人で、主犯に死刑が執行され、後二人は有期刑だった。加害者に対する怒りや憎しみを抱きながらも加害者に面会した。Ocean│被害者と加害者の出会いを考える会を立ち上げた。被害者にはいろんな人がいる。重い気持ちを理解してほしい。その先にあるのが死刑廃止だ」。著書に『弟を殺した彼と、僕。』(ポプラ社)がある。 次に、片山徒有(ただあり)さんが発言した。「一九九七年十一月に息子(8歳)の隼(しゅん)を交通事故で亡くした。十年間命について考えてきた。軽く扱ってほしくない。裁判に参加し、厳しい刑を求めた。交通事故なので刑事裁判にならなかった。裁判を求めて二十四万筆の署名を集めた。その結果有罪になった」。 「加害者を憎むというより、息子をなぜ守れなかったかと、自責の念にかられ、四十キログラムもやせた。適切に刑罰を下さない国に怒りを持った。新たな法律を作るように運動し、犯罪被害者保護法が成立した」。 「死刑事件はすごく重い。死刑は新たに命がなくなり、加害者がいなくなり、被害者が全部背負うことになる。死刑によって犯罪はなくなればよいがそうではない。えん罪が一番大きな問題だ。再審裁判所を作って審理をするような制度を作る必要がある。加害者は実は多くが被害体験をしている。手厚い教育で人を変えることができる」。 「加害者に一度だけあった。『人が死んでしまうことはたいへんなことだ。一生懸命生きてください。八歳の子どもの代わりに社会に何かしようではないか』と話した。加害者は『ぜひ、やりたいと言ってくれた』。 片山さんは現在多くの少年院や刑務所などで更生教育にも関わっている。あひる一会(あひるのいちえ)、被害者と司法を考える会代表。著書に『犯罪被害者支援は何をめざすのか』(現代人文社)、『隼まで届け7通の手紙』(河出書房新社)がある。 国家的シンボル としての死刑 坂上香さんが発言した。 「ジャーニー・オブ・ホープ―死刑囚家族と被害者遺族の二週間で、コさんと同じように、アバさんは十六年目に、死刑囚に手紙を書きポストに入れたとたんに赦した。私たちには理解しがたい部分だが、赦さないといけないという程被害者が追いつめられていたからだろう。赦したという人は少ない。復讐したいという人との間でたくさんのバリエーションがある。この間を広げることが重要だ。日本社会は赦すなとなっているが、赦しなさいと強要すべきではない。いろんな被害者がいる。刑事手法のみで解決するというのは幻想だ。」 「死刑は国家的シンボルだ。アメリカでは一九九五年に死刑に立ち会う権利運動が開始され、二〇〇一年には三百人以上が死刑に立ち会う公開処刑が行われている。死刑によって、事件に幕を閉じさせるわけがない」。 坂上さんは映像ジャーナリスト、津田塾大学准教授。死刑問題・被害者問題を扱った作品に「ジャーニー・オブ・ホープ│死刑囚家族と被害者遺族の2週間」 96年NHKBS―1、「ライファーズ│終身刑を超えて」など多数ある。著書に『癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち』(岩波書店)、編著に『アミティ・「脱暴力」への挑戦』(日本評論社)などがある。 赦せないから 対話ができる これらの発言の後、コさんたちに対する質疑や討論が行われた。コさんは二〇〇七年十月には死刑廃止国家宣布式にゲストとして出席、アメリカのジャニー・オブ・ホープ(死刑囚家族と被害者遺族の旅)にも参加、加害者・被害者たちとの交流を深めた。片山さんは、被害者参加制度が始まり、刑事罰を強くしてほしいという人もいるが、亡くなった人が平和を愛する人だったので、あえて重い刑罰をやってほしくないという人がいることも紹介した。原田さんは「十年前に加害者が死刑執行されたが、今でも赦してはいない、絶対に赦すことはできない。赦せないという気持ちがあるから、被害者と話ができる」と指摘した。この他、韓国での詳しい運動状況も報告された。 非常に重いテーマでの講演とシンポジウムであったが、被害者家族自身の生の気持ちを知ることができ、死刑制度廃止を新たにした。 (M)
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