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一九九七年に成立した「臓器移植法」の改定作業が、今国会で進んでいる。衆院厚生労働委員会での審議が終わり、一八日にも本会議で採決に入る見通しだ(六月十五日現在)。 提出された四案のうち、阿部知子、枝野幸男両氏が提出したC案のみが、現行法を厳しく縛ろうとする。ドナーの年齢制限を取り払い、小児移植に道を開く中山太郎、河野太郎らが出したA案やB・D案の、ほぼ対極に位置している。 「臓器移植でしか助からない」――あどけない表情でベッドに横たわる子供の写真に、無神経な医師の最後通告。大新聞への掲載で集まる渡航手術のための寄付金は、予定額を超えることもめずらしくない。マスコミの威力、人々の善意に改めて驚く。だが肝心の術後の経過となると、報道量は極端に少なくなる。順調に回復に向かっているのか、それともその反対なのか。最後まで追うべきではないのか。 「患者よ、ガンと闘うな」と呼びかけて注目を集めた慶応大学病院放射線科の近藤誠医師は、次のように指摘する。本当に「移植でしか助からない」末期患者は、他の臓器もすでに破綻寸前にあり、新しい臓器が移植されることで全身の機能的バランスが崩れ、死の淵へ転落する。だから移植医らが成績を上げようとすれば、むしろ移植が不要な、健康な患者を選ぶのだ、と。 なるほど。そうなると受容候補者の数は一気に増え、当然そこに順番を争う意識が生まれる。かたや反比例してドナー不足が起こり、「当選」する確率は減り続ける。臓器移植の、矛盾のスパイラルに陥るのである。 私はいつも思う。たった一人の手術に使う億単位の大金があれば、紛争地で飢えと戦禍に苦しむ乳幼児が、何人救えるだろうかと。経済封鎖で食糧や医薬品がなくなる病院。殺風景な病室で、治療のあてもなく放心する数多の善良な市民。握りこぶし大の、他人の心臓を受け取る対価で、この人たちにどれだけのガーゼや鎮痛剤や、点滴が行き渡るかと考えてしまうのである。 いたいけなわが子を思う親の気持ちがわからないのか。不謹慎だと非難されるだろうか。だが、命に軽重はなく、生死に順番はつけられない。 私が脳死からの臓器移植に反対する理由。ひとつには、一般医療のなかのほんの一部の手段でしかない実験的な行為のために、長い時間をかけて、納得しながら認められてきた死の概念の変更は許されない、と思うからだ。そこには差別と選別が、とりわけドナーとされた人々への、容赦のない人権侵害が持ち込まれ、まき散らされているからだ。過去の多くの実例が、それを物語っているからだ。 美しい言葉が、殺伐とした世相に「希望」を振りまいている。だがその影になる光景は、あまりにも知らされていない。 「脳死と臓器移植」││この国策が、有無を言わさずに押しつけられようとしている。他人の死や不幸を期待する不平等な医療。反社会的このうえない。 (隆) |