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http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2009/06/post_b5ba.html
昨年茨城県土浦市のJR駅頭で起きた通り魔殺傷事件の犯人、金川真大被告が最近の公判で行った発言が報道されました。その内容がある種の「衝撃」をもって伝えられているようですが、私には何となく、彼の言いたいことがわかるような気がするのです。
彼はまず、善悪の区別がつくのか?と問われて、「常識に照らせば」と答え、「常識を取り外せば」と重ねて問われると、「善悪自体存在しません」と言います。
このほかにも彼は、様々に問いかける相手に、「常識を通せば」「常識で考えれば」と繰り返し、そのたびに、「常識外」の考えを述べるのです。つまり、「常識」は理解できるが、自分はそれを拒絶しているのだ、と言いたいのでしょう。それはすなわち、「常識」を規定する「他者」の拒絶、なのです。さらに言うと、拒絶しても構わない程度の関係しか「他者」と結べてこなかった、ということでしょう。人間の存在、あるいは「自己」の存在が「他者」との関係に由来するというなら、この拒絶は、存在を著しく劣化させ、空虚にしていくことになるはずです。
ですから、彼は殺人を「蚊を殺すことと同じ」と言い、罪の意識がないのかと問われれば、「ライオンがシマウマを食べるとき、シマウマに悪いと感じるか」と答えるのです。「他者」を拒絶している以上、我々にとっての「他者」は、彼のカテゴリーにおいては「他者」でも「人間」でもなく、物や動物に等しいわけです。
たまりかねた相手は「あなたは自分で無理していない?」と言いますが、これに被告は「していません。ウソ発見器を使ってもらって構いません」と答えます。
私は、この「ウソ発見器」云々に、彼の殺人が一種のイデオロギーであることを感じるのです。つまり、あえて「ウソ発見器」などと言い出すのは、それが「主張」だからです。
どういうことか? 被告は「生きている意味」を感じなかったかもしれませんが、「自己であることの欲望」は持ち続けているということです。つまり、他者を拒絶した彼が、にもかかわらず「自己であること」の根拠として持ち出してきたのが、自分は善悪を超えた存在であるという「理念」であり、その「理念」を現実化して「自己」を根拠付ける行為が、無差別殺人だったということだろうと、私は思うわけです。
だから、「死刑になりたくて殺人を行った」という「不可解」な発言が出てくるのです。ならば「自殺すればよいだろう」と言われると、被告はなんと、自殺は「痛いから」イヤだと、まったくナンセンスな答え方をします。絞首刑も「痛い」でしょうに。
ここで彼が言いたいのは「痛い」かどうかでは全くなく、「自殺では意味がない」ということなのです。なぜなら、彼の場合、「自己であること」を欲望していることには、いささかの変わりもないからです。ところが、「自殺」はまさに「自己であること」の否定になってしまい、彼のイデオロギー自体を無意味にします。したがって、死刑と言う他殺による自殺は、「常識」が提示するような、どうでもいい「生きる意味」を否定しつつ、「自己であること」を肯定する唯一の方法、ということになります。
彼が「運命について考え」て、「人の未来は決まっている」と「悟った」というとき、彼の殺人がイデオロギーの実践であることは、明らかでしょう。「他者」を拒絶して「運命」に「自己」を託す、ということです。
秋葉原連続殺傷事件を起こした加藤智大被告には、他者への絶望があり、絶対零度ともいうべき孤独を感じます。絶望は拒絶ではありませんから、彼の場合は、多くの同じような境遇の若者の共感を引き起こしたのです。しかし、他者を拒絶した金川被告には共感は集まりにくいでしょう。その代わりあり得るのは、イデオロギーを持つ者の割り切れた潔さを「カッコイイ」とする、共鳴者や支持者でしょう。
この土浦事件のケースでは、「他者」との関係から「自己」を起こしていくことができなかった人間の在り方が、悲劇的な一典型として見て取れるように思います。
いま私は、善悪を規定する倫理の根拠として、「他者から課せられた自己を引き受ける」という、決断と行為を考えています。そして「他者」から切り離された「自己」の空虚が何らかのイデオロギーと結びつくとき、大きな厄災を招く最初の一歩が始まるような気がしてなりません。