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http://uonome.jp/article/kayama/214
友人に誘われて、数年前からときどきキリスト教教会の礼拝に出席している。 とはいえ、洗礼は受けていないので、正確には信仰を持っているというのとは違う。教会では、私のような人間は「求道者」と呼ばれ、すでに洗礼を受けてそこの教会に正式に所属している「教会員」に比べて、微妙に参加できることに制限がある。 なぜ礼拝に行くのか。その理由についてここで詳しく語ることはしないが、私が通う教会は都内でも人気のある住宅地の中に建っている。 子ども時代の一時期、私は実家のある北海道で、小樽公園通教会の教会学校に通っていた。いまでも帰省が日曜に重なっているときはその教会に顔を出すこともあるのだが、礼拝堂の雰囲気は小樽と東京でかなり違う。 ひとことで言えば、東京の教会は洗練されているのだ。不謹慎を承知で言えば、「ハイソ」ということになるだろうか。 小樽の教会は超高齢者、退職者や無職者、精神疾患や身体疾患を抱える病者、シングルマザーと思しき人などが目立つのに対して、東京の教会には、きちんとした身なりの上品な婦人、賢そうな子どもを連れた若い夫婦、研究者然とした様子の男性、芸術家風の女性などが多い。教会員の所得や生活レベル、平均の学歴などは、明らかに東京のほうがずっと高そうだ。 もちろん、だからどうだ、という話ではない。どちらの教会も雰囲気は和やかで、なかなか洗礼も受けようとせずに求道者のままの私にも、みな暖かく接してくれる。 ただ、クリスマスやイースターなど教会にとっての特別な日が近づくと、どうしても考えてしまうことがある。 教会では一般的に、こういった特別な行事の際には、礼拝の後に「祝会」と呼ばれる集いが開かれる。わかりやすく言えば、パーティだ。その祝会の案内に記されている次のひとことが、私を混乱させる。そこにはこうある。 「すべての人が招かれています。」 この“招き手”は、当然、神ということになろう。教会での教えでは、神はすべての人間を、こちらがどう思うかにかかわらず、それどころかこちらが気づいているかどうかにもかかわらず、“すでに”、しかも“一方的に”愛してくれているということになっている。その神の生誕や復活を祝う集まりなのだから、当然、神はすべての人をそこに招いてるに違いない。 このフレーズを見るといつも、実際に参加するかしないかは別にして、「私も参加していいということだな」と安堵感を覚える。受容されている――この連載のキーワードのひとつとなる予定の「社会的排除」の反対語を使うなら、「包摂されている」ということになろうが――と感じさせることは、その人にかくも喜びや安心感を与えるのだ、と実感させられる瞬間だ。 ところが、その後には、また別の考えがわき上がってきてしまうのだ。 ――本当に、すべての人が招かれている、のだろうか? その案内は、教会の内部で配られるだけではなく、教会員の知人に送られたり、時には駅前などで通行人に配られたりすることもあるようだ。そこでもし、ホームレスの人が差し出された案内を受け取ってしまったらどうなるのだろう。彼は、根城にしている公園に戻って、仲間とこんな会話を交わすかもしれない。「なんだかタダで食事が出るらしいよ」「でも、その前の礼拝とやらに出なければならないんだろう?」「そんなの、ただ座ってればいいだけだよ」「本当に行っていいのかな?」「だって、すべての人が招かれているんだろう、すべてと言うからにはオレたちだって入っているはずさ」。 そして、彼らが汚れとほころびでボロボロの衣服を身にまとい、案内状を握りしめながらあの礼拝堂に入ってきたら、教会の人たちはどう対応するのだろう。そんな風体の人たちがあの身なりのよい婦人や品のよい家族のあいだに座り、賛美歌を歌う真似をした後で祝会で寿司やサンドイッチを食べる、といった情景が繰り広げられるのだろうか。 ところが、不思議なことに教会にときどき行くようになってからこれまで、私はそういった光景に出くわしたことがないのだ。もしかするとその教会の長い歴史のあいだには、教会員が扱いに困るような“来客”がやって来たことも何度もあったかもしれないのだが、少なくとも私は目にしたことはない。その場を構成するのは、いつもだいたい同じような身なりの婦人、家族、芸術家などなのである。 なぜ、そうなるのだろう。 ホームレスの人に限らず、礼拝や祝会の場に来てほしくない人には、教会員も案内状を手わたさないのだろうか。いや、それでは神の教えに反している。私などよりずっと明確な信仰を持っている教会員であれば、「すべての人が“すでに”“一方的に”愛されている」という確信もより強いだろうから、誰かれと選別することなしに、案内状を手渡しているはずだ。「どうぞ、クリスマスは教会へ!暖かいお茶とケーキも用意していますよ」といった言葉さえ、かけたかもしれない。 もちろん、案内状を手にした人たちは玄関までやって来たのに、玄関で高級レストランさながらの服装チェックが行われて、「本日のドレスコードはジャケット着用ですので」と断られたわけでもない。 彼らは、自ら進んでその場に現れないのだ。 まるで自分で自分をふるいにかけたかのように、自分で自分のドレスコードチェックをしたかのようにして、その場にはやって来ない。しかも、このふるいかけの作業や服装チェックは、公式に行われるわけではなくて、おそらくはひとりひとりの心の中で、ひっそりと行われる。 いや、自分でそんなことを行ったことじたい、彼らは自分でも気づかないかもしれない。「教会のクリスマスか。賛美歌にクリスマスツリー、ケーキにお茶か…。まあ、オレはいいや。」それだけのことである。それだけで彼らは、自分に案内状をわたしてくれた上品な婦人のような人たちが集う教会の中を想像し、自分がいかにその場に違和感をもたらす存在であるかを察知し、そして出かけるのを断念する。最初からそんな場には、行きたくなかったかのように。 すべての人は、招かれています。 神はたしかにそう言った。 しかし、現実はそうはなっていない。しかも、誰かが彼らに「来るな」と言わなくても、彼らは自らを招かれない存在として認識し、そう行動しているのだ。 ここで起きていることは、何だろう。 この連載では、それを考えていきたいと思う。とはいえ、あまり先走るのはよくない。まずは、自分は玄関まで出かけて行ったのに、「お客様、ここはちょっと」と拒まれる人たちについて、考えてみよう。このことを考えるには、最近、社会学や福祉学の分野で注目を集めている「社会的排除」の概念が役に立つだろう。 そして、次により目に見えにくい排除について考えるために、精神分析学で使われる「排除」の概念についてももう一度、振り返ってみよう。 話がどこに漂着するかは、まだわからない。ついでに、結局、私は招かれているのか、それとも招かれていないのかも、まだわからないということを付け加えておこう。 |