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2009.12.6(その2)森田実の言わねばならぬ【957】
平和・自立・調和の日本をつくるために[952]
《新著紹介》宇沢弘文・内橋克人(対談)著『始まっている未来 新しい経済学は可能か』(岩波書店、2009年10月14日刊、1470円)に学ぶ〈その1〉
[宇沢弘文氏は経済学者、東京大学名誉教授。内橋克人氏は経済評論家]
「今回の大恐慌は『平成大恐慌』というべきだと思います」(宇沢弘文)
宇沢弘文先生(私はずっと以前から宇沢先生と呼んできた)の著書は何冊か読んだ。宇沢先生が戦後日本を代表する経済学者であることは衆目の一致するところであろう。私は日本経済界の最高の経済学者であると思っている。宇沢先生ほど学者としての良心をきびしく貫いてきた経済学者はめずらしい。とりわけ最近は少なくなった。俗物が多くなった。
宇沢先生と私が初めて会ったのは1960年代後半期、宇沢先生がシカゴ大学教授を辞めて東大に復帰するため帰国したときだった。当時、私は日本評論社の編集者をしていた。あのころ私は経済学界の停滞を打破したいと考えて悩んでいた。マルクス経済学は資本論の解釈学のようになり現状を解明する力を失っていた。近代経済学もまだ少数派にすぎなかった。
日本の経済学界を何とかしなければならないと苦悩しているときに高名なK教授に会って相談した。K教授は言った。「これから日本の経済学を担えるのは宇沢弘文君でしょう。ちょうどシカゴ大学を辞めて日本に帰ってくる。宇沢君に会って相談してみたらどうですか」。
私は宇沢先生の帰国(羽田空港着)の時間を調べて、空港まで迎えに行った。
このとき、長身の謙虚すぎるほど謙虚な宇沢先生に初めて会った。
それから、何十回かは覚えていないが、宇沢先生とよく会った。宇沢先生が謙虚すぎるほど謙虚な姿勢を変えることは一度もなかった。年下の一編集者の私を尊重してくれた。多くの人は驚かれるかもしれないが、編集者を見下す大学者といわれる人は少なくないのが現実である。
「すべての偉大な人々は謙虚である」、レッシングの言葉である。
謙虚すぎるほど謙虚な学者を私は何人も知っている。何十回か何百回かは覚えていないが、よくお会いした清水幾太郎先生(社会学者、学習院大学教授)がそうだった。数回しかお目にかかったことはなかったが、南原繁先生(政治学者、東大総長)も大変に謙虚な大紳士だった。ともに学者、研究者としても偉大だった。
宇沢先生と会って何回か話し合ううちに、宇沢先生の経済学への飽くなき情熱、学者としての純粋さ、理想を貫く精神力、研究に対するひたむきさに接することができた。教えられるとこと大であった。
その後、私は経済学の編集者から政治を主たるテーマとする評論の仕事に変わり、宇沢先生に接する機会はなくなったが、何冊かの著作を読み、宇沢先生の学者としての偉大さを感じつづけてきた。
今回の内橋氏との対談本は、宇沢先生から贈っていただいた。宇沢先生の帰国後最初の著書を贈っていただいたことがあったが、私の記憶が正確なら、それ以来のことである。宇沢先生が私のことを覚えていてくださったことに、少なからず感謝している。
本書はすごい本である。読者は本書のなかから、現代日本を解明する鍵を見つけ出すことができるであろう。宇沢経済学の神髄を知ることができると思う。
宇沢教授は、現在の状況を「平成大恐慌」と捉え、1930年代の「昭和大恐慌」よりもずっと深刻なものを含んでいると指摘している。(つづく)
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2009.12.7(その2)森田実の言わねばならぬ【959】
平和・自立・調和の日本をつくるために[954]
《新著紹介》宇沢弘文・内橋克人(対談)著『始まっている未来 新しい経済学は可能か』(岩波書店、2009年10月14日刊、1470円)に学ぶ〈その2〉
[宇沢弘文氏は経済学者、東京大学名誉教授。内橋克人氏は経済評論家]
「平成大恐慌はある意味では(80年前の)昭和大恐慌よりずっと深刻なものを含んでいる」(宇沢弘文)
宇沢弘文先生のことのみ書くことをお許しいただきたい。
宇沢先生の著書のうち『自動車の社会的費用』『社会的共通資本』『地球温暖化を考える』『日本の教育を考える』『ケインズ「一般理論」を読む』などの著作を読み、学んだ。私は、宇沢経済学の共感者であり、学者としての宇沢先生の信奉者である。
宇沢先生の指摘は鋭い。「昭和大恐慌」についてこう語っている。長い引用になるが、大事なことなのでお許しいただきたい。
《資本主義の歴史が始まって以来の大惨事である昭和大恐慌の原因は、やはり資本主義的な制度そのものにある。儲けるためには法を犯さない限り何をやってもいいという考え方が、実は資本主義の根幹にある。それが社会・経済を悲惨な状況に陥れるという認識は、アダム・スミス以来、経済学の歴史の底流としてあるわけです。それを象徴したのがニューディール政策の基本的な考え方だった。
事実、一九三〇年代の終わり頃から一九六〇年代の終わりくらいまでは「ケインズの時代」でした。ケインズの「一般理論」は、ニューディール政策の持つ意味を整合的なマクロ経済学の理論体系の中で解明したものといえます。資本主義は基本的に不均衡であり、失業の大量発生、物価の不安定、とくにインフレーション、そして所得と富の分配の不平等といった経済的な不均衡は資本主義に内在しているものだから、それを政策的、あるいは制度的に防がなければいけないという問題意識で、それが大多数の経済学者に共通の考え方、いわぱコモンセンス(commonsense)だったのです。》
この宇沢先生の指摘を私は支持する。この30年間は新自由主義全盛期だった。この間、ケインズは不当に低い評価を受けてきた。「低い」というより「誤った」というほうが正確である。ケインズは正当に評価されなければならないと思う。(つづく)