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【神州の泉―高橋博彦】
2009年11月25日 (水)
事業仕分けは歴史的な変革行為である
事業仕分けが後半に突入した。仕分け人が短時間内に結論を得るのは無理があるという批判論調が強いが、本質は国民の税金がどのように使われているか、その内訳を白日の下に引き出すことだと思う。事業の是非を性急に判断するなら大問題だが、見直しの叩き台とするなら、画期的な意味がある。日本経済復活の会の小野盛司氏はこの仕分け作業を茶番劇と評したが、私はそうは思わない。たとえ財務省の干渉が入っていたとしても、この仕分け作業には歴史的な意義がある。官僚主導体制に斬り込んだという点では革命的行動だと思う。
次世代スーパーコンピューターの予算縮減を初めとする科学技術事業の見直しでは、反対意見が噴出しているが、仕分け作業の判断も含めて国民が問題意識を共有できることは今までなかったことだ。自民党体制の時は何十年も前から、予算の使い道を国民にはっきりさせろという提言は出ていたが、どういうわけか、それがはっきりした形で出た記憶はない。考えると、その曖昧さは、今までの政官業癒着という鉄のトライアングルが煙幕を張っていたとしか思えない。
官僚主導体制の典型的な弊害である。大蔵省主計局が、予算配分を独占した結果、権力がここに集中し、結果的に民を苦しめる“悪代官”の性格が恒常的に根付いてしまった。それはアメリカと大企業だけに有利な方向性を持つ性格だ。国民生活向上の視点が欠落する予算配分思想である。予算の使い道は政治の領分であり、事務方が政治に干渉してはならない。
これに斬り込んだ政治的意義は歴史的に大きい。思えば、明治元年(1868年)、明治天皇は新しい時代の基本方針として「五箇条のご誓文」を下した。その中の一つに下記がある。
一.広ク会議(かいぎ)ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ。
(広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めること)
これは近代民主主義の祖形を日本も有していたという解釈が多いが、私は聖徳太子の十七条憲法を髣髴とさせる古来からあった日本固有の概念だと考えている。それはともかく、「五箇条のご誓文」の次の項目、
一.上下心ヲ一ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フ(う)ベシ。
(上に立つ者も下に立つ者も心を1つに合わせて国のため、活動にはげむこと)
を見ると、為政者、軍人、国民が心を合わせて経綸(国策)に励むことと書かれてある。
これこそが江戸時代という封建体制から脱却し、国民に開かれた政治の原点を求める展望だと思う。明治維新には国民国家を造るという明確な展望があった。爾来140年経過し、戦争を経て日本の戦後体制は、アメリカの外力によって変えられたが、140年の間に「五箇条のご誓文」の基本は失われ、官僚の肥大、腐敗が固定化してしまった。敗戦の結果、軍閥は消えたが、戦後は内務省などの中核的官僚の伝統が大蔵省に根付き、政治の上位に君臨して国家運営を司って来た。これは財務省に名前が変わった今日でも続いている。
かつて大蔵省に在籍していた植草一秀さんが、大蔵省(現財務省)の悪弊を知悉することは重要である。彼の知恵が財務省切り込みに生かせれば一番いいと思う。ここには140年に及ぶ官僚の連続性と腐敗があるように思う。戦後これに手を付けた政権はいない。その意味で現政権が事業仕分けという画期的な行動を起こしたことは、歴史的に見て革命と言えるかもしれない。税金の使い道を国民が知ることは重要である。
この事業仕分けに財務省の意思が反映されているということは追及すべきことだと思う。しかし、事業仕分けの意義はすこぶる重大であり、継続すべきだと思う。なぜなら、この仕分け作業に財務省が関与していたとしても、財務省主計局の領分に真正面から斬り込んでいることは確かだからだ。この作業は官僚主導から政治主導という象徴的意味合いが強い。戦後、誰もやることができなかったことを今やっているという感じがある。
この仕分け作業に、小泉・竹中構造改革派の残党と財務省の強烈な内部工作が渦巻いていることは充分に留意して、国民のために税金が有効に使われる道を敷いていけばいいと思う。マスコミは全体としてこの仕分け作業に否定的である。それは財務省の影響が大きいからだ。日本の腐った官僚体制が国民を苦しめていることに、現政権が真正面から斬り込んだ意義は大きい。この際、財務官僚の上層部は全部入れ替えた方がいいと思う。
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