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(回答先: 鳩山由紀夫ホームページから憲法試案 全文引用その1 目次 投稿者 てんさい(い) 日時 2009 年 11 月 25 日 08:55:33)
http://www.hatoyama.gr.jp/tentative_plan/index.html
憲法改正試案の中間報告
「国際協調及び平和主義」「安全保障」の条項について
鳩山由紀夫
私は数年前に民主党代表選挙に出馬した際「憲法改正」を公約の一つに掲げた。当時はまだまだ、憲法改正を主張することは政界のタブーのような雰囲気があり、党内にも抵抗感が強かった。近頃の憲法改正論議花盛りの政界風景を見ると今昔の感に打たれる。いまや自民党も、民主党も、憲法改正草案作りに着手している。民間からも、憲法改正についての試案や提案が次々と発表されている。
憲法、言い換えれば国家構想や国の仕組みについて、国民の間に広範な議論が巻き起こるというのは、それ自体が変革期を象徴する現象である。
明治維新前後から大日本帝国憲法の発布までの二十年余もそういう時代だった。官民双方から、維新後の日本のあり方についてさまざまな構想が語られた。私擬憲法と通称されるそれらの憲法草案は、確認されているだけで九十四種類にものぼる。西欧の挑戦を受けた弱小な日本が、独立を全うして彼らに伍するために、どのような国家制度を整えればよいか。そのことを当時の人々がいかに真剣に議論したか。私擬憲法のいくつかに目を通せば、往時の人々の情熱と苦悩がひしひしと伝わってくる。
私は来るべき平成の憲法改正は、単に現行憲法を部分的に手直しするものではなく、明治憲法が創始した議会主義と政党政治の伝統を受け継ぎ、昭和憲法が確立した国民主権と国際協調主義を発展的に継承しつつ、今後五十年の日本の国家目標を明らかにし、その実現のための新たな国の仕組みを確立するものでなくてはならないと考える。
私は今、これからの国家としての日本のあり方について考察し、新たな憲法として集大成する作業を続けている。本年中に、その全容を明らかにするつもりだが、今回は、私の憲法改正試案中間報告として、国際協調及び自衛権の諸条項について明らかにし、解説することとしたい。
戦後憲法の成果と限界
敗戦と占領という時代状況を背景とする現行憲法の基本的な思想は、侵略戦争や膨張主義に反対する世界の潮流のなかで、日本が非侵略的国家でありさえすれば、アジアの平和は保たれる、というものだった。それは、日本の再軍事大国化を警戒する連合国や近隣アジア諸国の感情に沿うものだったし、また軍部の独走に引き摺られて大きな犠牲を強いられた日本国民の敗戦後の厭戦的気分にもぴったりくる発想だった。自衛権までも放棄する条文が抵抗感なく受け入れられたのもそのためだった。
日本国憲法の国際認識は、冷戦が始まる以前の、国際連合の集団的安全保障機能に対する内外の楽観的な期待感を反映したものだった。それ故、前文起草者のGHQのハッシィー中佐は「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」と表現し、芦田均新憲法起草小委員長は九条に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」と書き加えたのだ。
しかしそのような楽観的な国際認識は、冷戦の進行の中でたちまち蹴散らされ、警察予備隊、保安隊、自衛隊が生まれ、政府の憲法解釈も、祖父鳩山一郎内閣のときまでには「九条は自衛のための戦力の保持まで禁ずるものではない」というところに落ち着いた。
それでも戦後政治の中では、自国の武力への極端な不信と、他国の武力への極端な楽観主義を特色とする非武装論、護憲論が大きな影響力を持ちつづけた。自衛隊違憲論、非武装中立論を党是に掲げる政党が野党第一党であり続けたため、国会論戦を切り抜ける中で、政府の憲法解釈は無理に無理を重ね、難解さを加えた。
九条をめぐる憲法論争に振り回された感のある戦後日本政治だったが、それが全く不毛であったとは言わない。日本国憲法の平和主義、国際協調主義は、紛れもなく戦後日本の国際公約であり国家目標であった。日本は他国に軍事的脅威をもたらすことなく世界第二の経済大国になった。それは歴史的に見ればまことに稀な出来事だろう。非核政策は貫徹されたし、これだけの製品輸出大国ながら武器輸出小国であることも誇るべき事実だ。自衛隊は、志願制を貫きながら、その使命感、士気、規律、能力のいずれをとっても世界に冠たる見事な軍事組織に成長した。
日本一国の平和と国際協調という観点からすれば、戦後憲法の理念は、大きな成果を挙げたといってよい。私はそれを戦後日本の成果として高く評価することに吝かではない。
しかし冷戦終結以後、日本の国際協調主義は大きな試練に立たされた。湾岸戦争がその始まりだった。日本国民の多くも、このとき、日本が国際社会の脅威になりさえしなければよい、という戦後の平和主義が、国際社会ではそれほど評価されていないことを知った。「国際貢献」という言葉が流行しだしたのもこのころからだ。一国平和主義への懐疑が広がり、難産の末PKO協力法が生まれた。紛争後の平和維持活動へなら、自衛隊の海外派遣は合憲ということになった。これは画期的な憲法解釈の変更だった。
日米防衛協力のガイドライン、周辺事態法、テロ特措法、イラク特措法を巡っては集団的自衛権が争点になった。集団的自衛権は、国連憲章ではじめて使われた概念で、個別的自衛権と並んで国家に固有の権利とされる。
ところが、歴代政府(内閣法制局)の憲法解釈では、「国家固有の権利として集団的自衛権は保有してはいるが、憲法九条の制約により、行使できない」としてきた。集団的自衛権は、きわめて広い概念で、常識的にいえば、基地を貸すことや、輸送に協力するなどのいわゆる後方支援も、立派な集団的自衛権の行使に入る。
ところが、野党の追及をかわしつつ、現実の要請に応えるため、内閣法制局の編み出した解釈は、集団的自衛権の概念を極端に縮小し、後方支援でも武力行使と一体化する形での後方支援のみが集団的自衛権にあたり違憲だとした。これは、自衛隊は軍隊ではないというのと同様、国内でのみ通用する詭弁だ。
国会で海外での自衛隊の活動が論じられる際に、いつも議論が違憲か否かという神学論争に陥り、国益を中心とする議論にならない。これは冷戦後の日本の外交論議の大きな問題だ。私は今回のイラクへの自衛隊派遣には反対した。しかし憲法違反だからという理由ではない。これまでの法制局解釈を前提としても直ちに違憲とはならない。問題の本質は政治判断の誤りにある。つまり今のアメリカの政権にあまりに密着しすぎ、その外交政策に振り回されることは、国益に反すると判断したからである。これは独仏と同様の判断であり、小泉首相とは国益についての判断が異なるということだ。
憲法の条文と政治的現実があまりに乖離していることは、日本の政治から健全なリアリズムを奪い、日本の「政治の言葉」について侮りをかい、外国の信頼を失うもととなる。平成の新憲法においては、わかりやすい言葉で、現実に保有する軍事力とその制約について規定し、行き詰った戦後憲法的な国際協調主義を新たな国際環境の中で定義し直さなければならない。
私は今こそ、戦後の憲法論議を迷走させてきた空想的平和主義あるいは国家主義的ノスタルジアなど、左右両翼の感情論のいずれをも排し、確かな平和を構築するために国際協調を推進するという立場で、新たな憲法を創りたいと考える。
新たな国際協調および安全保障の条文
私が、提案する国際協調及び安全保障に関する改正試案は、以下のとおりだ。
前 文 (部分)
「この憲法は、明治二十二年憲法によって創始された議会主義と政党政治の伝統を受け継ぎ、昭和二十二年憲法によって確立された国際協調と平和主義の理念をさらに発展的に継承するものである。」
「日本国民は、平和と自由と民主主義の恵沢を全世界の人々とともに享受することを希求し、世界、とりわけアジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力および集団的安全保障の制度が確立されることを念願し、不断の努力を続ける。」
第○章 平和主義及び国際協調
第○条(侵略戦争の否認)
日本国民は、国際社会における正義と秩序を重んじ、恒久的な世界平和の確立を希求し、あらゆる侵略行為と平和への破壊行為を否認する。
2 前項の精神に基づき、日本国は、国際紛争を解決する手段としての戦争および武力による威嚇又は武力の行使は永久に放棄する。
第○条(国際活動への参加)
日本国は、国際連合その他の確立された国際的機構が行う平和の維持と創造のための活動に積極的に協力する。
第○条(主権の移譲)
日本国は、この憲法の定める統治の基本秩序に反しない限り、法律により、主権の一部を国際機構に移譲することができる。
2 日本国は、国際社会の平和と安定に寄与するため、集団的安全保障活動に参画するときは、法律により、主権を制限することができる。
第○条(国際法の遵守)
日本国が締結した条約および確立された国際法規は、誠実に遵守する。
第○章 安全保障
第○条(自衛権)
日本国は、自らの独立と安全を確保するため、陸海空その他の組織からなる自衛軍を保持する。
2 自衛軍の組織及び行動に関する事項については、法律で定める。
第○条(内閣総理大臣の指揮統制権限)
自衛軍の最高の指揮監督権限は内閣総理大臣に属する。
第○条(国会の承認)
内閣総理大臣が、自衛軍の出動を命ずるときは、国会の承認を必要とする。
第○条(大量破壊兵器の不保持)
核兵器、生物化学兵器をはじめとする大量破壊兵器は、開発、製造、保有することを禁ずる。
第○条(徴兵制の否定)
日本国民は、自衛軍への参加を強制されない。
国際協調の再定義
「前文」は、日本の国際協調主義の再定義である。単に日本が平和愛好国家であれば良いという今までの姿勢から、国際社会からさまざまな戦争要因を取り除く活動に積極的に取り組むこと。「一国平和国家から国際平和創造国家への転換」の宣言である。そして、今後五十年を見据えた国家目標を、アジア太平洋地域の経済協力と地域集団安全保障機構の確立に向けることを明記する。
日米安保体制は、今後も日本外交の基軸であり続ける。それは紛れもなく重要な日本外交の柱だが、同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならない。われわれは、活力に満ち、ますます緊密に結びつきつつあるアジア太平洋地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない。
確かに、ヨーロッパと異なり、人口規模も発展段階も政治体制も異なるこの地域に、経済的政治的な統合を実現することは、一朝一夕にできることではない。しかし、日本が先行し、韓国、台湾、香港が続き、アセアンと中国が果たした高度経済成長の延長線上には、やはり地域的な通貨統合を目標として置くべきだし、その背景となるアジア太平洋地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出しなければならない。それを今後五十年の国家目標とすることは、非西欧世界で初めて憲法を創り、近代化を成し遂げ、戦後憲法の下で平和で豊かな今日の日本をつくり上げた父祖の志を継承し、次代に伝える道でもある。
「平和主義及び国際協調」の章のうち「侵略戦争の否認」の条項は、現行憲法の前文と九条、またその元となったパリ不戦条約(一九二九年)と国連憲章(一九四五年)を要約したものである。これによって、日本単独の武力行使は、自衛の場合以外は現行憲法と同様に禁じられる。そして「国際活動への協力」の条文により、国連が正当性を付与する国際社会での平和の維持と創造のための諸活動へ参加することを謳う。
現行憲法は解釈改憲により、他国からの侵略に対しての自衛のための武力行使は容認され、この点について異論はなくなっている。自衛隊違憲論は政界ではすでに過去のものであり、停戦後のPKO活動についても、ほぼ認められるにいたった。
現在解釈上問題になっているのは、国連決議による多国籍軍や平和執行部隊、あるいは将来編成されるかもしれない国連常設軍への参加である。内閣法制局はこれを違憲としている。
私の憲法草案では、こうした国連による国際警察軍的な活動への参加を明確に容認している。もちろんこれは国連の要請があれば、何処へでも出て行くという話ではない。その必要性は、国益に則り、政府と国会が主体的に判断すればよいことだ。
「主権の委譲」の条項は、前文の国家目標が達成され、アジア経済共同体が実現した暁には、通貨の発行権その他の国家主権の一部を国際機構に委譲しようというものだ。第二項は、国連(あるいはアジア太平洋地域の集団安全保障機構)が、集団的安全保障活動の一環として、国際警察軍的な行動を行う場合、日本の軍事組織の指揮権を国際機構に積極的に委ねようという意思表示だ。いずれもEU諸国ではすでに根付いている。
二十一世紀を迎え世界はますますクローバル化、ボーダレス化しているが、私は、これからの五十年も、国家の存在意義が失われることは決してないし、国際政治の最重要な単位であり続けると考えている。と同時に、国際社会で諸国家の軍事的経済的活動をより強く秩序づける規範化の動きや地域的な政治経済的な統合の動きは、着実に進んでいくと考えている。アメリカの軍事的経済的な実力が突出した国際政治状況は、今後二、三十年は変わらないだろう。圧倒的な人口規模を有する中国の経済大国化も不可避の趨勢だろう。それはアジアの中規模国家の経済的政治的統合を加速させる。この地域の安定のためにアメリカの軍事力を有効に機能させたいが、その経済的放恣はなるべく抑制したい、身近な中国の軍事的脅威を減少させながら、その巨大化する経済活動の秩序化を図りたいというのは、この地域の諸国家のほとんど本能的要請である。
アジア太平洋地域の政治的経済的統合が、どのような形のものとなるか、今は未知数だ。しかし日本がどういう意志をもってこれにかかわっていくかは、その統合の成否にとって、決定的な意味を持っている。われわれは、アジア太平洋共同体の形成に向けて、より積極的で主体的な努力を続けていくべきだ。日本がその使命を忘れなければ、「主権の委譲」の条文は、今は唐突に映るかもしれないが、必ず必要となる日が来るだろう。
「国際法の遵守」は、現行憲法の一番最後にある条項で、GHQ草案にはなかったものだが、外務省の要請で付け足されたものだ。趣旨から言って、国際協調の一環としての条文であり、ここに位置づけるのが適切と考えた。
自衛権の明記
独立した一つの章として「安全保障」を設け、自衛軍の保持を明記することとした。現行憲法のもっとも欺瞞的な部分を削除し、誰が読んでも同じ理解ができるものにすることが重要なのだ。この章がある以上、日本が国家の自然権としての個別的、集団的自衛権を保有していることについて議論の余地はなくなる。前章の国際協調の条文により、自衛軍の活動が制限されることも明らかだ。
「内閣総理大臣の指揮監督権」と「国会の承認」を明文化し、自衛軍に対するシビリアンコントロールを明確にする。憲法改正とあわせて、「安全保障基本法」を制定し、自衛権発動の要件や自衛権行使の態様、国際協力としての海外派遣の要件、国家緊急事態の定義、国会承認の手続き等々重要事項をできる限り規定する。
「大量破壊兵器の不保持」と「徴兵制の否定」の条文は、戦後の平和主義のシンボルでもあった非核政策と志願制の原則を明文化したものだ。現行憲法は解釈次第では、自衛のための核兵器は保有できるとされており、この条文により、自衛戦力の限界をより明確化したことになる。また外交目標としての核廃絶、国際軍縮推進への、国家としての日本の決意表明でもある。
周辺事態法以降の「武力行使と一体化しない後方支援」とは、実質的には集団的自衛権の行使を限定的に容認したものに他ならない。今の法制局解釈のように、いたずらに集団的自衛権のハードルを高く設定していることが、われわれの外交政策における選択肢を狭め、国益を損なうことになっていはしないか。この憲法草案は、このような観点から、集団的自衛権の制限的な行使を容認するという立場に立つ。
周辺事態を含む日本有事の際、日本近海において救援に駆けつける米軍が攻撃を受けるような場合の反撃は当然許されることになる。
また、たとえば海賊行為の取締りなどの国際警察活動分野で、韓国やオーストラリアなど国益が重なるアメリカ以外の友好国との間で、軍事的な協力関係を築いていく選択肢も拓かれるし、その積み重ねが、アジア太平洋地域での集団安全保障機構を形成する上で着実なステップとなるだろう。
集団的自衛権を容認することへの懸念は、アメリカの世界戦略としての一方的な軍事行動に、引きずり込まれるのではないか、というものだろう。正義のための戦いなら予防的先制攻撃すら許されるとするアメリカの現政権に対しては、そうした心配も無理からぬこととも思う。
しかし、この行使も、前章(「平和主義及び国際協調」)で、明確に規定しているように、国連が正当化しない同盟国の軍事行動に付き合って、日本の安全と直接関係のない地域に自衛軍を送るようなことはもちろんできない。
そもそも集団的自衛権とは国際法上の権利であって義務ではない。同盟国に自動参戦義務を課すような話ではないのだ。前述のように、集団的自衛権といっても、基地の提供、物資の輸送から戦場での共同作戦まで、さまざまなレベルの協力方法がある。アメリカと同盟関係にある国家は、世界に四十カ国以上ある。どのレベルの協力をするかは、それぞれの政府が国益に沿って判断すればいいことだし、どの国の政府もそう考えているはずだ。
これからの日本が国際政治に臨む大きな目標を掲げ、そのための現実な諸政策を一歩一歩着実に進めていくためには、われわれの外交政策論争から憲法神学論争を取り除くことが不可欠だ。ここに掲げた国際協調と自衛権の条項は、そのための一つの試みである。