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震え上がっている・・・・
史料にみるアテルイ [編集]
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、衣川から巣伏にかけての戦い(巣伏の戦い)についての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。
史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年の降伏時の記事で、『日本紀略]』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。また、「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。
征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として、伊佐西古、諸絞、八十島、乙代を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。 アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。 この時、胆沢に侵攻した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。 北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたらしい。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築いた。
『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が五百余人を率いて降伏したことを記す。二人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めた。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない[1]。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説があった[2]。しかし発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はなくなった。
現代のアテルイ像 [編集]
評価 [編集]
坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。明治以降の歴史学の見地からは、アテルイは朝廷に反逆した賊徒であり、日本の統一の障害であり、歴史の本流から排除されるべき存在であった。
再評価されるようになったのは、1980年代後半以降である。学界で日本周辺の歴史を積極的に見直し始めたことと、一般社会において地方の自立が肯定的に評価されるようになったことが、背景にある。アテルイは古代東北の抵抗の英雄として、一躍歴史上の重要人物に伍することとなった。
これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。
石碑、顕彰碑 [編集]
上述の枚方市宇山にはアテルイ・モレの胴塚と伝えられる塚がかつてあり(現存しない)、その近くの片埜神社のかつての社地(現在は牧野公園内)には首塚と伝えられる塚がある。但し、胴塚と伝えられていた塚は発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明した。1995年ごろから毎年、岩手県県人会などが主催してアテルイの慰霊祭を行っており、片埜神社がその祭祀を行っている。もう1つの比定地は枚方市藤阪で、王仁博士の墓とされている墓が、実はアテルイの墓であるとする説がある。
田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。
2005年には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。
又、JR東日本は、東北本線で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。
創作 [編集]
1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。2000年吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著「火怨」や、これを原作としたミュージカル「アテルイ」(わらび座)などである。後者は2004年月刊ミュージカル誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。他に高橋克彦原作による漫画「阿弖流為II世」(「火怨」とは無関係)や2002年新橋演舞場で公演された市川染五郎 (7代目)主演「アテルイ」(松竹株式会社)が有名である。また、2002年には没後1200年を機に長編アニメーション「アテルイ」が制作された。
「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市)
阿弖流爲・母礼の顕彰碑(京都清水寺)
阿弖流爲・母礼の顕彰碑(裏側)
モレ [編集]
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている。(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。
脚注 [編集]
1.^ 『日本紀略』の写本における地名の異同は、『日野昭博士還暦記念論文集:歴史と伝承』掲載の神英男氏論文に詳しい。
2.^ 吉田東吾『大日本地名辞書』
参考文献 [編集]
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066
関連項目 [編集]
アイヌの一覧
平安時代の人物一覧
岩手県出身の人物一覧
炎立つ - 高橋克彦作の小説ならびに大河ドラマ。アテルイと坂上田村麻呂の因縁から奥州藤原氏の興亡を描いた。
極東戦線異状なし!?/ソウル・フラワー・ユニオン(「アテルイとモレの逆襲」収録)
外部リンク [編集]
奥州市埋蔵文化財調査センター
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カテゴリ: アテルイ | 平安時代の人物 | 陸奥国の人物 | 東北地方の歴史 | 蝦夷 | 802年没
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