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Like a rolling bean (new) 出来事録
http://ameblo.jp/garbanzo04/day-20091116.html
2009-11-16
重要な記事のメモ: JANJAN 『水俣病「語り部」が語る水俣のむかしとこの頃』
ある調べものをしていて、以下のJANJANの記事を読んでいました。
水俣病をあまり知らない世代の方や、各地の公害問題とその予防に対して懸念を抱いている方にも知っていただきたいと思いました。
水俣病の原因究明に関しては、この記事にあるように、水銀汚染であることを隠そうとしてあらゆる工作が行なわれました。学生時代に参加した自主的なゼミなどでもこの件での資料を読みました。
この隠蔽について多少補足します。
熊本大の原田先生なども語っていたことだと記憶してますが、水銀以外の物質をあえて疑わしいとして御用学者が発表し(たとえば、被害者に対して非常に失礼なことに腐った魚の「アミン」による中毒だとでっち上げたりして)、その可能性をつぶすまでに非常に長い時間をかけさせるとか、水銀が出てくるはずがないと主張し、またその混乱の中でなんとかして瑕疵を見えなくして事を収めようとするなど、とても悪質な事業者と行政の対応がありました。
水俣の例は、時代背景もあり悪質でしたが、今でも同じような手が、あたかも、「標準的な手法」のようにして広まっていることに怒りを覚えます。
権力が、真に疑わしいことの総体を見させないために、権威(御用学者)を使って別の話をさせたり、本質からそれた議論を大々的にメディアなどで報道すれば、そのインチキいかさま加減は「感情論」ではすぐに分かっても、そうした権力側の主張に対し明確に反論するには最低限の緻密な検証材料をそろえる必要がある・・・と、学問的にまじめな立場にあるほど考えてしまいます。時間稼ぎにデマを利用しようとするやり方は、こうなると、反論する側を疲弊させる情報戦に持ち込まれます。
ここから抜粋です。ぜひともJANJANで全文をお読みください。強調は引用者によります。
JANJAN
水俣病「語り部」が語る水俣のむかしとこの頃
須藤晶子2009/04/22
http://www.news.janjan.jp/living/0904/0904200861/1.php">http://www.news.janjan.jp/living/0904/0904200861/1.php水俣病が1956年に公式に確認されてから半世紀余りが過ぎた。事件の形骸化が懸念されるなか、水俣病の体験を次世代に伝える「語り部」の人々がいる。水俣病が多発した漁村に50年以上暮らす漁師、杉本雄さんもその一人。「なぜ水俣病は発生し、なぜこんなにも悲惨な公害事件となってしまったか、少しでも考えてもらえれば」という思いで語り続けている。
杉本雄(すぎもと・たけし)さん
1939年生まれ。水俣の南、茂道漁村の漁師。網元の一人娘、杉本栄子さんと結婚した59年以降、義父母と妻が次々に発病し漁村の中で孤立したが、69年、水俣病裁判の原告家族となり73年、勝訴。自身も1981年、水俣病に認定される。「水俣病は食べ物が原因で発症した病気だから、健康に配慮した食べ物を作る」をモットーに、家族で無添加のいりこと無農薬の野菜・果物を作っている。「杉本水産」の天日干しのいりこはおいしいと評判。水俣市「環境マイスター」の認定も受けている。(略)
――杉本さんは十代から漁師を目指していた。
杉本 私はもうその頃から、漁師になるという、自分では最高の希望を持っとったんです。漁師になるといって一所懸命、漁師のほうの勉強をして、普通の国語、算数はもう嫌で嫌で、そっちのほうはもうぜんぜんせずに、山にメジロ獲りに行ったり、川でハヤを釣ったり、海に行けば泳いで、そういうすごく腕白の幸せな生活を送っとったんですけどね。
その頃からもう魚が危ないんじゃないか、漁が落ち目になってくるところに、私の希望が開いとったに、どげんなったらよかねちゅうてから、一番こう、悩んだ時だったんですね。私たちは希望を持っている漁師だから、漁ができるように、できるように、頑張ってたんですが。
――高校卒業後、アルバイト先の網元だった杉本家に婿入りするかたちで栄子さんと結婚するが(59年)、その頃から村に異変が起き始めた。
杉本 一緒になるかならないかという頃、私の家内のお袋が、マンガン病として発表されるんです。もう熊本大学が、魚介類の中の有機水銀が原因じゃないだろうかという水銀説を出したていたんですが、会社(チッソ)としては、水銀という名前を報道のなかから消したかった。新聞紙上に水銀という字を出したくなかったものだから、日本中の学者を呼んで、その水銀という字をいかにして消すかということを考えさせたわけです。
ところが、消すことだけじゃなくて、他のことを加えて、水銀を見えなくしようという発想が出たらしいですね。だから、アミン説とかマンガン説、爆薬説、いろいろ並んでくる。家内のお袋はいわゆる水俣病になったんですけれども、それをマンガン病として、大々的に新聞が取り上げたんです。
マンガン病という今まで聞いたことのない病名だったもんだから、みんなびっくりして。それから、家内ともども、村からいじめに遭うんですよね。病気を出したということで。もうその頃から、魚が原因ということは、みんな薄々知ってたんです。でも、病院に連れていって、病気が出たということになれば、魚が売れなくなる。
だから、「病気を出すな、辛かってもこらえとけ。絶対、病院に連れていくなよ」というのが、漁民の基本の思想だったんですよね。その当時もう、たくさんの病人がいたんです。でも、網の親方は下に30人ぐらいついてますから、みんなを守っていかんばというんで、そのお袋が病めばたいへんだということで、早く回復してもらおうと、病院に連れて行ったんです。それが報道の的になって、マンガン説の見出しで報道されたんですね。
病気が出たんだから、その病気の原因を早く追究するのが国の役目であるし、保健所の役目だと思います。それを、ぜんぜんしなかった。なぜかなれば、たぶんこういう病気は2、3人で終わるだろう、という考え方ですね。
だから、魚が売れなくなるよりも、魚をずっと売り続けて、犠牲者にはかわいそうだけど、そのまま亡くなってもらうという考え方です。病気がこんなに大きく広くなるということは、まだその頃は考えとらんじゃったという問題がある。
国はチッソに操業を許した以上、魚を獲るなといえば、国が漁民に補償しなければいけない。それに国がひっかかっとった。国が、「魚を獲るな、食べるな、売るな」という3原則を出しとけば、こんなたくさん犠牲者は出んかったんですよ。今、考えてみればですね。
――杉本さん家族は、悲惨な現状を社会に訴えようとするが、その試みはつぶされるばかりだった。
杉本 一番辛い時に、やはりこれは神頼みかな、と家内が一所懸命、神頼みをやった時期があったんです。その会で、最初、30分の時間をもらって、家内が体験を発表する予定だったんです。水俣病はこうこうです、こんな辛いところがあるんですと言って、どうしたらいいですか、どういうふうにして乗り越えたらいいですか、助けてくださいということを言うために、原稿もちゃんと書いて用意しとったわけ。ところが、それが10分に削られ、5分に削られ、最終的には3分で終わってくださいになって。3分では自己紹介するだけです。何も言えないんです。
その会の新聞記者に、ぜんぜん意味がわかっとらんとちゅうてから抗議したら、新聞に載せてくれました。載せたとたんにその人はクビ。明くる日から、クビだった。そういう感じのその頃の水俣でした。
(略)
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