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特集ワイド:’09大政変 前衆院議長・河野洋平さん【毎日JP】
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091102dde012010070000c.html
<この国はどこへ行こうとしているのか>
◇強く生きよハトよ−−前衆院議長・河野洋平さん(72)
「ああいうものをテレビで見たことはほとんどなかったわけで。
でも、大きな違和感はなかったですね」。
衆議院の前議長、河野洋平さん(72)は、国会に近い個人事務所で静かに言った。
画面に映ったのは、金色のネクタイを締めた鳩山由紀夫首相。
衆議院本会議で先月26日、50分を超す異例の所信表明を行った。
「無血の平成維新」と声を張り上げるたびに、議長の右手に座る与党・民主党議員から拍手があがった。
夏に衆議院が解散されるまで、河野さんも所属した自民党の議席だった。
5年あまり議長席から見続けた立法府の光景は一変したはずだ。
戸惑いは、口調からはうかがえなかった。
「鳩山さんらしい演説だったと思います。
あれだけ一生懸命選挙をやって、あれだけの成果を上げれば相当高揚しておられるでしょう。
それが時間の長さになった。
景気対策にせよ、具体性がない、という批判はある。
ただ、今までの政治と違うんですよ、と宣言するということでしょう」
自民党は元気がないですね?
「去年の今ごろは民主党があんな状況だったんです。だから、これから。
質疑応答、予算委員会があって。
そこできちんとできないと力負けという感じがするけれど」。
谷垣禎一・党総裁の評へと続く。
「とてもいい人だと思います。問題は政治的キャリア、修羅場をどれくらい越えてきているか、どれだけ重い責任をしょって歩いたか」
河野さんは自民党が大きく揺れる場面で注目された。
1976年、ロッキード事件を批判して党を飛び出し6人で新自由クラブを結成した。
当選3回、39歳だった。
内紛もあり10年後に新自クは解党し、自民党に戻った。
93年の細川政権誕生の際は、初の野党として自民党総裁を務めた。
「私はずっと40年間、修羅場ばっかりです。
若いころ、党内で意見を言えば、『あいつは航空母艦の上でたき火をして遊んでいる』と言われた。
(新自由クラブを)つくっては壊して、壊されて、どのくらい辛酸をなめたか分からない」
だから谷垣総裁を「まだまだ」と見るのだろう。
「これから修羅場を行くわけです。乗り切ればいいリーダーになると思います」
河野さんは、新自クを結成するときに保守新党を掲げるなど、「保守」にこだわってきた。
選挙で敗れた自民党内から聞かれたのが「保守の再生」だが、どんな意味なのでしょう。
「ちょっと分からない。いろいろ意味を持つ言葉です。
今の自民党の『保守』はよく分からないなあ」
55年体制が続いた自民党で、河野さんは、自他共に認めるハト派だ。
その理念とは。「権力者が力で押し付けることには反対という立場です。
そして、戦後の政治、民主主義を肯定する。
もう少し言えば、アジアを重視するということです」。
気持ちを同じくした政治家として、宇都宮徳馬元参院議員、伊東正義元外相の名を挙げた。
ハト派は生きづらくなったという。
「自民党の中で、ハト派の割合は4割足らずでしょう。
小選挙区制では、ハト派は公認候補になりにくい。
(選挙制度を変えた)私自身にも罪はあります」。
残念そうだ。
「だけど」と言葉をつないだ。
「今に支持が得られるようになる。
オバマさんが当選した新たな潮流が流れてきて、何年先か、日本を包むだろうと思っています」
米同時多発テロの後、ブッシュ大統領の強硬政策は、米国で圧倒的に支持された。
時がたち、冷静さを取り戻した米国民は、武力の行使より、話し合いや助け合いで世界の平和を築く道を歩き始めた。
「新たな潮流」がこうして生まれた、と河野さんはみる。
その潮流が日本に民主党政権を誕生させたのでしょうか。
間髪を入れずに答えが返ってきた。
「いや、そうでもないでしょう。
ぼくは小沢(一郎・民主党幹事長)さんがそういう潮流の人には見えない」。
口調が少し強くなったのは、自民党ハト派としての自負か、権力を握ったかに見える小沢氏への警戒感か。
河野さんは麦茶をすすった。
大きな目、立派な鼻、柔らかな笑顔。
大仏さまのようですね、と声をかけたら気を悪くするだろうか。
つかの間空想して、言葉を待った。
「政治生活で非常に大事だと思ってきたのは、目的のためには手段も選ぶべきだということです。
カネを集める方法はちゃんとしたことじゃないと駄目。
秘書に任せて何でも集める、というのは目的を得られない」。
自民党の派閥領袖はかつて、億単位のカネを集め若手にばらまいた。
現在の不明朗な献金問題も、政治への国民の信頼を失いかねないという点では一緒だ。
「科学技術庁長官をやってつくづく思った」。
85年当時である。
「米国は、ものすごいお金をかけてものすごいものをつくる。
車でもでっかくて立派。
でも、乗り心地や価格は全然別なんですね」。
昨年来の不況で、GMなどの米大企業の屋台骨は揺らいだ。
ものづくりの現場で、日本人の良さを再認識した。
「使う人を考えたつくり手の優しさが投影されている。
日本人の誇りであり、国際社会で不可欠なものとなる」
政治家としての集大成ともいえるのが、昨年9月に広島で開いたG8下院議長会議(議長サミット)だ。
参加したナンシー・ペロシ米下院議長は、大統領、副大統領に次ぐ実力者だ。
一行は原爆死没者慰霊碑で花をささげ、平和記念資料館を時間をかけて回り、被爆者から話を聞いた。
ヒロシマへの思いは94年、外相として臨んだ国連総会にさかのぼる。
核実験全面禁止条約の署名式を広島で開催するよう提案した文言のうち、米国などへの配慮から「最初の被爆地である」を削ることになった。
「国連に集まる人にヒロシマは見えていない。
ヒロシマを持ってこなくちゃ駄目だ。
それができないなら、連れて行って、どんなだったかを見せなくちゃ、と思いました」
決心は14年後に実現した。
成果はそれだけでなかった、のかもしれない。
「広島での議長サミットで、『我々は核のない世界を目指したい』と言った。
ペロシさんは終始まじめに聞いていました」。
今年4月、オバマ大統領がプラハで行った演説で「核兵器のない世界を目指す」と述べた。
「私たちの思いはオバマさんに届いていたと思う」
鳩山首相は国連で、非核三原則の堅持を約束した。
ハトは強くあらねばならない、という河野さん。
平和の潮流が広がるかどうか、注視している。
【坂巻士朗】
この国はどこへ行こうとしているのか「’09大政変」シリーズは終わります。
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■人物略歴
◇こうの・ようへい
1937年神奈川県生まれ。早大卒業後、商社マンなどを経て、67年に初当選。94年の自社さ政権で与党に復帰し副総理兼外相に。02年、長男の太郎衆院議員から生体肝移植を受ける。03年から09年まで2029日間の衆院議長在職は歴代最長。健康問題を理由に今夏、政界引退。主著に「決断 河野父子の生体肝移植」
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毎日新聞 2009年11月2日 東京夕刊