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【神州の泉―高橋博彦】
2009年11月14日 (土)
司法の伏魔殿!?
11日、植草さんのブログ記事、「新藤氏『司法官僚』が示す司法制度改革の原点」に、「司法官僚」(新藤宗幸著 岩波新書)という本が紹介されていた。取り寄せて読み始めたところである。「司法官僚」とは耳慣れない言葉だが、本のカバーに「全国の裁判官の人事や予算などの司法行政を担う最高裁判所事務総局があり、その幹部を構成する『司法官僚』とは、裁判官の衣をまとった行政官である」と書いている。
私は政治権力と癒着して国策捜査を行う権力官僚を、勝手に「国家ヤクザ」と呼んでいる。この本に出ている「最高裁判所事務総局」(P45〜)をざっと読んでみると、国家ヤクザの伏魔殿というイメージが湧いた。私は口が悪すぎるだろうか。ここに雌伏している腐った権力官僚が、司法の正義をぶち壊しているような気がしたからである。司法の硬直性、消極性、非独立性という悪弊はすべてここから発しているのだろうか。
序章に日本の司法の消極性のことが書いてある。読んだところは、下級審の判決がかなり「ステロタイプ化」しており、裁判官の独自性が見えないということを書いてある。続けて匿名の現職裁判官の話が載っている。
「素直に行って、下級審裁判官には上級審で破られたくないという心理が非常に強いんじゃないかと思うのですね。略・・、高裁の裁判長は最高裁で破られることをすごく気にしています。云々・・」
まだ冒頭部分だが、しょっぱなから興味深い記述が見られるようだ。司法の非独立性や消極性と言えば上品に聞こえるが、ざっくばらんに言って、裁判官の「判断放棄」ということだと思う。また気になる箇所が目に付いた。一裁判官の「立法と行政は多数派のためにある。司法は少数派のためにある」という名言があるらしい。昔、法曹に詳しい人に聞いたことがある。司法は、民主主義の多数決原理でボイコットされた「少数派」の最後の救いの砦だと。
理屈では妙に納得した覚えがある。国家は少数者を保護する機能を持たないと、多数派の粗暴性によって圧政になる場合がある。我々庶民は、司法や裁判所と言えば、いかつい、物々しい感じがあり、それは権力官僚の最上位にいて、何者にも左右されないスーパーパワーみたいなものだと思い込んでいる。しかし、三権のうちの立法、行政は多数派のためにあっても、司法は少数派のためにあるのなら、何となく一市民として安心できる。それを聞いたときは、理想の法治国家像だと思った。だが、現実はどうなのかと考えた場合、暗くなる。
憲法第十四条第一項「すべての国民は、法の下に平等であって、・・・差別されない」は有名だが、これを見ると、最近のことを思い出した。それは植草さんの裁判の帰結のことである。以前の記事を参照するが、K裁判官は、植草一秀さんの「痴漢えん罪事件」と防衛医大教授の痴漢えん罪事件に関わった裁判官である。
防衛医大教授の痴漢えん罪事件では、判決の「補足意見」の中で、「被害者の供述は、たやすく信用し、被告人の供述は「頭から疑ってかかることのないよう、厳に自戒すべきだ」とか、「やったかどうかわからない以上、『無罪の推定』原理により、被告人には無罪を言いわたすべきなのである」と言っておきながら、植草事件では、まったく正反対の高裁判決を支持するとした矛盾ある判決を下した裁判官である。
このダブルスタンダードを平然と行使して、法の下の平等に恥じないだろうか。というか、人間として恥じないのだろうか。最高裁でこれをやられたら、法に信頼を寄せる庶民はたまったものじゃない。この腐った裁量感覚を生み出すものは何だろうか。
話がずれた。この「司法官僚」は、まだ読み始めたばかりで全体に何が書かれているのかわからないが、序章だけでも目を惹く記述がある。日本の司法制度について、かなり核心的なことが書かれてある本かもしれない。司法の根幹には病巣があって、それが裁判を機能不全に陥れているのだろうか。この本はその病巣が何であるか書いてあるのかもしれない。
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