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特捜の看板には無理がある――『検察の正義』を書いた郷原信郎氏(弁護士、名城大学教授)に聞く(1)〜(4) - 09/11/06 | 07:00
理学部出身、独学で司法試験に合格し、「引きずり込まれた」検察の世界で23年。その検察OBが「組織の論理」に閉じこもり、社会・経済の構造変化から立ち後れる「検察の正義」を問い直す。
――舌鋒鋭く検察、中でも特捜批判には容赦がありません。
いまの検察の、とりわけ特捜部のあり方、捜査のやり方を徹底的に批判している。私の批判を受けることがなければ、おそらく検察に対する批判は少なくともこの1年を考えたら全然違っていただろう。そういう意味では、私という人間を検察に引きずり込んだことは大きな意味を持ったのではないか。
――法律理解は独学で、そして伝統的な組織の中へ入りました。
いわば私は法曹資格者の中では「変わり者」。なんの予断も先入観もなく、一般の市民の感覚で検察の仕事をやってきた。「小沢秘書事件」についても、経験と法解釈を踏まえて当たり前のことを言っているつもり。その当たり前のことを当たり前になかなか言いにくいのが検察の世界だ。検察では閉じた世界の中で独特な論理で動かざるをえない。
――東京地検特捜部にも在籍しました。
特捜検察には特に大きな問題がある。しかも、その特捜検察を看板にして社会的に存在価値を維持してきたのが、これまでの検察だった。だから看板を維持しようと思って無理が起きる。その無理が限界に近づきつつある。
たとえば2000年以降、特捜が手がけた事件で胸のすくような成果を上げたというものはほとんどない。もう無罪判決が出たものもあるし、無罪判決に至らなくても実質ほとんど負けではないかという事件がたくさんある。特捜検察は限界にきているといって間違いがない。
――政治資金が一つのターゲットになっています。
政治資金の問題は、経済司法としても同じだが、個別の悪党を退治する話でなくて、一般社会、政治、経済に影響があることだから、ルールに基づいてきちんと適用しないといけない。それもそのルールの中身をまず明らかにしないと。
検察がルールを自分たちの考えでどうにでもできるとなると、政治と検察の関係では、検察が政治の上位にくることになる。基本的に政治資金規正法は政治の世界のルールの問題であり、自主的にやっていくのが望ましい。それでどうにもならないときに刑罰が出てくる形になってくる。ところが、いまの検察の考え方はそうではない。旧来的な悪党退治のために使える武器はなんでも使おうとする。
――まず悪党退治ではない?
いまの世の中、単純な善と悪との対立構図などない。はっきりしているのは、単純な人殺しとか泥棒といった伝統的な犯罪ぐらいだ。簡単に善悪は判断できないとしたら、実態に迫っていかないと事件の摘発とか処罰はできない。それは検察の閉じた組織では難しい。どうしても自分たちの考え方に凝り固まってしまう。それでは、本当の意味で社会の要請に応えることができない。
――経済司法の役割も増しています。
反社会的、反道徳的な犯罪についての検察官の仕事は方向性が定まっている。犯人を捕まえたら起訴できるだけの証拠を集め、証拠が固まったら起訴する。そして公判で有罪に持ち込む。その方向性は直線的だ。そこには価値判断の要素はほとんどない。
ところが、検察が手がけることを求められている事件は、必ずしも単純な価値観で割り切れるようなものばかりではなくなっている。たとえば独占禁止法違反であり金融商品取引法違反。そういう経済犯罪は必ずしも悪党かどうかではなく、経済社会のルールを当てはめて、ルール違反であればその程度に応じて処罰する。その制裁がそれなりに周りに効果を及ぼす。
だから、ルールを全体として経済社会の中で守っていく。そういう目的のために刑事罰が使われる。刑事司法としての経済司法は、そういうものでなければいけないはず。そこには価値判断が必要だ。
カルテル、談合が悪い、あるいはインサイダー取引、有価証券報告書の虚偽記載が問題といっても、社会の価値判断の下でどう事実を認定し、法律に照らして処罰すべきか。
ここは検察として経済社会の実態をしっかり理解して、どの程度悪質か重大かということを含めて評価し、法を当てはめていかなければいけない。そうなると、検察はもっと開かれた感覚、開かれた目をもっていなければいけなくなる。
――単純な一罰百戒ではなく、「一罰一戒百戒」で、とも。
私は一罰百戒は一罰一戒百戒でないといけないと思っている。一罰が一罰で済んでしまうと思ったら残りの九九は、あいつは運が悪かったなと思うだけで何も改めない。しかも、つまみ食いしやすいところだけを捕まえたら、その本人はどう思うか。納得できないといって徹底的に抗戦する。なんで自分だけがやられるのかということで納得も反省もしない。
だから、百の違反行為がある中で、まず可能な限り検挙できる悪質重大なものから摘発していく。それを制裁対象にすれば、一罰の対象になった側もそれでは仕方がないなと思って受け入れ、残りの九九も改めるだろう。そういう意味で戒めになる。
私はやはり一罰一戒百戒でなければいけないと、そういう意味で言っている。
――ライブドアは一罰百戒?
あの事件は法令違反になるかどうか微妙だが、六本木ヒルズに係官が突入する華々しい強制捜査で始まった。そのときに世の中の多くの人はどうとらえたか。ライブドアは表面的にはまともに見えるが、裏でとんでもないことをやっている会社と見たのではないか。だから、翌日の東証がシステムダウンを起こすほどの大混乱に陥った。
だけどフタを開けてみたら、焦点は52億円の会計処理上の問題だった。一罰の選び方が果たして適切であったかどうか。それによって経済社会全体に大きな影響を生じさせてしまった。
――「長崎の奇跡」といわれた地検次席検事時代の自民党長崎県連違法献金事件での成果は、検察全体へ波及していない?
その事件ではいままでのやり方とまったく違う捜査手法、組織づくり、目標設定で取り組んだ。その結果、本当の意味でのコンプライアンス、社会の要請に応えることができた。だが、6年たって旧来に戻っている。残念ながら、「長崎の奇跡」は文字どおり「奇跡」になってしまった。
(聞き手:塚田紀史 撮影:吉澤菜穂/アフロ =週刊東洋経済)
ごうはら・のぶお
1955年島根県松江市生まれ。東京大学理学部卒。東京地検特捜部、長崎地検次席検事、法務省法務総合研究所総括研究官などを経て、2006年弁護士登録。08年郷原総合法律事務所開設。名城大学教授・コンプライアンス研究センター長、桐蔭横浜大学法科大学院客員教授、総務省顧問などを兼務。
ちくま新書 756円