★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK74 > 743.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51287730.html
2009年11月13日00:00 カテゴリ社会・世界情勢
「殺人」へのまなざしが変わる
火曜日の「イラク戦争の検証を求めるネットワーク」キックオフ院内集会は、議員13人、秘書6人をふくめ、キャパシティ70人の部屋はあふれるほどでした。院内集会は、議員さんの参加が、一瞬の顔見せもふくめて10人あれば成功なのですが、今回は予算委員会に出るために3人の議員さんが中途退席しただけでした。
NHKニュースのカメラも入っていました。が、夜の定時ニュースが中継をまじえてトップから延々伝えたのは、死体遺棄事件の容疑者逮捕でした。院内集会のニュースは飛んでしまいました。
言うまでもなく、殺人は異常な事態です。人心は動揺し、なぜ、という問いが人びとの心を突き刺します。いきおい、報道価値も上がろうというものです。
漠然と、殺人事件は増えている、と思っている方もおられるかもしれませんが、実際には減っています。しかも、もともと少ないうえに、減っているのです。殺人の犠牲、年間800人ぐらいを少ないと言うと、怒る方もおられるでしょう。ひとりだって殺されるなどという死に方をしてはならないのですから、当然です。
でも、先進諸外国と比べると、少ないとしか言いようがありません。2001年のばあい、ドイツは日本の2.7倍、イギリスは3倍、フランスは3.4倍、アメリカは、9.11の犠牲者を除いて4.7倍です。
こうした数字からはしかし、「自分は人を殺した」というただならぬ事態に立ちいたった人については、なにもわかりません。まず、わたしたちの通念を裏切るのは、すべての犯罪者のうち、殺人を犯した人はもっともよく更正する部類に入る、という事実です。また、殺人には相当のエネルギーが必要なので、殺人を犯す人はもともと生きるエネルギー値が高い、けれど、さしものエネルギーもこの異常な行動によって使い果たされてしまい、気が抜けたような、達観したような人格に変わってしまう人も多いのだそうです。それが、宗教的な境地にまで高まることもあるのではないでしょうか。
河合幹雄著『日本の殺人』(ちくま新書)は、殺人を犯すにいたる人びとにはふたつの条件が多く見られる、としています。第一に、社会的経済的に不遇である、第二に、生きるのに不器用である。著者は、ごくごく少数の凶悪としか言いようのない事例を除いて、殺人犯になってしまうほとんどの人から「悪」は抽出されない、と言いたげです。ほんとうに悪い人間がいるとしたら、かれらは殺人などというドジなことはしないのかもしれません。だから、「まさかあの人が」という近隣の人のコメントが事件のたびにニュースを彩り、それが事件の凄惨さと極端な対比を生んで、わたしたちの関心をいやがうえにもかきたてることになります。
先月、森達也さんがノルウェーの犯罪学者の話を聞く、というNHKの番組がありました。ノルウェーでは、犯罪を犯した人のほとんどは、貧しい環境や愛情の不足などが原因なのだから、いい環境と愛情と教育を提供するべきと考えられているのだそうです。もちろん、ごく少数の邪悪な犯罪者もいるけれど、罰を与えても意味はなく、治療の対象と受けとめられているそうです。ノルウェーでは、殺意をもった殺人は年に1件程度で、社会全体がゆったりとしている、という報告が印象的でした。
昨今、日本では厳罰化が進んでいると言われます。判決がどんどんきびしくなっている、と。確かにそのようですが、先の本によると、このくにの制度運営では、伝統的に、殺人を犯した人でもなるべく刑務所には入れない、入れても、長く実社会と切り離されているほど社会復帰が困難になるので、早めに出すことにしていて、それが他の先進国とは比べものにならないほどの成功を収めているのだそうです。更正がうまくいくのは、家族をもつ、仕事をもつ、そしてサポートしてくれる人といい関係をもつ、といった条件が満たされたばあいだそうです。つまり、ノルウェーと同じ方向を向いていると言えます。
なあんだ、と思わず拍子抜けしてしまいます。ましてや、犯罪を犯した人と接し、その更正や処遇に腐心している現場の人びとにしたら、厳罰化論議は戸惑いを覚えるものでしかないのではないでしょうか。世間は現実を知らないでおかしな議論をしているなあ、と。
殺人事件に関心をかきたてられるわたしたちに迎合するように、メディアは犯人像を異様に、異常に描き出そうとします。けれど、一般に殺人は、運の悪い人生を送っていた不器用な人が、不器用ゆえに追い詰められて犯してしまう、そうした知見を踏まえると、すべての殺人事件がまったく違ったふうに見えてきます。サスペンス小説やドラマが好む極彩色の、いわば悪の輝きをすっかり失った、「なんという愚かなことをしてしまったものだ」という白けきった、と言ったら語弊があるなら、わたしたちの日常と地続きの、真剣にとりくむべきケアの問題として立ち現れてくるのです。
このくにの殺人事件の7割が親族関係に起きていることなどもふくめて、被害にあわれた方の痛ましい心の問題や、厳罰化や死刑の存置についても、これからすこしずつ考えていきたいと思います。