キム君の連載が終わったばかりのところだが、また今週から次の「連載」を始めたい。それは10月最後の週の一週間、とても貴重な体験をしたからだ。そしてその経験は、政権交代したところでいまだ増え続ける困窮者と、混乱する生活保護行政の現場について、深く深く考えさせられるものだった。 昨年の今頃は「派遣切り」報道などが続いていたが、今年はそんな「劇的」な報道が続いているわけではない。しかし、厳しい状況は昨年の比ではない。野者のための炊き出しに並ぶ人の数は昨年の2倍。ホームレス生活をしている人からも「今はすごい勢いでホームレスが増えている」とも聞く。しかし、既に「貧困」「失業」「ホームレス化」はメディア的に「新しいネタ」ではなくなってしまった。珍しく、新しいうちは報道されるが、既に「当たり前」のことになってしまった現象についてはなかなか報道もされない。そういった中で今、じわじわと追い詰められている人の数は静かに激増している。 今回出会ったカップルも、そんな状況の中で、ひっそりと追い詰められていった。 ことの始まりは10月26日、私のもとに届いた一本のメールだった。26歳の女性、B子ちゃんから届いたメールには、現在「彼氏とともにホームレス状態」であるということ、できたら取材してくれないかということが書かれていた。それをきっかけに、なんとかこの生活を立て直したい、と。 「取材してくれないか」という言葉が、切迫した状態でありながらも、彼女の遠慮を伝えているように思えた。厳しい状況にありながらも明らかにこっちを気づかっているからだ。そうしてメールのやり取りをするうち、意外な事実が判明した。彼女が一緒にいる男性が、一度「ネットカフェ難民」時代に私と会ったことがあるというのだ。すぐにわかった。95号で書いた「ネットカフェからのSOS」の彼だ!所持金がなくなって池袋のネットカフェからメールをしてきて、私が迎えに行った22歳の男の子、A君である。 その時、彼は私に会ってすぐ、知り合いのつてで仕事が決まり、他県に渡って農業をしていると本人からのメールで知っていた。それから半年間、連絡はとっていなかったのだが、今また苦境に立たされている。B子ちゃんによると、「一度お世話になった」という経緯からA君は「気まずい」し「申し訳ない」ので私には会えないと言っている、とのことだった。が、そんなことを言っている場合ではない。とりあえず取材云々は別にして、今現在ホームレス状態であれば事情を聞き、支援団体などの情報を知らせたい。ということで、会いましょう、と伝えた。当面の生活資金として、取材謝礼も払うことも。その翌日、彼らはネットカフェからメールを送ってきた。所持金はもうないが、私に連絡を取るため(この時点で既に二人の携帯は止まっていた)、ネットカフェに入り、やっぱり出るに出られないというメールだ。じゃあ今から取材ということにしましょう、ということで、私は彼らが滞在する横浜のネットカフェへ。そうして27日午後7時頃、ネットカフェのブースでA君と半年ぶりに再会、B子ちゃんと初めて会ったのだった。 二人はしばらく食事もとっていないとのことで、まずは近くのファミレスに向かった。御飯を食べたあと、話を聞く。22歳のA君はハキハキしていて礼儀正しい「好青年」を絵に描いたような若者だ。26歳のB子ちゃんも、冷静に自分の境遇を分析して話ができるしっかりした女の子。どうしてこんな「普通」のかわいいカップルが・・・。お互いをいたわりあう姿を見ながら、インタビュー中、何度も涙ぐみそうになった。本当にこの国は、どうしてしまったんだろう? 「親に頼れるかどうか」。このことが現在の不安定層にとってはホームレス化しないかどうかの分かれ道になっている。 この連載でも何度も触れてきたように、湯浅さんが言うところの「家族福祉からの排除」だ。派遣の仕事が突然打ち切りになったり、失業したりした時に家族に頼れるかどうか。 非正規雇用であれば、貯金なんて夢のまた夢だ。時給1000円前後で一人暮らしであれば、家賃と生活費を払えば手元に残るのは生存ギリギリの食料を買うお金くらい。それに不安定雇用は常に「失業」を前提としている。失業して仕事を探し、面接を受け、返事が一週間後だったりして、それが何度か続くとたちまち生活は破綻する。それなのに多くは雇用保険もない。こういう状態は「企業福祉からの排除」という。 そんな企業福祉からの排除を受けている不安定層だが、「親に頼れれば」ホームレス化を免れる。失業して家賃を滞納しそうになった時にお金を貸してくれたり、食料を送ってくれたり、場合によっては「実家に帰る」という選択もできるからだ。この「家族福祉」によって、到底「フルで働いても自立生活できる賃金を貰っていない」大量の非正規雇用層がまだホームレス化していないわけだが、「家族福祉」がない人たちが今、真っ先にホームレス化しているという現状は御存知の通りだ。 そうしてA君もB子ちゃんも、まさに「親に頼れない」状況だった。A君は池袋で会った時にも「親も貧困状態」と話していたし、現在は親兄弟とまったく連絡が取れないという。B子ちゃんは21歳の時に実家を「勘当同然」で出ているそうだ。まったく親に頼れない状態で、彼女はそれから5年間、自分の力で生きてきた。A君も、高校を中退してからは様々な仕事をする中で、誰にも頼らずに生きてきた。 よく、貧困状態に陥った人に対して「甘えている」などと言う人がいる。しかし、私はまったく逆だと思う。彼らは誰にも「甘える」ことなく、あまりにも剥き出しに、たった一人で「社会」に投げ出されてきた。例えばフリーター時代、私は家賃を滞納しそうになるといつも親に泣きついていた。そうやって何度も何度も「親に甘えて」生きてきた。しかし、彼らは一度たりともそれができなかったのだ。いわゆる「正社員」層のように企業福祉に甘えることもできない。雇用保険も何もない。健康保険料もとても払えず、会った時は保険証も持っていなかったから「国民皆保険」と言われる制度にも守られていない。彼らが「甘えている」というのであれば、社会人になって一度でも親にお金を借りたことのある人は全員彼らの100倍「甘えて」いることになるし、実家に住めている人は更に「甘えている」ことになるし、「親にお金を出してもらって大学や専門学校に行った」なんて人は、どうしようもなく「甘えきって」いることになるのではないだろうか。 人は、自分が自動的に手にしているものに限ってなかなか見えないものである。空気のように当たり前にあるので、どうしてそれが「ない」のか、理解できない。だけどそれはただ単に想像力があまりにも貧しいだけではないだろうか。或いは傲慢か。そう、「持っている」人に限って、「すべて自分の努力と実力で手に入れた」なんて言うが、大抵の場合、それは大きな勘違いだ。 (以下、次号)
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