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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu203.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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民主党の小沢一郎氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。
キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明
2009年11月11日 水曜日
◆小沢氏「キリスト教は独善的」 仏教は称賛 11月10日 北海道新聞
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/199248.html
民主党の小沢一郎幹事長は10日、和歌山県高野町で全日本仏教会の松長有慶会長と会談後、記者団に宗教観を披露した。この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。
国政に影響力を持つ与党の実力者による批判発言だけに、波紋を広げる可能性がある。
一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。
◆資本主義はなぜ自壊したのか 中谷厳:著
http://item.rakuten.co.jp/book/5931485/
「自然は征服するもの」と考える一神教思想
かくのごとく、一神教の成立とキリスト教の普及はヨーロッパ人の自然観に決定的な影響を及ぼした。西欧文明においては、自然の山や谷、あるいは野生の動植物といった存在は基本的に「悪」であり、「悪」であるがゆえに人間がそれを征服しなければならないと考える。
それはたとえば、ヨーロッパの庭園を見ても分かる。ヨーロッパ人の考える理想的な庭園とは、ベルサイユ宮殿の庭園のように、人間の手で品種改良されたバラなどを人工的、幾何学的に配置したものである。ベルサイユ宮殿の庭園は見事に左右対称に造形され、人間の自然に対する強い意志が打ち出されている。実際、西洋人の美意識は、日本人のように、山や野などの自然を見立て、その風情を庭に再現することが美であると考える意識とはまったく異なったものである。
かくのごとく、自然を管理し、飼い慣らし、征服することが神から人間に与えられた使命であると考えるのがキリスト教であり、こうした思想を「スチュワードシップ」と言うが、こうした自然観があったからこそ、近代西欧社会は世界の覇者になりえたと言っても過言ではない。なぜか。それは自然への恐怖心がなかったからこそ、自然を客観的に、科学的に分析することが可能になり、近代科学革命が起こったという事情があるからである。もし、人類がいつまでもアミニズム信仰に浸り、自然への畏怖心を強く持ち続けていたならば、大木を切り倒し、森を開墾する事も出来なかったであろうし、自然を徹底的に分析しつくす事などとても恐ろしくてできなかったであろう。
実際、「人間は自然の中にある真理を解明し、自然を管理できるようになる」という確信がなければ、とうてい自然科学は発達しなかった。また、西欧人が七つの海を渡り、各地に植民地を作ることができたのも、彼らが自然に対する畏怖を感じなかったからに他ならないし、「自然を開発することで罰が当たるのではないか」といった、自然崇拝の気持ちがどこかにあれば、アメリカ人の西部開拓も起こりえなかったであろう。「自然は畏れるに足りない」という思想があればこそ、西欧人は世界に広がっていけたのである。
たしかに、こうしたスチュワードシップの発想があればこそ、近代科学や資本主義が発達したことは間違いない。たとえば、自然が神聖であるという考えが残っていれば、ポランニーが批判する土地の売買も行なわれることはなく、したがって資本主義の成立もありえなかったことは事実であろう。
だが、このような自然観に基づく西洋文明、そしてその極北としての資本主義社会はすでに述べてきたとおり、行き詰まりを見せている。資本主義社会が人間にもたらしたもの、それは信じられないほどの科学的発明、生産性の上昇、物質的な生活水準の向上などであったが、明らかにそれは地球の限度を超えてしまった。また、環境破壊がとどまるところを知らず、先進国では人々の心が荒み、社会も疲弊しはじめた。
二一世紀に入って、ついに自然と人間とを対立的に捉えるキリスト教的な発想、近代合理主義思想、そして人間中心主義から脱却する必要が出てきたのである。
そもそも、すでに述べたように一神教以前の人間は、自然を神聖なものとして捉え、動物の中に霊性や神性を見出していた。そうした自然観のほうが実は「普遍的」なものであり、自然を征服するという考えのほうが特殊であったのだ。
そのことを考えるならば、我々はいま一度、古代の人々が持っていた自然への思い、自然への素朴な崇拝心を取り戻すべきではないだろうか。「アニミズム(自然崇拝)」は、これまで原始的な宗教、未開人の信仰とされてきたわけだが、それはあくまでもキリスト教など一神教からの評価にすぎない。実は自然を崇拝し、自然との調和、自然との共存共栄を目指す価値観にこそ、二一世紀の我々が目指すゴールがあるのではないだろうか。
なぜ日本人は自然と共生できたのか
さて、そのような観点に立ったとき、日本人の宗教感覚、自然感覚が現代世界において重要な意義を持ってくるのではないか。
というのも、およそ世界のさまざまな文明の中でも、日本ほど自然に対する素朴な信仰心や愛はぐくも情を育んできた国は少ないからであり、明治維新以降の西洋化の波に揉まれながらも、その心情は古来とあまり変わらない形で心の奥底に残存していると思われるからである。そして、このような文明は少なくとも先進国の中には他に見あたらない。
そもそも人間の文明とは、単独では生きていけない。人間が自然の脅威に対抗する為に集団生活を行なうことから生まれてきた。古代メソポタミア、エジプト、黄河文明・・・どの古代文明を見ても、それが都市国家から始まったというのは偶然ではない。都市とは外敵から身を守るためのみならず、自然の大いなる力に対抗するために人間が作り出した「一大発明」であったと言えるだろう。その意味では、およそ高度な文明において自然は畏敬の対象になりえても、そこに親しみを感じたり、あるいは共存していこうという姿勢に至ることは少なかった。
たとえば今でも中国では都市の周囲ではかならず大規模な森林伐採が行なわれる。生活用の燃料としての薪を得るために森が消費しつくされるのだが、その結果、多くの禿げ山ができ、砂漢化が進んでいく。森を失った大地は雨水をとどめおくことができず、やせ衰える。やせた土壌は雨水に流され、生物は死滅し、人間の生きる場所でなくなっていく。これが中国の大きな環境問題である。
これは地中海世界でも同じで、かつてのレバノンは広大な杉林があったとされるが、船舶を造るためにレバノン杉がどんどん伐採されて、古代のかなり早い時期に広大な森が消滅したと言われている。地中海の島々においても、それは同様であるという。このように都市文明は自然を破壊し、森林資源を消費しつくすのが常である。
ヨーロッパの主要国で森林伐採に最後まで抵抗したのはおそらくドイツであろう。ドイツの地は昔は「ゲルマーニア」と呼ばれていたが、この地には行けども行けども深い森が続いていた。ここに住むドルイド僧は森にいる神を信じ、森を聖なるものとしてキリスト教布教者たちに抵抗したが、ついにキリスト教が勝利を収め、ゲルマーニアの森は次々に伐採されていった。その結果、一七世紀ころまでにはドイツの森林の八割は伐採されてしまったという。
ところが、日本の場合、こうした形での自然破壊は少なくとも明治維新までは起こらなかった。その理由としてはもちろん日本列鳥が実に天然資源、森林資源に恵まれた土地であったことも大いつくきいが、それと同時に忘れてはならないのは、日本には古来森を慈しみ、育てる文化があったということである。
日本人もまた生活の必要上、樹を切り倒していたわけであるが、そうやって樹を伐ったあとを放置するのではなく、ちゃんと植林をし、地域共有の「里山」として維持していかねばならないというルールを持っていた。なぜなら、稲作を行なううえで、保水機能のある里山を持つことが不可欠だったからである。稲作を農業の中心に据えた日本はその意味で森を残さざるをえなかったのである。また、古くからの原始林は「鎮守の森」などと呼ばれ、聖なる土地として樹を伐ること自体が禁止されていた。日本では神社はかならず鎮守の森の中に造られたが、それは日本人が神は森に宿ると考えていたからに他ならない。まさに日本人は自然と共生する暮らしの中に、独特の宗教観を育んでいったのである。
こうしたメンタリティは時代を下って徳川期になっても消えることがなかった。徳川期の江戸は人口一〇〇万に達する世界最大の都市であったが、ヨーロッパの他の都市のような衛生問題、あるいは伝染病問題がほとんどなかったと言われる。それは都市生活の中で出たゴミや排泄物などが、完懐にリサイクルされるシステムができていたことが大きな理由であるが、徳川期の日本人にとっては自然環境を破壊しない暮らしをするという思想が当たり前のようにビルト・インされていたのである。
前出の安田喜憲氏によれば「江戸時代の日本では、(中略)厳重な森林の利用規制をしいた。『木一本が首一つ、枝一本が腕一つ』と言われ、山の木を盗んだ者は、即刻打首になった」という(前掲書二二三ぺージ)。これほど日本人は木を大切に育てていたのである。明治維新以降、日本人は西洋化し、自然環境もかなりの程度破壊してしまったが、それでも日本の森林面積は国土の七〇パーセントに上るという。この財産は日本人の自然観が残したものであり、大事にしていかなければならないと思う。
日本に来た外国人たち、ことに西洋人は日本に緑が多いことに驚嘆するが、日本の緑したたる美しい風景は単に日本が温暖な気侯帯に属するおかげで存続したわけではなく、日本人自身が長年にわたって守ってきたものに他ならないのである。
神道と仏教を融合した日本人
では、いったいなぜ日本人は古代から森を大切にするなど、自然との共生を重視してきたのか。その答えは今さら一言うまでもあるまい。
うっそう欝蒼とした森、見上げるような大木、あるいは山の奥から湧き出る泉、さらには巨岩ーこれらの自然物を日本人は古来聖なるものとして崇め、大切に扱ってきたからである。こうした聖なる場所にはかならずといっていいほど神社が造られ、山や森をご神体として信仰してきた。
といっても、こうしたアニミズム的な自然信仰ならば、日本に限らず古代世界のあちこちにあったものだから、特に珍しいというわけではない。だが、日本の場合、そうした素朴な自然崇拝に基づく神道が外来宗教である仏教と融合し、いわば「日本的神学」ともいうべき思想を産み出したところが異色なのである。
この神道と仏教の融合を理論的に正当化した考えを「本地垂迩説」と言う。
本来、インドから中国を経て日本に渡来してきた仏教には自然崇拝の要素はない。元来、仏教は人間に苦をもたらす原因となる「煩悩の炎」を滅して、悟りの境地に至ることを目的としているのであるから、あくまでも努力する主体は自分自身であって、自然の神聖さや霊性に頼るという思考は存在しない。もちろん、仏教の修行者の中には森の中、山の奥に籠もる人たちもいるが、それは自然の厳しさの中に身を置くことで自分自身を鍛え、物事に対する認識を変えようということであって、自然から「悟りをいただく」ということを目的としているわけではない。
したがって、キリスト教のように自然を積極的に征服せよと命じたりはしないものの、仏教においては自然崇拝の入る余地は本来、ほとんどないのである。
ところが、その仏教が日本に入ってきたとき、日本人は古代から伝わる神道と、仏教の思想を見事に融合してしまった。「本地垂迩説」とは、後で詳しく説明するが、分かりやすく言ってしまえぱ、「目の前の崇めるべき神がどんな姿形をしていようとも、それは本地仏の化身であるから、それを崇め、拝んでも何ら問題はない」という考え方である。
たとえば、伊勢神宮はアマテラス(天照大神)という太陽神を祀っているが、アマテラスの本地仏は大日如来である。あるいは、熊野本宮はスサノオを祀っているが、その本地仏は阿弥陀如来という仏である。つまり、神様を拝むことはそのまま仏様を拝むことにもなるというのが、本地垂迩の思想なのである。
よく言われることだが、日本人は正月には神社に参拝して初詣でをし、彼岸やお盆になればお寺に行って、先祖供養をする。そして冬になるとクリスマスを祝うーこのような日本人には本当の意味での信仰は存在しないのではないか、日本人は無宗教の民族なのではないかと昔からしばしば批判されてきたが、それはあくまでも表面的なものの見方であって、少なくとも仏教と神道の両立については、古来日本人はきちんと両立させる神学を持ってきたのである。
日本人には天上の神を唯一の神として崇める宗教はない。しかし、日本人は道端に生える草木一本一本にも神や仏の存在を感じ、人間は自然によって生かされているという独特の宗教観がある。「ありがたい」「もったいない」「いただきます」といった日常使う言葉はもとはすべて仏教で使われていた。日本人は特定の神を信じているかどうかという点では「無宗教」だが、全般的な宗教心があるかどうかという点になると、依然として世界で最も宗教心のある国民なのではないだろうか。
私が尊敬してやまなかった心理学者の故河合隼雄先生は、「カトリックはパートタイム宗教、日本の宗教はフルタイム宗教だ」とよく冗談を言っておられたが、その意味するところは、「カトリック教徒は月曜から土曜までは好きなことをして、日曜日になると教会に行って俄悔をすれば許してもらえる。だから、彼らが敬慶な気持ちに浸るのは日曜だけ」「しかし、日本人は四六時中、ごちそうさま、ありがとうと言い、道端に小さな神社やお地蔵さんがあるととっさにお祈りをしている。日本人にはそういった日常化した宗教観があるLということであった。
考えてみれば、二一世紀にもなって、何百万、何千万人という人が正月になると初詣でに出向くということ自体、先進国では異常なことである。日本人に宗教心がないというのはとんでもない間違いなのである。(P216〜P224)
(私のコメント)
小沢民主党幹事長の発言は、全日本仏教会の会長との会談の後の発言ですが、キリスト教批判はなかなか厄介な問題です。キリスト教はヨーロッパの歴史を見れば分かるように、戦争に次ぐ戦争の歴史の元を作ってきたのであり、キリスト教布教の名の下に侵略行為を正当化する手段に使われてきた。
キリスト教徒から見れば異教徒は人ではないのであり、家畜のような殺傷の対象とされてきた。スペインによるインカ帝国への侵略はインディオへの殺戮の歴史であり、異教徒に対する殺戮は新大陸のみならず、アジア、アフリカ、オーストラリアで行なわれてきた。日本が辛うじて彼らの侵略から逃れる事が出来たのも、武力で対抗できるだけの力が有ったからですが、秀吉や家康はキリスト教の恐ろしさを見抜いて鎖国した。
キリスト教徒たちは日本人を奴隷として世界に売り飛ばしていましたが、宣教師までもが奴隷商人の仲介役となっていた。学校の歴史ではこのような事は教えられていないが、秀吉の伴天連追放令の中にも日本人奴隷売買を禁止する条項があることからも明らかだ。しかし学校の歴史で教えられるのは島原の乱などのキリシタン弾圧だ。
キリスト教宣教師にとっては日本は悪夢の地であり、明治や昭和の時代に入って多くの宣教師がやってきてもキリスト教徒は1%にも満たない。キリスト教と日本人とは相容れないものがあり、それが障害になっているからだろう。それは先祖崇拝であり、キリスト教の先祖に対する扱いが日本人とは相容れないからだ。
◆キリスト教は他宗教に対してきわめて攻撃的だった反面、権力には従順そのものだった。布教のためには権力を肯定し、これに接近した。2009年9月23日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/be82ad28518b9a7b3005ce42311483c1
◆日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか? 2006年1月27日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
◆一神教の克服は、単にアラブとイスラエルとの問題ではなく、人類全体にとっても、今後の最大の問題ではなかろうか。 2006年7月31日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/m/200607
◆キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種 2007年6月8日 株式日記
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/50f9a930c5345c9ac36eda5f6fb41310
◆キリスト教はローマがユダヤ人排斥の為に作ったもので、ブッシュ大統領はハルマゲドンを信じている 2004年8月24日 株式日記
http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/804.html
株式日記もいろいろとキリスト教について書いてきましたが、アメリカ人やヨーロッパ人の行動様式や精神文化を理解する上ではキリスト教の事を知らないと理解できない。アメリカ人が日本に原爆を落とす事ができたのも日本人がキリスト教徒でないために、原爆を用いても倫理的な非難を浴びないからだろう。キリスト教原理主義から見れば日本人は聖書に載ってはいないから人ではないと言う狂った理屈が成り立つ。
広島長崎への原爆投下も、有色人種への見せしめといった意味も有るだろう。しかし原爆の使用が後世にどのように批判の対象となるかをアメリカ人大統領は考えてはいなかったようだ。初の黒人大統領であるオバマは核兵器の廃絶をプラハで演説してノーベル平和賞を貰いましたが、アメリカ人は広島長崎への原爆投下への原罪に苦しめられるだろう。
小沢幹事長のキリスト教を批判する発言は、熱心なキリスト教信者であるアメリカ人を怒らせるかもしれない。しかしキリスト教は悪魔の宗教でありボーンアゲインのブッシュ大統領はハルマゲドンを信じて中東で大規模な戦争を開始した。このようなアメリカ人の狂気を止めなければなりませんが、オバマ大統領でも止められないだろう。
イスラエルが建国されてヨーロッパが統一されたと言うのは、今まさに、携挙の預言が実現する舞台装置が、整っているのです。ハルマゲドンが聖書からあちこちから切り取って作られた作り話であることは明らかなのですが、アメリカのキリスト教原理主義者はそれを予言として信じている。このようにしてみるとアメリカの福音派のキリスト教はオーム真理教と変わりがない。
日本は古くからユーラシア大陸やポリネシアなどからの人々が流れ着いてきた場所であり、土器や稲の伝来も仏教や儒教の伝来も日本が終末地点になる。日本の東は海になるからまさに終末点であり、文化や宗教も混ぜ合わせて成り立ってきた。だから神様もいろいろであり多神教だからすべてを受け入れる事ができる。それに対して一神教は大陸の宗教でありやるかやられるかの生存競争が生み出してきた宗教だ。
ブッシュ大統領は聖戦を訴えて21世紀の十字軍を中東に送った。小泉首相もそれに答えて自衛隊をイラクに送りましたが、日本人が何でアメリカ人の信じているハルマゲドンに付き合う必要があるのだろうか? イエスの再臨のすぐ後には、アンチキリストとその統一世界帝国を滅ぼすため、イエスの率る大軍勢が天から下って、壮烈なハルマゲドンの戦いとなるそうなのですが、日本人はバカバカしくてアメリカ人とは付き合いきれない。
アメリカ人やヨーロッパ人は自然を征服できると信じたのもキリスト教の影響だろう。中谷厳氏は資本主義の自壊を一神教思想に求めていますが、日本人は自然を神として崇拝していますが、キリスト教によれば自然は神が7日間で創ったと言う事です。だから進化論もアメリカの学校では否定されているそうですが、アメリカ人とはバカバカしくて付き合いきれない。ハルマゲドンに巻き込まれない為には日本に米軍基地は要らない。