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[CML 001986] 反戦の視点・その90 基地はいらない、どこにも (転載歓迎) 基地はいらない、どこにも 井上澄夫 はじめに ◆普天間基地とは? 沖縄には在日米軍基地が集中している。よく「全国の基地の75%が沖縄に集 普天間基地は沖縄島中部の宜野湾(ぎのわん)市にある。正確にいうと、米海 普天間基地は人口約9万2000人の宜野湾市のど真ん中に居座っている。市 ◆普天間基地問題の核心 先の説明でわかると思うが、宜野湾市民は、行政も住民もこぞって「普天間基 ところが同年12月に日米安全保障協議委員会でなされたSACO(沖縄に関 ◆沖縄の反撃からグアム移転協定まで しかし沖縄の人びとはいつまでも落胆していなかった。落胆は憤激に変わり、 辺野古の住民は1997年1月、「ヘリポート阻止協議会(通称・命を守る 那覇防衛施設局(当時、現・沖縄防衛局)が基地建設のための調査に強行着手 ただし「在日米軍の再編」という言葉は誤解を招きやすいので注意したい。そ ◆動揺する鳩山政権の沖縄政策と揺るがない「沖縄の総意」 しかし海上ヘリポート建設計画が頓挫したあと、日米両政府が打ち出した「キ さらにこれはぜひ付け加えねばならないのだが、日米両政府はウソをついた。 重ねて強調したいが、沖縄の人びとは「代替施設」を望んだのではない。沖縄 民主党は衆院選前、普天間基地の「県外・国外移設」を公約としてきた。それ これに対し米国政府は苛立ちを隠さない。1996年の橋本・モンデール「普 鳩山首相が本気で「対等な日米関係」をめざすなら、同等の立場で対米交渉を ◆問題の核心を改めて確認しよう 東京の都心で10月22日、沖縄の「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対 いかにも決起集会風の男たちの演説が多い中で、口ごもりながら語る彼女のス 私は海兵隊員たちを米国本土に帰還させ、十分なメンタルケアを受けさせ、人 【添付資料】略年表・「普天間移設問題」と北限のジュゴン ◆がジュゴン関連 ◆1955年 米軍統治下の琉球政府がジュゴンを天然記念物に指定 ※ 国際自然保護連合(IUCN)が日本政府に対しジュゴン保護を勧告するな 【付記】本稿は「北限のジュゴンを見守る会」のニュースレター『イタジイの森
http://list.jca.apc.org/public/cml/2009-November/001955.html
加賀谷いそみ QZF01055 at nifty.ne.jp
2009年 11月 10日 (火) 17:05:17 JST
反戦の視点・その90
──「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察──
沖縄のジュゴンが何頭いるのか、残念ながら、科学的に信頼できる情報はない。
しかし乱獲や魚網に引っかかる事故、生活廃水の垂れ流しによる藻場の減少、あ
るいは沖縄戦が残した不発弾の海中爆破などがジュゴンの生存をおびやかし、つ
いに「絶滅危惧種」という恐ろしいネーミングの対象になったことは疑いない。
それに加えて新たな米軍基地の建設がジュゴンを絶滅させようとしている。
しかしながら、連日、マスメディアに登場する「普天間移設問題」はとてもわ
かりにくい。鳩山政権の閣僚たちの発言が「日替わり」とからかわれるほどコロ
コロ変わるので、問題の本質が見えにくくなっている。鳩山首相、岡田外相、北
沢防衛相が相互に矛盾する発言を公然と繰り返し、鳩山首相は普天間基地の移設
先は「私が最後に決める」と強調するものの、閣内不一致と内閣の迷走ぶりが際
立っている。そこでそれらの奇っ怪な現象に振り回されず、落ち着いて頭を整理
してみよう。
中している」といわれるが、これは正確ではない。米軍が日本全体で占有する施
設の面積比で75%(74.4%)が沖縄に存在するということが事実であり、
基地の総数の75%が集中しているのではない。しかし面積では日本全体の0.
6%に満たない沖縄県に占有面積比ではあれ75%の米軍基地が集中しているの
は、いうまでもなく異常である(そのうえ沖縄県の中でもほとんど沖縄〔本〕島
だけに基地が置かれ、島の土地の18.4%が占拠されている)。だから「沖縄
の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」とよくいわれるのだが、
それは那覇空港から島の最北端の辺土(へど)岬まで、いや島の中部あたりまで
でもドライブすれば、誰でも否応なく実感できる。
兵隊宜野湾飛行場である。海兵隊は最前線で敵前に強襲上陸する殴り込み部隊で
あるから、苛烈な訓練によって人間性をまるで失わせられる戦闘ロボットの集団
である。だから戦地から沖縄に戻ると凶悪な犯罪を繰り返す。1995年9月に
少女レイプ犯罪を起こした3人の兵士も海兵隊員だった。イラク戦争で起きた
「ファルージャの虐殺」に沖縄の海兵隊が加わったことを全国紙などはほとんど
取り上げないが、実は2004年に沖縄から5000人の海兵隊実戦部隊がイラ
クに派遣され、そのうちの2大隊が虐殺に参加したのだ。「動くものはすべて撃
った」と兵士たちは証言している。
街地はドーナツの輪のように基地の回りにへばりつき、そこに住宅、病院、市役
所、商店、ホテル、幼稚園、小学校、大学などが密集している。基地からは武装
ヘリや輸送機が出撃し、しかも日々訓練をおこなうから、爆音が市民生活を脅か
し、事故発生の危険が身近に迫っている。実際、2004年8月には沖縄国際大
学に武装ヘリが墜落した。幸い死傷者は出なかったが、一つ間違えば大惨事にな
るところだった。さらにもっと小規模の事故は日常的に起きている。落下傘で降
下訓練中の兵士が風に流され、市街地に不時着するというような事故である。私
の友人の家は滑走路の端に隣接する地域にあるが、その家の窓からは離発着する
輸送機のパイロットの顔がよく見える。
地即時閉鎖・返還」を要求してきた。それは1972年の「復帰」前からずっと
続いてきた市民の悲願である。ここではっきりさせなければならないことは、宜
野湾市民が要求しているのは危険な基地の「即時閉鎖・返還」であって、「移転」
ではないということだ。米海兵隊の基地をどこかに持って行けということではな
いのだ。筆者が1996年に沖縄を訪れたときには、普天間基地の土地をほんの
一部だが返還させて建てられた佐喜眞(さきま)美術館に、普天間高校の生徒た
ちが作った模型が展示されていた。もし基地が返還されたらどういう街にするか、
みんなで相談して、基地跡に創りたい未来の街を模型にしたのだ。
先に触れた95年9月の少女レイプ事件は沖縄の人びとを憤激させ、島ぐるみ
の怒りが激しく燃え上がった。そこで当時の橋本首相はモンデール駐日米大使と
会談し、「普天間返還」の合意が成立した。事件の翌年、96年4月のことであ
る。その合意では、5年から7年以内に、沖縄にすでにある米軍基地内にヘリポー
トを移設し、普天間基地の一部機能を、極東最大の米空軍基地・嘉手納(かでな)
に統合することになっていた。つまり合意は既存の基地の外に新基地を作る話で
はなかったのである。
する特別行動委員会)の最終合意は「海上施設」案を「最善の選択」とした。既
存米軍基地内ヘリポート移設案などは姿を消し、普天間基地の「代替施設」を
「沖縄本島の東海岸に建設する」と決めたのである。その決定は、当時の池田外
務大臣、久間防衛庁長官、ペリー米国防長官、モンデール大使がおこなったが、
沖縄県民には一言の相談もなかった。完全に頭越しの日米政府間合意によって、
名護市キャンプ・シュワブ沖=辺野古沿岸域に海上ヘリポートが押しつけられる
ことになったのである(辺野古集落は沖縄島北部名護市の東海岸沿岸域にあり、
米海兵隊キャンプ・シュワブに隣接している)。
嘉手納統合案が消えたのは、米空軍と米海兵隊はもともと米軍内で張り合って
いて仲が悪く、米空軍が固定翼機(戦闘機)と回転翼機(武装ヘリ)が同じ滑走
路を共同使用することはできないとして統合案を拒否したからである。しかし新
基地建設に時間がかかることは誰の目にも明らかだったから、SACO最終合意
を知った宜野湾市民、沖縄県民はひどく落胆した。また基地の県内たらいまわし
か……。
憤激は反撃のエネルギーに転じた。
SACO最終合意で決められた「海上施設」は3つの工法が選択されることに
なっていた。(a)杭式桟橋方式(浮体工法):海底に固定した多数の鋼管によ
り上部構造物を支持する方式 (b)箱(ポンツーン)方式:鋼製の箱形ユニット
からなる上部構造物を防波堤内の静かな海域に設置する方式 (c)半潜水(セミ
サブ)方式:潜没状態にある下部構造物の浮力により上部構造物を波の影響を受
けない高さに支持する方式、がそれである。
いずれも辺野古沿岸の礁湖(沖縄の言葉でイノーという)を占拠する工法で、
自然環境を大規模に破壊することは目に見えていた。その美しい海は、太古の昔
から沿岸域の住民の生存と暮らしを支えてきた「命の海」でもあった。とりわけ
沖縄戦中・戦後の食糧難を海の恵みによって生き延びた人々は「海は命の恩人」
と語る。
会)」を結成し、命と暮らしを守るための行動を開始した。そして同年12月の
名護市の住民投票では海上基地建設反対が圧倒的多数を占めた。名護市民は日米
両政府に「海上ヘリポート建設 NO!」を突きつけたのである。防衛庁(当時、
現在は防衛省)は、反対する市民を切り崩すため、名護市に多数の自衛隊員を送
り込んで露骨な懐柔工作を展開したが、市民の意思は揺るがなかった。
だが日米両政府は住民投票の結果をまったく無視した。日本政府には沖縄を踏
みつけにして軍事的安全保障を図る国策を変更する気はみじんもなかった。日本
政府は比嘉鉄也名護市長(当時)に圧力をかけ、それに屈した彼は市民の意思を
踏みにじって基地受け入れを表明した。このあからさまな沖縄差別に対し、「命
を守る会」や、辺野古に隣接する大浦湾沿岸の住民団体「ヘリ基地いらない二見
以北十区の会」をはじめ名護市の市民団体や労働組合などで構成する「ヘリ基地
反対協議会」は、新基地建設を止めるための活動を展開した。
しようとした2004年4月以降、辺野古のおじぃ・おばぁたちやヘリ基地反対
協をはじめ「平和市民連絡会」など沖縄各地から駆けつけた人びとは辺野古漁港
近くでの座り込み、海上阻止行動などの非暴力直接行動を長期にわたって持続し、
2005年9月、ついに作業は中止された。これは新基地建設に反対する市民た
ちの鮮やかな完全勝利だった。
基地建設案は海上ヘリポート案からリーフ埋め立て案、さらに沿岸案へと変わ
っていくが、日米両政府がどこまでも辺野古にこだわったのは、米軍がベトナム
戦争中の1960年代からすでに辺野古沖をねらっていたからだった。2005
年10月、日米安全保障協議委員会が「日米同盟──未来のための変革と再編」
(以下「日米同盟」)という文書を公表した。それは1996年4月の「日米安
全保障共同宣言」を踏まえて「アジア・太平洋地域において不透明性や不確実性
を生み出す課題が引き続き存在している」とし「地域における軍事力の近代化に
注意を払う必要がある」ことを強調した。そして文書「日米同盟」が公表された
際の共同発表で「在日米軍の再編」が打ち出されたのである。
れは自衛隊の再編を伴いつつ、米軍の指揮下に自衛隊を組み込むことである。米
軍のみ再編するのではない。目的は日米両軍の一体化で、それは両軍基地の共同
使用に顕著である。その「在日米軍の再編」を急ぐため、日米両政府は2006
年5月、「再編実施のための日米のロードマップ」(以下「ロードマップ」)を
策定した。その内容は要するに、普天間代替施設を2014年までに完成すれば、
海兵隊約8000名とその家族約9000名をグアムに移転する、グアム移転費
用を日本政府が負担し代替施設を期限通り完成しないなら、普天間基地をはじめ
嘉手納基地以南の基地も返還しないという脅迫的なものである。それは「統一的
なパッケージ」と呼ばれ、徹頭徹尾、米国政府にとって有利な合意だった。
その「統一的なパッケージ」の実施をだめ押ししたのが、今年(2009年)
2月に突如日米間で調印された「グアム移転協定」だった。協定というと軽く聞
こえるが、それは条約と同等の国家間公約であり、最近、米国政府はそのことを
振りかざして日本政府に「協定」の履行を迫っている。
ャンプ・シュワブ沿岸域案」に対しても、新基地建設を阻止する抵抗は粘り強く
続けられた。同案はキャンプ・シュワブの敷地にまたがり、ジュゴンが回遊する
辺野古沖と、最近、巨大なアオサンゴの群生があいついで発見された大浦湾を埋
め立てて、V字型にそれぞれ1800mの滑走路を建設するというもので、名護
市民・沖縄県民が容認するはずはない代物だった。今年10月9日、辺野古漁協
近くのテント村での座り込みは2000日を迎えた。
海上ヘリポート案と現行案との違いでどうしても強調しなければならないこと
がある。海上基地案については、当時の稲嶺県知事と日本政府との間で「使用期
限15年」と「軍民共用化」が合意された。撤去可能な基地であることも強調さ
れた。だが現行案には使用期限はないし、民間航空の使用もない。米海兵隊の巨
大な新基地が辺野古に半永久的に固定されるのだ。
米海兵隊が辺野古の新基地にオスプレイを配備することは早くから指摘されてい
たが、日米両政府は一貫してそれを否定していた。オスプレイはヘリコプターの
ように垂直離発着ができ、しかも固定翼機のように長い航続距離を持つ最新鋭の
輸送機である。両翼のエンジンを傾けることができるティルトローター機である
が、無理な構造ゆえに、試作段階でも初期生産段階でも何度も墜落事故を起こし、
生産中止が度々検討されたいわくつきの機種である。そのオスプレイの配備が、
沖縄防衛局の環境影響評価(アセスメント)が行なわれたあと(!)、公表され
たのである。だからオスプレイがもたらす騒音はアセスメントの対象にならなか
った。そしてそのような基地の建設を日米両政府は「地元の負担軽減になる」と
うそぶいているのである。
の人びとが一貫して求めてきたのは「基地のない平和な島」であり、それゆえに
こそ普天間基地の「即時閉鎖・返還(撤去)」を切望してきたのだ。
ところが日米両政府はすでに見たように、ずるがしこくも、「返還」(既存米
軍基地内ヘリポート移設・一部機能嘉手納統合)を「代替施設の移転」にすり替
え、しかもそれをまた沖縄に押しつけた。「基地のたらいまわし」そのものであ
る。だから沖縄の世論は「県内移設反対」に凝縮されることになった。8月30
日の衆院選で沖縄4選挙区で自民党が全敗し、比例の九州ブロックでも負けた。
衆院選直後、当選した5人の国会議員はそろって「辺野古新基地建設反対」を表
明した。また昨年6月の県議選では自民・公明両党の支配を覆して野党が勝利し、
同年7月県議会で政府にあてて「名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する
意見書」が採択された。県議会でも衆院選でも「沖縄県民の総意」が鮮明に表明
されたのだ。
を具体的に以下紹介する。
▼鳩山由紀夫現首相 「(普天間の移設問題で)県民の気持ちが一つなら『最
低でも県外』の方向で行動したい」(09年7月20日、沖縄市の集会で)
▼岡田克也現外相 「『普天間』の県外、国外への移設実現を目指し、政治
生命を賭けて交渉したい」(05年8月25日、日本外国特派員協会で講演)
▼前原誠司現沖縄担当相 「海兵隊はいろんなプロセスを踏んで最終的に国外
に持っていく」(05年4月、沖縄タイムスのインタビューで)
念のために付け加えるが、同種の発言はまだまだある。さてその民主党は鳩山
政権成立後、公約を実現しようとしているだろうか。
北沢防衛相は就任後初めての沖縄訪問で辺野古のテント村で住民の意見に耳を
傾けることもなく、「県外移設は困難」と表明した。岡田外相も「県外は事実上、
選択肢として考えられない」と表明しつつ、「嘉手納統合の可能性を検討するし
か、残された道はない」と語った。これに対し鳩山首相は依然「県外移設」の可
能性に含みを残す発言をしているが、11月13日に予定されるオバマ米大統領
の来日前の決断は先送りするつもりのようだ。
天間返還」合意は「5年から7年以内」に実現するはずだったが、代替施設建設
は遅々として進まず、もう13年も経ったではないか、というわけだ。10月2
1日に来日したゲーツ米国防長官は、まるで植民地の総督ででもあるかのように、
辺野古案の早期実施を日本政府に強要した。その直後来日したマレン米統合参謀
本部議長も同様に振る舞った。だがそのような姿勢はアフガニスタン・パキスタ
ン侵略戦争の泥沼化(ベトナム化)でパニック状態にあることを隠すための虚勢
を張った猿芝居であるから、無視すればいい。米国政府の現在の苦境は、そもそ
もブッシュ前政権から引き続きオバマ政権でも国防長官の座に居座ったゲーツ自
身が招いたものなのだ。
米南部テキサス州のフォートフッド陸軍基地で11月6日(日本時間)に起き
13人が死亡した乱射事件は、2001年の〈9・11〉直後に始まり、ついに
9年目に入った「対テロ戦争」で米軍自身が疲弊し崩壊寸前の状態にあることを
いみじくも実証した。
堂々とおこなえばいいのである。オバマ政権がなお居丈高な態度をとるなら、日
米安保条約の破棄を申し出ればいいだけのことだ。そうすれば条約は自動的に失
効するのだから、それまでに全米軍が日本から退去することになる。
11月8日の沖縄・宜野湾市での県民大会(2万1000人が参加)から逃げ
て訪米した仲井真沖縄県知事は米議会や政府に「辺野古移設やむなし」を訴えて
回ったが、これほど時代が見えていない愚行は珍しい。仲井間知事とともに同じ
主張を声高に吹聴した松沢神奈川県知事は県民大会実行委員会から抗議されるこ
とになったが、まるで政府の閣僚気取りで沖縄を差別する振る舞いはもはや政治
犯罪という外はない。
する県民会議」が主催する「普天間基地の即時閉鎖と辺野古新基地建設の断念を
求める緊急集会」が開かれた。そこで「基地・軍隊を許さない行動する女たちの
会」の高里鈴代さんはこう語った。
〈先ほど鳩山首相の選挙区がある北海道に普天間の代替施設を移設すべきとい
う発言がありましたが、私はそう思いません。私たちが求めるのは普天間基地の
「閉鎖・返還」です。そこでピリオドを打ちます。普天間の代替施設をどこかに
持っていけばいいとは思いません。
今年、グアムで反基地の活動をしている各国の女たちが交流をおこないました。
そこでグアムの先住民チャモロの女性が過去約100年のグアムの歴史を語りま
した。米西戦争でアメリカが勝ってグアムは1898年、スペイン領から米国領
になりました。先住民は島の一角に強制収容され、広大な土地がブルドーザーで
敷き均(なら)されて米軍基地にされてしまいました。それから日本軍が占領し
た3年間を除いて、ずっと米軍統治が続いたのです。彼女の報告を聞いて貧困も
基地被害も沖縄とまったく同じだと思いました。ですから海兵隊員とその家族が
沖縄からグアムに移転するといっても、それで喜ぶわけにいきません。基地はど
こにもいらないのです。〉
ピーチは聴衆に問いかけ、論理的な思考を喚起する、異彩を放つものだった。集
会後、筆者は古い友人である彼女に「私にもグアムにチャモロの友人がいる。私
にとってはあなたの話が一番まともで、一番良い話でした」と伝え、しばし懇談
したのだが、本稿の読者はどう思うだろうか。沖縄県外の日本のどこかに移設す
ればいい、グアムは米国領だから大勢の海兵隊員らが移動するのは当然と考える
だろうか。
間性を取り戻させてから除隊させるべきだと考える。普天間基地は即時閉鎖し、
米軍が土壌汚染を除去した上で返還させるべきである。「アジアや中東への米軍
の出撃拠点」をたらいまわしすることは、沖縄県内はむろんのこと、県外でも許
されない。いらないものはいらないのだから、なくせばいいのである。軍隊が住
民を守らないことは、沖縄戦での余りにも悲惨な無数の体験記によって十分実証
されているではないか。
最後にもう一つ指摘しておこう。在日米軍は「日本の安全保障」のために存在
すると日本政府はいう。だがそのために、沖縄は戦後64年間も犠牲を強いられ
てきた。しかも沖縄は「日本の安全保障」の体制からはずされている。戦争にな
れば米軍基地と自衛隊基地が集中する沖縄が真っ先に攻撃されるからである。こ
んな割りの合わない事態に目をつぶっていていいわけがない。
1965年 米海兵隊の新たな飛行場適地を米軍が調査、辺野古沖が候補地に
挙げられる
◆1972年 「復帰」の年、日本政府がジュゴンを天然記念物に指定
1995年 9月 米海兵隊員3名による少女レイプ事件起きる
10月 島ぐるみ抗議の県民総決起大会
1996年 4月 橋本・モンデール会談で5〜7年以内の「普天間返還」を
合意
12月 SACO最終合意で沖縄〔本〕島東海岸の「海上施設」案
を決定
1997年 1月 辺野古住民が「命を守る会」を結成
12月 名護市住民投票で海上基地建設反対が圧倒的多数を占める
◆1998年 テレビが名護市の東海岸でジュゴンが遊泳しているのを撮影
し放映
1999年12月 名護市長が「海上施設」の辺野古地区受け入れを表明
・この年、「北限のジュゴンを見守る会」発足
◆2004年 日本自然保護協会と那覇防衛施設局がジュゴンの食跡(はみあと)
を確認
2004年 9月 那覇防衛施設局による辺野古沖ボーリング調査が始まる・
阻止行動開始
◆2005年 環境省がジュゴンの7時間の回遊を確認
◆2005年と07年、報道機関がジュゴンを撮影
2005年 9月 那覇防衛施設局が基地建設のための調査中止、建設阻止派
勝利
10月 日米両政府が「日米同盟:未来のための変革と再編」を策
定
2006年 5月 日米両政府が「再編実施のための日米のロードマップ」を
策定
2009年 2月 日米両政府が「グアム移転協定」を締結
7月 民主党が沖縄政策で「県外・国外移設」明記
8月 衆院選で政権交代→鳩山連立政権発足
10月9日 辺野古テント村の座り込み2000日に達する
◆2009年10月 沖縄県アセスメント審査会が知事への答申でジュゴンの
「複数年調査」を要求
ど、北限のジュゴンへの国際的な関心が高まっている。(年表作成:井上澄夫)
に抱かれて』第33号(09年11月7日発行)への寄稿に若干加筆したもので
ある。本稿の執筆にあたって、沖縄現地のジュゴン調査グループ「チーム・ザン」
の浦島悦子さんと「北限のジュゴンを見守る会」代表の鈴木雅子さんの協力を得
た。特に辺野古現地を含む沖縄の人びとの抵抗の歴史については、浦島さんから
多大のご教示をいただいた。お二人に深い謝意を表明する。