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http://eisaku-sato.jp/blg/2009/11/000024.html
2009年11月 8日
経産省からの保安院の分離とプルサーマル推進は全く別の問題である【1】
1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料会社JCOで臨界事故が起きた。
バケツでウランを扱うというお粗末な原因で複数の死者、そして周辺住民の被曝者もでた。
喧伝される「安全神話」の裏で実は何が行われているか、その実態を示す最悪の例となった。
事故当初、臨界事故の何たるかや、中性子の危険性を知らないマスコミのヘリコプターが上空で取材している様子が、ヨーロッパの人々の失笑を買っていたのを覚えている。
当時原子力安全委員会委員長代理として、現地で対応に当たったのが住田健二氏である。
事故から10年という区切り、9月24日付の朝日新聞で「1度はっきり発言しておかなければ後悔の念を残してあの世へ行くことになる」として、「原子力行政」というコラムに以下のような意見を執筆された。以下一部引用する。
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今こそ推進と規制の分離を
(中略)
推進と規制の分離は原子力行政の基本で、国際的な常識だ。原子力安全条約(1996年発効、54カ国締結)に名を連ねる主要国のほとんどが実現している。しかし、日本ではいまだに実現できていない。
原子力発電所の安全審査ひとつをとっても、日本で審査を担う原子力安全・保安院は、推進機関である経済産業省の傘下にある。そして保安院の審査の結果を首相の諮問機関である原子力安全委員会が二重にチェックするという体制が続いている。
原子力行政に関わる人々は推進と規制を両手に抱えながら頑張ってきたが、その結果が事故やトラブルの多発だった。正直に言って、今の体制の転換無しには、原子力利用への国民の支持を確保することはもう困難になってきている。
(中略)
推進と規制の分離を形だけのものにしないために、あわてず、決めつけず、現実を見つめて、じっくりとその第一歩を踏み出してほしい。
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上記のコラムについては友人から「貴兄の『知事抹殺』と全く同じことが書いてある」とFAXで知らせられた。
福島県は事故の前年、4つの条件付でプルサーマル実施の事前了解を決めていたが、その条件の一つ「国民の理解」がこの事故で吹っ飛んだとしてその了解をペンディングにした。
さらにJCO事故の3年後の8月29日、保安院が東電の社員からの内部告発を適切に処理せず東電に知らせた問題が明らかになり、国の原子力政策に対する不信感が一挙に高まった。福島県は勿論プルサーマルをも白紙撤回した。
その問題に対して、原子力安全委員会の松浦委員長(当時)は、安全の管理に責任を持つ当事者であるにも関わらず、「足をすくわれる思い」という気の抜けたコメントを述べたので我々の怒りに益々油を注ぐことになった。
私は10月に入り委員長に会って「足をすくわれる思いは住民が言う台詞である。安全を守る委員長が足をすくわれていては我々は如何すれば良いのか」と怒りをぶつけたのを覚えている。
当時の副委員長で最前線を担当された住田氏の言葉の意味は大きい。
委員から離れた現状でもこのようなコラムを書くことは勇気がいることと思う。しかし後の数々の問題を知っている私としては、当時「副委員長」としての立場で問題提起をしてくれていれば、より実効性のある提言となっていたのではないか、という思いは残る。今の現役の関係者にも住田氏のように考えている方々が少なくないのではないか。
石原東京都知事は私が知事をしていた当時、原子力産業会議で「東京湾に原子力発電所を作っても良い」と発言していたが、一般の都民の前、オープンの場では、そのような趣旨のことは決して言わない。
何故かは、考えるまでもない。いかに電力会社、経産省が宣伝しようとも、原子力発電所はまだまだ安全に関して未知の世界であり、一度大事故が起これば、その一帯は立ち入ることすらできない廃墟になるからである。
そしてチェルノブイリを対岸の火事としてみていた日本人もJCO臨界事故を通して危険性を肌で実感しているからである。
環境問題、CO2問題と関連して、原子力発電が環境を守る技術であるかのようにPRされているが、それは事故が起こりえない体制なくして全く説得力を持ち得ない。
住田氏の危機感は、現状が決してそうなっていない、という原子力業界内側からの叫びであろう。
先月10月31日付福島民報紙上で福島県は「原子力安全・保安院の経済産業省からの分離問題をめぐって保安院と初めて議論した。」と報じられた。
そして「安全規制機関としての独立性を確保する観点から県が分離を強く求めたのに対し、保安院側は体勢に問題は無いとの認識を示し平行線をたどった。」
直接の当事者が「問題ない」と評価している、問題点はまさにここに集約されている。
経産省が安全性にお墨付きを与えたものに、経産省配下の保安院が「問題あり」ということは不可能に近い。日本の役所、役人とはそういうものだ。
私が知事であった当時「原子力保安院ではなく推進院」と揶揄したように幾ら屁理屈を付けようと世界的な潮流でも組織の安全をつかさどる場所と推進をつかさどるところは分離するのは当然のことだ。
新聞紙面では「県は県内原発へのプルサーマル導入の是非を含め原子力政策のあり方を検証しており、保安院の分離問題が改めて大きな焦点として浮上した。」と続いていたが保安院の分離と、プルサーマルが関連づけられて報じられていることに強い違和感を覚えた。
安全管理の問題としての保安院分離と、エネルギー政策全体の中に位置づけて評価する必要のあるプルサーマルの問題は全く別に考えなければならない。
つづけて次稿に論じたい。