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マルクスは個別的諸資本総体の平均的利潤率を、したがって資本制社会における”経済余剰”の趨勢を、
P'=m/(c+v)=(m/v)/(c/v+1)
ととらえます。ここで、P’は平均利潤率、mは剰余価値、cは不変資本、vは可変資本です。
きわめて簡単なモデルです。
そして、彼は平均利潤率は限りなくゼロに近づくという経路たどるだろうと予測する。
資本論第3巻第3篇でそう述べている。
これには、次のような前提がある。
1.資本制社会は「搾取」を原理とし、基礎とする社会的経済システムである。すなわち、資本家は生産手段をもたない労働者からその労働能力を買い入れ、その能力を可能な限り使い尽くすことによって、つまり労働者に労働させることによって剰余価値を含む商品を生産する。
ここで資本家とはG-W-G'、増殖する価値の運動体という資本の運動の内容と意志を体現する人格とされる。
また「搾取」とは、雇い入れられた労働者に資本家が支払う価値を超えて生み出される価値(剰余価値)が、資本家に、すなわち労働能力という商品を買い入れ、それを自由に消費する権利を制度的に与えられたの資本家に帰属するという資本制社会に特徴的な事態をさす。
2.資本制社会でも様々な有用労働の生産力(生産性)は増大する。そしてそのことは剰余価値率の上昇をもたらす。あるいは資本の生産過程は「相対的剰余価値の生産」によって特徴づけられる。だが、
3.資本家的生産は、1.にみるような「搾取」のシステムであることからっして、2.にいう労働生産の引き上げは、生産過程における資本家の労働者に対する支配が可能であり、またこの支配を強化するやり方で実現される。
たとえば、資本の生産過程が熟練労働者によって担われるなら、資本の生産過程の遂行はそれだけ労働者の意志に依存することになる。つまり資本家の生産過程における労働者に対する支配力は脆弱なものとなる。だから、資本家は、生産手段、とりわけ機械などの改良・改善によって、労働者の熟練を解体し、複雑労働の単純労働による置き換えを推進する。だから資本の生産過程は、協業を前提とする、熟練労働の解体、単純労働が担う”工場内分業”の進展によって特徴づけられる。
4.3.に規制されて、資本制社会における労働生産力の発展は、資本の有機的構成(c/v)を引き上げる傾向を持つ剰余価値の再投下、すなわち資本蓄積によって実現される。
つまり、資本制社会における経済余剰の社会的生産への再投入である資本蓄積は、一方ではさまざまな有用労働の生産性を引き上げ、剰余価値率(m/v)を引き上げ、したがって社会の総個別資本の平均的利潤率を引き上げる傾向をもちながら、同時に他方では、有機的構成c/vの高度化を通じて同利潤率を圧迫するモメンタムとなる。
5.上記のような経済余剰と労働生産性との関連は、資本制社会の一定の期間は、労働生産性の上昇、したがって「相対的剰余価値の生産」に寄与し、あるいは総個別資本の平均的利潤率の上昇を実現することがあったにしても、その傾向が永遠に続くわけではない。「搾取」のシステムであるが故に、資本の有機的構成の高度化を伴う資本蓄積によって労働生産性の上昇を実現するしかない資本家的生産様式にあっては、いつかは平均利潤率の低下傾向が現れてくる。
マルクスの資本の生産過程または資本制社会に対する見方はざっとこのようなものである。このような理論(仮説)がわれわれが目にする資本制社会の現実をけっこううまく説明していることは明らかであろう。会社が、あるいは地域社会の経済が成長するには新しい機械が、その他の設備こそが必要だ、と言う考え方は、今の時代でも企業経営者のあるいは労働者にとっても常識であろう。
が、果たしてそうなのであろうか?
すなわち企業や、地域社会の経済的成長の方途としては、労働の客体的条件である機械、設備の改善/改良だけであろうか?
そうじゃないはずだ。労働過程の主体的条件である労働者または生産者そのものの能力を高めることも、労働生産性の上昇に寄与することは、経験的にも明らかではなかろうか?
そして今は、日本社会の経済的安定、成長を考えるときには、設備ではなくむしろ労働者・生産者の能力の発展の方にむしろ目を向けるべき時じゃなかろうか?
労働者がその労働能力を高めていくことによる労働生産性の上昇は、財サ−ビスの生産過程における「資本家」と「労働者」との関係の変更を必要とするかも知れない。
が、今の日本社会には、そのことが求められているように思われる。
中国や韓国やASEAN諸国においては、着実に産業構造の高度化、工業技術の発展あるいは労働者の知識、技術・技能の高度化による高付加価値財生産へ移行が必ず進展する。そのとき、漫然と現状に手をこまねいていたのでは、日本企業、特に中小企業はますますその世界市場におけるあるいは国内市場における製品シェアを奪われてしまうことになりかねない。
日本社会においても生産設備の改善だけではなく、むしろ労働者の知識、技能の高度化こそが必要である。有能な労働者・生産者を育てるための社会的投資が必要である。それを惜しんではならない。
それによってこそ、「筋肉質の日本経済」が実現されるのではなかろうか。
経常収支が黒字のうちは国債残高の増加をおそれる必要は、さしあたっては存在しない。それについては大戦直後のアメリカ、その国債管理策を含むマクロ経済政策が参考になる。長期国債金利が上がるようなら日銀が買い取ればよい。ただし、その場合には市場にとって説得的な中長期的な経済成長戦略と、中長期的な財政健全化政策が必ず前提されなければならないだろう。