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>生産されたモノを消費すべき人間が忽然と姿を消してしまう。
>生じるのは、消費からの総退却である。
消費性向の高い層に、しっかりカネを流すような仕組みを
徹底的に作らなければ、永遠にこの問題は解決できない。
菅副総理と亀井大臣のラインで、きっちりと「財政再建原理主義者」を打ち破ってもらいたい。
行政刷新会議も、肝心の特別会計に、さっさと切り込めよ。
まだまだ、山ほど、埋蔵金があるはずだ。
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年越し派遣村 柿本昭人 : 2009年01月07日
http://policy.doshisha.ac.jp/keyword/archives/2009/01/post_47.html
ほんの半年前、問題になっていたのは「日雇い派遣」だった。
法令違反、低賃金、労働災害、求職活動の余裕無し。
だが、年末年始のニュースの時間のたびに目にすることになったのは、
「派遣切り」で仕事と住まいを失ってしまった大量の「元派遣労働者」の人々である。
日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」は当初の想定を越えた人々が押し寄せ、
パンク状態に陥ってしまった。
ソフトウエア開発などの専門13業務に限定されて労働者派遣法が施行されたのが1986年。
1996年には26業務に拡大、
1999年には「原則自由化」がなされ、
今回の大量の「派遣切り」へとつながる製造業への派遣解禁が行われたのが2004年のことである。
製造業の国際競争力維持を目的に導入されたはずの、
製造業への派遣解禁だったはずである。
昨年9月の「リーマン・ショック」のさいも、
「バブル崩壊後、日本の企業は筋肉質となっており業績の悪化は限定的だ」と政府も、
経済アナリストたちも、日本の製造業にお墨付きを与えていたはずである。
世間の耳目を集めているのは、その落差からなのか。
「派遣切り」はイレギュラーな事態ではなく、
2004年の製造業への派遣解禁が道を開いた「本来的な」事態であろう。
必要なときに雇い、必要でなくなったら、
労働者派遣法施行以前のような物理的・心理的コストなしで「雇用調整」すること。
人材の「ジャストインタイム」化の発露であろう。
だからこそ、「ジャストインタイム」生産方式のご本家が、
大量の「派遣切り」の範を垂れ、
他の企業も「ご本家がそうなだから、うちも……」と後に続いたのである。
先月初旬の「世界的な景気の急激な落ち込みによって、
苦渋の選択として雇用調整が行われている」と仰る経団連会長の発言は、
事態を不正確というか、正反対にトレースするものである。
いや、瞞着でさえある。
1月5日、総務政務官である坂本哲志議員は、総務省の仕事始めの挨拶で、
「年越し派遣村」について、こう述べた。
「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」。
翌日彼は発言を撤回するが、
大した反対もないしに製造業への派遣解禁が行われたときの
一般の風潮そのものである。
そして、それはなにもそのとき初めてというわけでもない。
「山谷」「寿」「釜ヶ崎」等の寄場にも繰り返し、
「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」
という眼差しを人々は向けてこなかったか。
あるいは「途上国」にも。
"That you were less than human, so it didn't matter."
-- Kazuo Ishiguro, Never Let Me Go (2005)
投資ファンドの跋扈を前にして、
人々は「カジノ資本主義」という言葉を思い出した。
スーザン・ストレンジが同名の著作を世に出したのは随分と以前の1986年である。
ところが、「実体経済」の側も、
それに負けず劣らず「ネズミ講」並であることも、
我々は今一度思い知っておくべきであろう。
「人間以下」の者として上前がはねられて、
上納金が吸い上げられている限りで作動を継続するシステムである。
「私を離さないで」と
「人間以下」の者として扱われないように、
押し合いへし合いをしているうちに、
「人間以下」の者の比率が一定の閾を越え、
その途端に、生産されたモノを消費すべき人間が忽然と姿を消してしまう。
生じるのは、消費からの総退却である。