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世界のどこでも五輪はダメ コペンハーゲンでNO!の訴え 十月二日、デンマークのコペンハーゲンで開催されたIOC総会で、二〇一六年のオリンピック開催地はリオデジャネイロに決まり、石原都知事が招致に全力を上げた東京は落選した。東京にオリンピックはいらないネットは四人が現地に出向き、反対キャンペーンを行った。小山和久さんに話を聞いた。(編集部) 反対の声を届けるために ――十月二日、コペンハーゲンで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)の総会で二〇一六年のオリンピック開催地がリオデジャネイロに決まり、開催地に立候補していた東京はめでたく落選しました。「東京にオリンピックはいらないネット」からは小山さんや福士敬子都議を含めて四人がコペンハーゲンまで出かけ、反対の働きかけをなされたのですが、向こうでどういう活動をされたのですか。 その前にまず向こうでやりたかったことを言うと、投票権を持っているIOCの人たちに、五輪開催に反対している人が東京からきているんだぞ、ということを見せたかった。IOCへの手紙も準備してきたので――四回目の手紙になるのですが――それも渡しかったんです。もう一つはコペンハーゲンの市民たちにも反対運動もちゃんと来ていることを見せたいと思いました。さらの他の開催招致都市から来ている反対運動をやっている人との交流もやりたかったことです。 ――交流について、もう少し突っ込んでお聞かせください。 IOC、つまりオリンピックそのものがいらないという交流ができたらいいね、と考えていたんです。もちろん東京にもいらないということを実現したかった。実際どうだったかといえば結果はご覧のとおりですが、目的であったIOCへの働きかけでは、会場のベラセンターは野っ原にある見本市会場のようなところで、周りの住民がいるわけでもないし、大きな企業のオフィスがあるわけでもない。一回そこに行ってみたのですが、ここではやってもしょうがないし、ましてオバマが来たりして当日はすごい警備になるので、十月二日にそこで行動をするのはやめました。 ――横断幕やチラシで訴えたのですか。 一回目はチラシですね。その時にIOCの警備の関係者にIOCへの手紙を渡しました。 シカゴの活動家との交流 ――向こうのスタイルを学んだとは? 彼らは運動を発足させてから一年もたっていないんです。発足当初はIOC、オリンピック・ムーブメント自体がナンセンスという運動と一緒に立ち上げたのですが、途中で方針転換したんです。「シカゴにはいらない」に力点を移さないと成果が得られないと判断したんです。 ――何か東京とは逆みたいですね。「東京にはいらない」から「オリンピックはいらない」になったんですから。 そうです(笑)。それはこのままではシカゴになる可能性がかなり高いというリアリティーの違いが大きいですね。僕らは東京に来る可能性はあまりないというところから始めたからかもしれません。彼らはだから徹底的にIOCへのアプローチを中心にするのと「シカゴにはいらない」「シカゴにはこれほど問題がある」「財政負担がこれほど大きい」というところで世論作りに頑張ったということですね。 ――意見をお互いにすりあわせたということですが、どういうところで共通性や違いがあったんでしょうか。 僕らが「オリンピックはいらない」という立て方でやっていることは素晴らしいが民主主義は多様であっていい、だから一緒に行動することは考えていない、という意見でした。 ――つまり東京の人たちとシカゴの人たちがいっしょにやる必要はない、ということですか。 そこに意味を見出さないということですね。 ――いっしょにチラシを撒くこともしない、と。 そう。十月一日に彼らの泊まっているホテルに行ったとき、一人はネット、電話でIOCの窓口とコンタクトを取り続けている。もう一人、二十代後半の若者は外へ出ていく。彼と一緒にIOCのセンターや会場のベラセンター、コペンハーゲン市庁舎前のイベント広場などを歩いたのですが、自分たちの知っていることは提供するけれど独自でやっていくというスタンスですね。 ――シカゴの人たちは横断幕を広げるというようなことをしないわけですね。 しません。ビラまきもしない。そんなことに意味を全然見出していないのです。コペンハーゲンでやることは、徹底的にIOCへのアプローチとプレス対応に限定していました。 「従軍記者」と同じ報道陣 ――日本人のプレスとの接触はなかったのですか。 こっちは積極的に試みたのだけれども全然会えない。市が提供したプレスラウンジには日本人のプレスはほとんど来てないんです。とにかく招致委員会にひっついてまわっていて従軍記者みたいなものですよ。あとはIOC総会の会場の中だけです。市中やイベント広場に出ているのは日本以外の国のプレスばかりですよ。 ――テレビの映像で見たかぎり、冬季五輪を長野に招致した時は、IOC総会の現地に行って揃いの衣装で宣伝をしていました。今回はそういう活動をしなかったのでしょうか。 東京の招致委員会は応援団の飛行機を一機仕立てているんです。結局そこに応募したのは一次締め切りで七十人ほどしか集まらなくて、締め切りを延長して都の職員が自腹で行け、ということになった。それから関係業者がかなり集めたんでしょう。二百何十人集めたみたいだけど、そうした人たちは当日は市庁舎広場の大きなスクリーンがあるところに行くわけです。 五輪運動研究者との対話 ――コペンハーゲンの人たちは、自分のところにオリンピックが来るわけではないから、関心がなかった、ということでしょうか。 オバマが来ることには関心はあったでしょう。もともとコペーハーゲンは人口が百万人ぐらいで、観光やイベントで成り立っているので、そのイベントの一つがIOC総会だったということでしょう。 ――各国の元首級が来るわけだから警備の状況はかなり厳しかったのでしょうか。 あまりそんなことはなかった。市庁舎前の広場でも横断幕を広げたんですよ。しばらく横断幕を広げてビラを撒いていたんだけど、何やら向こうの方で相談していて、あれは排除した方がいいだろうということで近寄ってきて、示威行動には一カ月ないし二週間前に許可が必要なんだと言われました。それ以外は、例えばIOCのホテル前でやっていた時にも道路の反対側でやれと言われただけだし。 ――コペンハーゲンから帰国する時に石原都知事と会ったと聞きましたが。 ええ。十月三日に僕らが帰る便の少し前に、チャーター便の羽田行きがあって、その時に石原が一団の中にいました。それで「石原さん」と声をかけたらサポーターだと思ったらしくニコニコして近づいてくるんです。そこで「オリンピック招致をやめてください」「責任を追及しますよ」と言ったら、離れていきましたけど。 闘いの蓄積が効果を発揮 ――シカゴも東京もめでたく一、二回目の投票で落ちたわけですが、今後の運動についてはどう考えますか。石原は二〇二〇年にまた挑戦すると言っているようだけど。 ここでしっかり叩いておく必要がありますね。使ってきたお金の処理をはっきりさせればオリンピック招致とは何だったのかが、より分かりやすくなると思います。招致のために百五十億円使っており、うち五十億円をNPO法人の民間資金で調達するとなっています。調べていくとそこには都の職員の人件費などは盛り込まれていない。そこから見ていけばすでに二百億円を超しています。そこを追及したい。 ――東京が落とされた最大の要因は何だと思いますか。 開催都市はIOC側の都合で決められていると思います。名乗り出た都市の優劣はそれほど影響していない。IOC側に考慮させる唯一の要因は、どれだけ支持されているかという世論でしょう。ホテル、会場、アクセスなどはあまり関係ない。名乗りを上げた都市を選ばせないのは世論ですよ。市民としてできることは世論をいかに作っていくかです。いかに盛り上げさせないか、IOCの問題、オリンピックの問題点をどれだけ伝えられるかです。そこにかかっています。 ――そういう観点からすれば、来るなという運動が世論を盛り上げさせない効果があったと思いますか。 僕はあったと思います。私たちの運動は単に東京だけの運動ではなかったと思うんですよ。オリンピックは金がらみだよね、利権がらみだよね、という印象を作ってきたのは長野の運動であり、招致活動をやったけど財政破たん寸前のところまでいった大阪での運動の積み重ねであり、問題点を運動の側がしっかり指摘しているからこそです。東京でもそういうことを言ってきたことが効いてきたと思います。 |