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戦後の日本を背負い続けてきた自民党。清濁あわせのみ、高度経済成長を駆けぬけた。昭和から平成へ。バブルの後、右肩上がりの時代が終わる。富の「再分配」から、政策の「優先順位」が求められる21世紀まで、なんとか延命した。しかし、300議席という「生命維持装置」も、ついに期限切れとなった。2009年夏、自民党の終幕が始まった。
終焉前のドタバタ劇は醜かった。
3人の首相が国民の信を問わないまま政権をたらい回しにした揚げ句、9月の任期満了を目前にようやく総選挙へ。新党日本の田中康夫代表は、「ミーイズム解散」と名づけた。
ミーイズムとは、自分の幸福や満足を求めるだけで他に関心を払わない「自己中心主義」のことだ。解散権を行使したいがためだけに居座った「ジコチュー宰相」こそ、終わりゆく自民党の象徴だった。
その麻生太郎首相を選んだのは自分たちなのに、「このままでは戦えない」と引きずり下ろしかけて腰砕けになった重鎮たち。中川秀直、武部勤の両元幹事長に加え、政権ナンバー2の与謝野馨氏の腑抜けぶりが際立っていた。
安倍内閣で官房長官、福田内閣で経済財政相、麻生氏に対抗して総裁選に出馬したものの敗れると、請われるまま麻生内閣で財務・金融相。それなのに、与謝野氏は「解散の詔書」への署名拒否をにおわせ、「南北朝だ」と息巻いた。しかし、最終局面で踏み切れなかった。
東京都議選で地元・東京1区内の自民党議席を半世紀ぶりに失う背水の陣。もはや自分のことしか考えられなくなったのだろう。
民意不在。「自民党の、自民党による、自民党のための」内紛劇は断末魔の叫びなのか。いったい、こんな自民党にだれがした──。
1955年以来、自民党は、1年に満たない細川、羽田両内閣の連立政権時代を除いて政権を担当してきた。右肩上がりの時代、首相が輩出する派閥が党内で入れ替わる「疑似政権交代」が、国民の不満を吸収する装置として働いた。
しかし、もはやその機能は失われた。2000年から、政権を担ったのは非主流だった「清和会」(森派、町村派)。4代続けて同じ派閥が君臨する例は過去にない。それは終焉へのカウントダウンでもあった。
そもそも清和会に首相のポストが転がり込んできたのは偶然だった。「冷めたピザ」と揶揄された小渕恵三・元首相が脳梗塞で倒れた00年春、青木幹雄、森喜朗、野中広務、村上正邦、亀井静香各氏の「5人組」が赤坂プリンスホテルに集まり、森氏を後継首相に決めた。
しかし、棚ボタ総理は、不透明な密室談合での就任経緯も説明せず、「神の国」発言で批判を招く。実習船「えひめ丸」沈没事故後のゴルフが致命傷となり、支持率は一桁、9%にまで落ち込んだ。森喜朗ならぬ「蜃気楼」内閣と呼ばれた政権は瀕死状態となった。
森氏が「A級戦犯」なのは間違いない。
「あのとき、自民党は終わりを迎えるべきだった」
複数の識者らが、そう口をそろえる。
ところが、森氏の後継を決める自民党総裁選で、「変人」の小泉純一郎氏が圧勝。「自民党をぶっ壊す」の一言で圧倒的な支持を集め、自民党は一気に蘇生した。発足直後の内閣支持率は歴代最高の84%。
「彼は、自民党にとってのモルヒネだった」(政治アナリストの伊藤惇夫氏)
さらに、05年秋の郵政選挙での地滑り的勝利で300近い議席を得る。「数は力」。小泉元首相が自らの年金問題で、
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」
と国会答弁で煙に巻こうと、人気のある田中真紀子外相を更迭しようと、チルドレン議員が「早く料亭とか行ってみたい」(杉村太蔵氏)とふざけようと、その人気は衰えることがなかった。
小泉氏の罪の一つは、「死に体」の自民党に危機感を忘れさせてしまったことだろう。
5年半続いた小泉政権を継いだのは、安倍晋三氏。戦後最年少の52歳。小泉人気に味をしめた自民党は、政治家としての力ではなく、選挙に勝てる「顔」で選んだのだ。
評論家の大宅映子氏は、「彼こそ、最大の戦犯でしょう」という。
「小泉構造改革で生まれた格差や歪みをただす後始末こそ、安倍内閣の仕事だった。それなのに、300議席を背景に突然、『戦後レジームからの脱却』と憲法改正を言いだし、強行採決を重ねた」
政治評論家の有馬晴海氏も、安倍氏の罪は大きいとみる。その象徴が、塩崎恭久、世耕弘成、中川昭一、小池百合子の各氏らを論功行賞で重用した「お友達内閣」の真空ぶりだった。
「消えた年金などが問われた参院選で惨敗したのに、民意を無視する形で続投。そのうえ、国会の『ねじれ』から身動きがとれなくなり、最後はお腹が痛くなって放り出した」(有馬氏)
それを継いだのもまた、お坊ちゃま。麻生派をのぞく町村派、伊吹派など8派がこぞって担ぐ神輿にのった福田康夫氏には、国を率いる覚悟も意欲も展望もなかった。「とりあえず内閣」の誕生は「闇夜で財布を拾ったようなもの」(中曽根康弘元首相)とまで言われた。
衆参の「ねじれ」に屈し、民主党代表の小沢一郎氏に「大連立」をもちかけて挫折。民主党への追い風を見て、またも国民に信を問うことから逃げた。
「私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」(福田氏の辞任会見)
300議席の「生命維持装置」はいつしか、失うことを恐れるあまり解散できないという「呪縛」に変わっていた。政治評論家の森田実氏は、こう指摘する。
「自民党政権が結果を恐れて選挙を先延ばししたため、『伝家の宝刀』は錆びついてしまった。早くに解散していれば、議席を減らしても民主党を上回る可能性はあった。そうすれば、過半数に届かなくても、いまよりずっと強い立場で連立を組むこともできた」
確かに、政権発足時の世論調査で、自民党の支持率は民主党を引き離していた。
安倍内閣の06年9月には自民47%、民主36%。
福田内閣の07年9月には自民33%、民主25%。
麻生内閣の08年9月でも自民36%、民主32%。
解散のチャンスは何度もあったのだ。
麻生首相自らの失言や漢字誤読、中川昭一財務相の「もうろう会見」、鳩山邦夫総務相の更迭などを経て、政党支持率は逆転した。いまや、自民20%、民主31%(7月中旬)。自民党が他党を支持率で下回って選挙に臨むのは初めてになる。
この間、キングメーカー気取りで定見なく人事に口出ししてきた森氏の責任を問う声も大きい。
「あんなに支持を失った人が、なぜ発言力をもつのか」(評論家の小沢遼子氏)
だが、そもそも清和会といえば、「政治勘の鈍さ」が伝統なのだ、と共同通信政治部時代に清和会を担当していた政治ジャーナリストの野上忠興氏は言う。
たとえば、清和会の福田赳夫氏が首相の座を大平正芳氏と争った78年の「大福戦争」では、優勢が伝えられながら敗北。プリンスだった安倍晋太郎氏は当時、こう打ち明けたという。
「俺も甘かったなあ。剣道は上段の構えだから、脇があいてるんだよね」
87年には、その安倍氏が首相の座を狙うも、「中曽根裁定」で指名されたのは経世会の竹下登氏だった。安倍氏はまもなく肝不全で逝った。
「清和会は非主流派の『負け犬集団』だったので、本当の権力闘争を知らない。2世の安倍や福田、それに清和会ではないけれど麻生も含めた世襲政治家はひ弱で、胆力がない。人気だけで首相を選んだツケでしょう」(野上氏)
自民党は終わるべくして終わるというのである。
政権の呪縛となった300議席。それをもたらしたのは小選挙区制というシステムだった。
「自民党から複数が当選する中選挙区制のもとでは、派閥同士が互いに競い合い、活力があった。小選挙区制では目の前の相手に勝てるかどうかにしか関心が向かず、派閥の存在意義が薄まったのです」
と野上氏は言う。
結局、自民党を壊したのは、小選挙区制導入を進めた「壊し屋」の小沢一郎氏だったということか。
民主党の菅直人・代表代行はかつて、こう話したことがある。
「小泉政権の5年5カ月で、有権者は飽きやすくなった。おもしろいことがないと支持率が下がってしまう。小泉氏は最初の総裁選から、抵抗勢力との闘い、北朝鮮の電撃訪問、郵政解散など、次々に劇場を提供して有権者をおもしろがらせた」
安倍政権以降、記憶に残るドラマはない。いま、民主党が総選挙で優勢と言われるのは、「政権交代」という最大のドラマを心待ちにする民意の風を受けていることが大きい。
民主党の大勝を予想する政治評論家の森田氏は、こう警告する。
「総選挙で圧勝したときから、民主党の苦しみが始まるでしょう。歴史が繰り返さないとは限りません」
独り言
清和会が駄目派閥駄目議員の集まり(負け犬ともいいう)なのは常識だが10年も政権を取らせば日本、自民党が駄目に成るのは当然森に擦り寄り小泉大好き青木が自民党を破壊してくれた恩人なのか?