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フジ冤罪ドラマと植草一秀氏冤罪事件(1/3)
2009年10月14日
《1》
フジテレビの2時間ドラマ『誰かが嘘をついている』(10月6日(火)夜、オンエア)を見た。主演は水谷豊。
痴漢冤罪事件をテーマにしている。痴漢に間違えられて逮捕、起訴されていくサラリーマンを水谷豊が演じている。
周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』2007年1月20日公開)とよく似ている。こちらの映画も痴漢冤罪を扱った作品である。2007年度の映画賞を総ナメにした評判の高い作品だった。公開の日はちょうど、植草一秀氏が京浜急行車内で痴漢容疑で逮捕された事件の第二回目の公判の日(実質的審理開始)だと、『偽装報道を見抜け!』(ナビ出版)の高橋清隆氏が指摘している。
植草一秀氏のブログ「知られざる真実」09年10月9日付では、「ココログニュースが『誰かが嘘をついている』と植草事件の関連に言及したいくつかのブログを紹介し、いずれもドラマを好印象で捉えていると書いている。しかし、私は正反対である。
『誰かが嘘をついている』が問題を提起しているかのような善意のドラマではないと思っている。
映画『それでもボクはやってない』は、私はテレビの放映で見た。テレビ放映は2008年3月1日で、これまた植草事件の控訴審初回(3月17日)の直前のオンエアであった。なんらかの作為が感じられる。
高橋清隆氏の指摘によれば、『それでもボクはやってない』の撮影開始は2006年5月。完成したのは10月初旬。植草氏は9月16日に事件に巻き込まれた。「絶妙のタイミング」と高橋清隆氏派言う。
『偽装報道を見抜け!』はこう説く。
(引用開始)
事件を狙っての上映だとしたら、何のためにと問われるだろう。疑いを国家に向けさせないためとは考えられないだろうか。大阪の地下鉄でっち上げ事件と同様に。「冤罪だったとしても、権力がはめたのではない。都会の電車には、たちの悪い連中がいるのだ」と。
(引用終わり)
しかし高橋氏自身は、勘ぐり過ぎだろうか、確信は強くない、と言っている。私はこの「読み」は当たっていると思う。高橋清隆は自信を持っていい。
今度のTVドラマ「誰かが嘘をついている」も植草氏の釈放時に合わせてのオンエアだと思うが、氏の見解を聞いてみたい気がする。
今度のドラマ「誰かが嘘をついている」のオンエアは、ちょうど植草一秀氏が勾留地から解放された10月4日からわずか3日後である。あまりにもタイミングが合い過ぎだと私は思っている。
つまり植草一秀氏を拘置所から釈放するタイミングにあわせてドラマをつくり、放映したと思われるのだ。
植草氏が最高裁によって判決を決定されてから、収監まで時間があった。それは収監をすぐにせず、ドラマ作りの日程を調整していたのではないかとも思える。ドラマが放映できる日時がほど確定したところで、植草氏を2ヶ月収監する手筈を整えたと私は見る。
実際。
『誰かが嘘をついている』のホームページでスタッフがブログを書いている。
「放送日が急遽、金曜日から火曜日に変更になり、予定していた時期も早まり、こんなに色々あってバタバタした番組は今までありませんでした」
ということは、これだけでは前倒しの理由はわからないが、急遽予定を変更したことになる。金曜日つまり10月9日放送では遅い、というクレームがどこからか入り、大慌てで植草氏釈放の2日後に合わせた…その可能性はどうなのだろう。
そのほうが、植草氏自身にも支援者にもシンパにも印象は強い。
何の印象かといえば、植草氏やその支援者への一つには嫌がらせである。
ドラマのほうは実に不自然な(奇跡的な)証拠が、2審で出てきて、確実に(無実なのに)有罪になるはずの主人公が、大どんでん返しで無罪判決が出るストーリーなのだ。あまりにも変な、とってつけたようなハッピーエンドだった。
私は言うまでもなく、植草氏の無実を信じている、すでにブログでも書いた。(「植草一秀氏の収監と裁判員制度に抗議する」09年8月5日)
つまり権力側は、わざわざ高額のカネをかけて空想的なドラマをこしらえ、ほら植草は無罪の証拠が出せなかったじゃないか、だから有罪なのさ、とほくそ笑んでいる…と。
TVドラマ『誰かが嘘をついている』では主人公(水谷豊)が高裁で無罪判決を勝ち取って、家族と引き上げていく場面で終わるのだが、そのとき、傍聴していた被害者の女子高生が泣き崩れながら「それじゃあ、誰がやったというのよ」と言う。
このセリフは、結構重要だと思う。
先に『偽装報道を見抜け!』(ナビ出版)の高橋清隆氏が、周防監督の映画の目的を、「疑いを国家に向けさせないためとは考えられないだろうか。冤罪だったとしても、権力がはめたのではない。都会の電車には、たちの悪い連中がいるのだ」ということかと問うていることに、符合する。そういうセリフである。
痴漢にあった女子高生の「それじゃあ、誰がやったというのよ」とのセリフは、まさに「都会の電車には、たちの悪い連中がいるのだ」とのメッセージになるのであって、それが間接的に、植草氏もその一人だったのであって、決して国策逮捕じゃないぞ、と言う「脅し」にもなる。
ネットで調べもしない、まして植草氏自身の著書『勾留地にて』も読まない大衆は、それ以上考えようとはしないだろう。
また、ドラマだから極めて不自然な無罪判決で終わるけれど、視聴者に残る印象としては、「怖いなあ」「いったん痴漢を疑われたらもう人生お仕舞いだな」となるのではないか。
痴漢事件で起訴されたら、無罪になる確率は2パーセントしかないと言われれば、その印象のほうが強く残る。
フジテレビの2時間ドラマ『誰かが嘘をついている』は痴漢冤罪を扱ってはいるが、決して罪をでっち上げる警察、検察、あるいは判事を、それほど悪には描いていない。
法律に疎い視聴者の全体の印象としては、もっときちんと証拠を取り上げてあげればいいのに、主人公の話を聞いてあげればいいのに、と優しく思うのではないか。
あるいは、こんな状況に追い込まれても、家族の絆って大切ね、とか。
しかしながら、冤罪の本質はそんな生易しいことではない。
どれほど恐ろしい手が使われて罪が着せられていくかに切り込まなければ、この手の作品としてはダメである。
ドラマ『誰かが嘘をついている』も、映画『それでもボクはやってない』も、多くの刑事ものや裁判ものの作品が、真実を取り上げない。
以下にその実例を挙げてみよう。
「阿修羅」NO.4「免田事件について」はこう書いている。
http://www.asyura.com/sora/bd11/msg/751.html
(引用開始)
取り調べる側も被疑者のこのような人間的弱さを熟知しているのだ。あるベテラン刑事は言う。
人間はな、そんなに強いもんではないよ。細かな所はどうでもいい、キメ手などは出さんでもいい、ただ殺しを自供させてくれ、と被疑者をあてがわれれば、3人でも4人でも同じように自白させてみせるよ。今どきそんなことが、という顔をしているナ。何ならやってみるか。お前さんでもいいよ。お前んとこは刑事の手の内を多少聞きかじっているから、少しゆとりを見て、そう3日で いい。3日あったら、お前に殺人を自白させてやるよ。3日目の夜、お前は、やってもいない殺人を、泣きながらオレに自白するよ。右のとおり相違ありません、といって指印も押すよ(『自白−冤罪はこうして作られる』風煤社)
優秀な刑事ならば被疑者を落とすのに3日あれば十分、というわけだ。一度落ちてしまえば、後は被疑者を誘導して取調官の思い通りの自白を引き出すことは容易だ。この場合に絶対に間違ってはならない点は、取調官が自白内容を一方的に被疑者に押しつけるというわけではない、ということだ。自白内容とはあくまでも取調官と被疑者の協同の産物なのである。
(引用終わり)
こういう恐ろしい場面を、『誰かが嘘をついている』も、『それでもボクはやってない』も描こうとしない。