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[1377]RE:再度先生へ質問と私の感情を披歴させていただきま 投稿者:高橋元投稿日:2009/10/12(Mon) 17:38:29
副島先生
〔1376〕での長文のご教示、大変ありがとうございます。お忙しい先生からこのようなご批判をいただいたことは、本当にありがたい、私にとっては光栄なことであります。このご一文は私だけにくださったものではなく、多くの副島読者に向てのご発信であります。しかし、その中で私の名前を何度も取り上げていただいて、批判いただいたきました、感謝申しあげます。ありがとうございました。先生ご高説に対して、本来であればよくわかりました、その通りですと申し上げるべきかと思います。しかし、この天皇陛下の問題、靖国の問題に関しては、いまのこの時点でもいまだに首肯いたしかねる御説もあります。以下、再度先生へ質問と私の感情を披歴させていただきます。ご寛容ください。
まず、@今後の国益のためにどうすればよいかということと、A歴史的事実、特に天皇陛下のおおみ心の問題 この二つを分けてみました
@今後の国益のためにどうすればよいかということ。
日本の今後の進み方という問題は先生のご専門であり、その卓越した分析力とご判断から、「千鳥ヶ淵の戦没者慰霊碑の方を拡充して公式の戦争記念場所」にする。「恐らくいまの鳩山民主党政権はこの方向に正しく行く」 靖国神社は「相手にされない。だから別個に(追悼施設)を作るしかない」 それが国益になると言うことであれば、私は残念でたまりませんが、目をつむって従います。国賓はその新施設にお参りしてもらえるようになるでしょうね?。なればまだ救われます。新しくできたその施設にも支那事変での戦死者がまつられます。中国は「特にBC級はいかん」、それを除くと今度は「将官はいかん、佐官もダメ ついには尉官もダメで下士官以下はOK」ということにならないでしょうか。もしそうなった時には国民の反中感情は沸点に達して、憂慮する事態が惹起されるとうようなことはないでしょうか。杞憂であってほしいです。国が見捨てた靖国神社へは恐らく多くの日本人が足を運ぶことになるのではないでしょうか。経年遺族も年々減って、あと何十年かすれば、靖国神社はすっかり寂れてしまうかもしれません。それは、それでかまびすしい政治問題から離れて、英霊が静かにお鎮りいただけてよいかもしれません。それが昭和天皇のおおみこころに通じるようにも思います
副島先生、突如大きな問題を持ちだして恐縮ですが、先生のお考えになる国益(あまりこの言葉はお使いにはなりませんが)の中に皇室のご安泰は含まれますでしょうか? 先生が大きな期待を抱いておられる小沢一郎さんのこの点に関する思想はどうなのでしょうか?皇室が安泰で、若し代替え施設が本当に将来の国益のためになれば、国に遺棄された英霊の方々も「お国のためなら致し方なし」とこらえていただけるようにも思えます。
A昭和天皇が「A級戦犯」の合祀をお嫌いになって、それ以降ご親拝を止められたということ、 これは富田メモが存在しても、やはり急には首肯できません。もっと考えます。(富田メモに関する識者の本は先生の『日本の真実』記載の「阿部晋三の変説奇怪な変節とザ・カルトオブ・ヤスクニ」しか読んでいません)
首肯できない理由
A 最大の理由は、ご親拝はなくなりましたが、それ以降も毎年勅使が参向しています。それは昭和はもとより平成の御代にも続いています。もし「A級」合祀をお嫌いになっていらっしゃったのであれば、勅使の差遣ということはありえないのではないでしょうか。靖国神社の発行する会報「靖国」の平成21年6月号には春季例大祭に於いて、「勅使が参向し御幣物を奉献」とあります。また三笠宮殿下、同妃殿下、翌日にもェ仁親王殿下も御参拝されており、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、桂宮家、高円宮家より玉ぐしのご献進があったと書かれています。おそらく昭和天皇の時も同じような状況だったと思われます。阿南惟正と言う方の参拝も記されています。何をされている方なか知りませんが、先生が『仕組まれた日本史』の最後のページで「私には阿南の無念がじわりと伝わってくる」とお書きになった阿南思惟幾大将の御子息でしょう。もう一人、最近まで中国大使を務められた南思惟●氏(最後の一文字失念)も御子息でしょう。昭和30年に改定された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で終戦時の責任自決者も合祀の対象とされました。「戦犯」者についてはこれより早く昭和28の法改正で合祀対象となっています。(『新世紀の靖国神社』所収、小田村四郎著『「A級」合祀取下論の迷妄』 8月15日未明に割腹し果てられた阿南大将は、恐らくこの昭和30年の改定で合祀されたのではないかともいます。大将は山西省や武漢に駐屯、侵攻する軍の司令官を務めておられます。
B 毎年8月15日に行われる全国戦没者追悼式が行われます。追悼の対象には刑務死された方々も含まれます。(小田村四郎『「A級」合祀取下論の迷妄』)昭和天皇も毎年行幸されております。崩御される前年最後になった追悼会の壇上を時刻に遅れまいと病でお弱りになったおみ足を懸命に運んでおられた御姿が印象的でした。 もし「A級」合祀をお嫌いになっていらっしゃったのであれば、ご参加を止められることはもとよりないでしょうが、宮内庁を通じてでも何らかの御意志の伝達があるのが普通ではないでしょうか?
C おおみ歌の件、「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれいはふかし」 まさに、この年中曽根首相が盟友胡耀邦書記長のためというような理由で参拝を取りやめたその年の8月の御製だそうです。『侍従長の遺言』徳川芳寛著、にはこの歌のことで「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいともどちらともとれるようなものにしていただいた」 「それなのに合祀賛成派の人たちは自分たちの都合のよういように解釈した」とあります。しかし、昭和62年8月15日の御製ですから、やはり外国を巻き込んだドタバタ劇を「うれいはふかし」と表現されたのではないでしょうか。
先生が仰る「中曽根康弘が、悪質であることは問題にしなければならない」は、先生のお考えとは違う意味になるかもしれませんが、その通りで罪は深いと思います。元々、中曽根首相は「靖国懇」など組織して、鳴り物入りで、いわば参拝のうらずけなどをとってからの公式参拝などでく、歴代の総理大臣のように粛々とお参りして、内閣総理大臣中曽根康弘と記帳すればよかったのだと思います。
*富田メモ これは昭和天皇がご親拝をお止めになった決定的証拠とされています。じじつ、あの内容を読めば議論の余地はなくなります。いまの段階でメモがニセモもだと何とか言うのは詭弁でしょう。石見隆夫という元毎日新聞の記者が書いた『陛下のご質問』と言う本に昭和61年の靖国をめぐるドタバタが一段落した後、「靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下からいわれておりますと」中曽根首相のものとへ富田朝彦宮内長官から伝言がもたらされたと言う記述があります。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば富田朝彦宮内長官が警察庁警備局長時代の警察庁長官は後藤田正晴氏であったと。また富田氏は昭和18年東京帝国大学法学部を卒業後、海軍を志願し、同年9月30日海軍経理学校に入学。翌年2月同校を卒業し海軍主計将校(主計科短期現役第10期)となる。最終階級は海軍主計大尉と経歴が書いてあります。中曽根元首相の経歴は昭和16年東京帝国大学卒業、同年4月海軍経理学校入校、同8月卒、終戦時の階級は少佐、戦後は警察関係に奉職しています。後藤田氏との関係、中曽根元首相との経歴の相似があります。
決定的な富田メモはありますが、上記A,B,Cの理由、特にAの理由で私は昭和天皇がご親拝を止められた理由は、「A級戦犯」が合祀されたからではなく、その前から政治的にざわついていた伏線があり、さらに合祀されたが為により政治的なうるさいことになってしまった。そういう場所へ敢えて行幸されるのこを、ご賢明な昭和天皇は、国にとっては好ましくないと御判断されたからではないでしょうか?あくまでも合祀そのものに反対されてということではないと言う意味です。
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中国人に対する感情、 先生からのご忠告「俺は日本人だ、俺はお前たちよりも立派な民族だと思い違いするようなことがあったら、君は日本でも生きられないだけではなく、中国でも生きていけないでしょう」 私の部下は皆よくやってくれます。もしろん失敗もあり叱責します。何度も同じことを繰り返すと怒鳴りもします。しかし、彼らが私より民族として劣っているとは思ったことはありません。業務に関しても数人のものは私よりも知識があります、私が彼らに教えてもらうことが始終あります。本社の方は工場を一部を残し、数年間にたたんでしまって、技術者は2名しかいません。技術は深セン、上海、青島の各工場の現場責任者に受け継がれていっています。思考方法や行動規範の違いで、なんで中国人はこうやんねんと思うことも多多あります。逆に中国人は頭がいいと感心することも同じくらいにあります。一対一でやり合うと日本人は大抵負けます。しかし、チームワークはだめです。横のつながりが下手です。私の部下も日本へ研修へ行きます。日本人のチームワークと挨拶や気遣い、現場を小走りで移動するパートのおばちゃん、などに一様に感心します。それは中国にはかけているからです。研修に行かせたと言えば、その中の数名が靖国神社へ見学に行ってくれました。どんな恐ろしいところかと思ったら、なにもないですねーと。ただ遊就館の史観にはついてゆけませんと言っていました。当たり前ですね。彼らがうなずけるわけがありません。
私は国粋主義者とか右翼とかいわれますが先生が、仰るアジア人同士の戦争はなにがなんでも避けねばならない。その先生のお言葉には100%大賛成なのです。戦争はなくならないでしょうが、人の英知でなんとか避けないといけないです。特に私は個人的に深くかかわっておりますので、中国と干戈を再び交えることだけは何としても避けたいです。靖国神社の奉賛会員は皆アジア嫌いで中韓を憎んでおり、ことあらばもう一度平伏させてやりたいと思っているようなことはありません。私はただ英霊に感謝し、安らかにお眠りいただきたいだけなのです。その中には「A級戦犯」も含みますが。
侵略ということ。先生は現在米軍が日本に駐留しているのは侵略であると仰っておられます。私も早く米軍に帰ってもらった方がいいとおもいます。(そのあとは、いまの自衛隊の戦力で十分ですね?)「外国に他の国の軍隊がいたらそれを侵略というのです 国際法の冷厳な考え方だ」ともあります。国際法のなんたるかは私には一片の知識もありませんが、米軍も条約に基づいて駐留しているのではないのでしょうか? 如何に日本はアメリカに頭があがらなかったとは言え、正式に批准した条約ですね。それでも国際法に反するのでしょうか?
そこにこだわるのは、日中の歴史にも関係するからです。私は日本が中国を侵略したと思います。しかし、その経緯、当時の国際情勢も同時に知っておく必要もあると思うのです。釈迦に説法で恐縮です。昭和6年9月18日に満州事変が勃発します。これは関東軍の謀略でした。でもその関東軍はなんで満州にいたのでしょうか。満州事変を起こすために日本から派兵したのでしょうか。そうではなく、日露戦争後のポーツマス条約によってロシアが満州に得ていた権益をひきつぎ、さらに清政府と満州善後条約を結んでその駐兵権を得たのです。事変勃発当時の兵力は一万数千のみです。盧溝橋事件の北支派遣軍はなぜ北京郊外に居たのか? これも日露戦争の4年前、明治33年の北清事変(義和団事件)の後しまつに於いて日本だけではなく各国は清国と北京議定書を締結して、北京や天津の付近への駐屯権をえたのです。駐兵数の上限まで決めてあり。7月7日当時は5600名ほどだったそうです(秦郁彦著『日中戦争史』『盧溝橋事件の研究』)
確かに日本(軍部は)はいろいろ謀略を用いて権益を伸長しようとしました。それは侵略です。しかし日露戦争後の満州や、満州事変後の北支は大変複雑な環境下にあったそのことを理解したうえでないと日本がなぜじわじわは侵略していったのかのを見誤るとおもいます。私の部下の中国人にも9・18(満州事変のこと)の時の日本軍はなんで満州におったのか? 7・7の(盧溝橋)日本軍は?と聞きますがそういえばなんでかなと?いう回答でした。
このような長い投稿を最後までお読みいただいてありがとうございました。今後ともよろしくご指導お願いいたします。
〔臭うぞう〜〕
富田メモについては、この投稿者のように疑ってかかるのが正解と思う。現時点でこれを事実(史実)だと前提(断定)はできないと思う。
・どうして天皇は靖国参拝をおやめになったのか/質問投稿日時:05/11/05 20:51
http://okwave.jp/qa1759419.html
・2005年01月31日 「不敬」であるのは誰か?
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000090.html
・[Di]昭和天皇の靖国発言メモの真意はいかに -捏造、偽造の可能性-
http://nextxp.net/archives/2006/07/post_216.html
・高野孟 昭和天皇の靖国参拝に関してヨタ発言
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H16/1604/1604015yota.html
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