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【神州の泉−高橋博彦】
2009年10月 8日 (木)
亀井静香担当相の本質を衝いた発言!!(大企業のせいで家庭内殺人増加)
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「家族殺人が増えたのは大企業のせい」 亀井氏の経団連批判は正しいか
家族内の殺人事件が増えているのは、大企業が日本型の家族的経営を捨てたため――亀井静香金融・郵政担当相が東京都内の講演会で口にした「経団連批判」が波紋を呼んでいる。ネットのアンケート調査では賛否が半々という状況だが、当の亀井担当相は「企業経営の変化と家族関係の崩壊の間には、強い因果関係がある」と自説の正当性をみじんも疑っていない。 (JCASTニュース 2009/10/ 6 21:03)
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亀井静香郵政・金融担当相のこの発言に賛否両論が出ている。国民はこの発言が招いた波紋に注意を向けて欲しい。実はこの発言こそ、小泉・竹中構造改革路線が一般国民に及ぼした甚大な負の影響を象徴的に物語っているのだ。
日本がたどった戦後経済史を大雑把に言うと、敗戦の焦土からインフラ復興に精を出し、そのあとは、工業製品を主体にした輸出産業で右肩上がりの高度経済成長に至った。しかし、経済のグローバル化が進むに連れて、産めよ増やせよの大量生産・大量消費型経済は頭打ちになり、生産コスト(人件費)の安い中国等にその型は移って行った。日本はここで重厚長大の第二次産業の初期モデルから脱却して、工業製品の高品質化やサービス等にシフトすべきだったが、いつまで経っても自動車や電化製品の成功体験の感覚にしがみついた。
唯一成功した分野は極端に言えば携帯電話の新製品開発くらいだろう。全体としては昭和から平成に移行した後も、産業インフラのシフトに失敗したことと、バブル破綻後の閉塞感から抜け出ることができず平成の大不況を招いた。大蔵省も日銀も国民生活の逼塞感など頭にない中で、日本はデフレ脱却の苦痛に喘いでいた。
こういう不況感に溺れる人々は、昭和、平成を通じて行われた自民党55年体制の負の部分に目を向け始めていた。不況の不満は人々に政治への不信感を増幅させる。実態はアメリカの対日戦略であったが、金融ビッグバン辺りから、日本では護送船団方式とか、談合とか、系列企業とか、そういう日本的な商慣習が古くて、市場経済の公平性に反する悪いものだというネガティブなキャンペーンが始まっていた。
それはフリー、ファエー、グローバルという三つの標語だった。この標語こそ、アメリカの陰険な対日占領政策の骨子となる考え方だった。フリーは市場原理至上主義、フェアーは透明性、グローバルは国際化である。今となってみれば、この三つのどれを見ても、いかがわしいものだということがわかる。三つとも言葉上においては、それぞれ正しく、これが自律的に唱えられ自国経済に使用されるならいいが、外国から言われるということに問題がある。
アメリカがこれを日本に言う時、前提として日本市場は時代に逆行する遅れた閉鎖性であると強調しているわけである。何が前提になっていると言えば、アメリカが正しく、レッセフェール(自由放任主義)の市場原理至上主義こそ正当なる市場の姿であると断定しているのだ。簡単に言えば、アメリカは日本的なシキタリ、市場風土、商慣習はすべて悪だと言っているのだ。日本人はこの三つの標語が出てきた時に必死に抵抗する必要があった。
1993年の宮澤ークリントン会談以降、年次改革要望書というアメリカの国益のみで造られた内政干渉伝令書が押し付けられた。アメリカによる日本経済改造計画である。日本市場を弱肉強食の市場原理至上主義一辺倒に塗り固め、日本の優良資産を効率よく収奪するために、日本的商業習慣をことごとくグローバル資本主義に変えることが目的だった。日本政府は、面従腹背で、これを右から左へと丸呑みはしなかったと思う。しかし、徐々に切り崩されていった感は否めない。
平成不況の閉塞感の中で、自民党政策に国民が疑念を持ち始めた時、小泉政権が誕生し、「自民党をぶっこわす」「構造改革なくして経済成長なし」とか、威勢のいい言葉を使って国民を騙した。国民がどのように騙されたのかと言えば、小泉氏が自民党の政官業癒着という金権・利権体質を壊すものだと勝手に忖度しまったのだ。多分、国民の頭の中では、フリー、フェアー、グローバルの標語と小泉氏が一瞬重なり、この人物なら何か新しい突破口を開いてくれると思ってしまった。
それが日本の地獄の始まりだった。小泉政権のやったことは旧来政権の是正どころか、アメリカの傀儡になって日本市場を弱肉強食の市場原理社会に切り替えることだったのだ。小泉・竹中構造改革路線とは「聖域なき構造改革」と呼称され、手を付けてはならない規制まで緩和した。規制には経済的規制と社会的規制がある。この政権が言った「聖域」とは、社会的規制にも手を付けるぞということが、今になってはっきりわかった。聖域とは老人医療や福祉である。つまり、あの政権がやったことは無差別に保護的規制にまで手を付けたのである。これを別の言い方にすると、日本破壊である。
小泉政権は国民に苦痛と死をもたらすことがあっても、何一つ国民生活のためになることはなかった。その理由は売国政権だからである。いい思いをしたのは大企業と国際金融資本である。国家の保護機構をすべてぶち壊し、強いものだけが利益を売る弱肉強食の荒野に日本を地ならししたのが、小泉・竹中構造改革路線であった。そこにはハゲタカが舞い降り、ハイエナがうろつきまわる。
さて、以上の流れを踏まえ、我らが亀井静香担当相発言の真意を語ろう。つい最近までの日本企業は、大小関わらず日本的な企業精神が息づいていた。幹部、現場連中に関わらず、人と人の触れ合いでは企業の末端まで、情、温情主義が機能していた。今、「機能する」という機械論的な言葉を使ったが、まさに日本的経営とは温情主義が企業活動の潤滑油となっていた。効率至上主義、能率優先だけでは、必ずどこかに無理が生じて破綻の原因になる。
経済学にも合成の誤謬という言葉があり、部分的には最大効率で正しいやり方であっても、個々にそれをいっせいに行うと全体として上手く行かないのが合成の誤謬である。なぜ正しいことの集積が間違った結果になるのか。それはおそらく社会というものも要素還元主義では把握できないからだ。全体のダイナミズムは複雑系の科学なのである。
日本式温情主義、相互互恵方針は、この合成の誤謬を全体として防いでいたのだ。護送船団方式も一番速度の遅い船に合わせて全体が動くことを言うが、その負の部分を差っぴいても、良い部分のほうがより重要なのかもしれない。新会社法(旧商法)が具体的にどのように改正されたかわからないが、それは間違いなく日本人から見て改悪であろう。アメリカ型の企業ガバナンスが急速に日本企業に浸透し、日本企業から潤滑油や「あそび」という余裕というか、クッションが外されてしまった。
人間の温情の部分が無効化されたのである。その結果、労働者は成果主義、効率主義一点張りで、自分の情の部分を押し殺して働くしかなくなってしまった。非常な人間しか価値を認められない企業精神になった。外資の精神である。市場原理至上主義だけを唯一の価値と任じ、日本的感性を入れた瞬間に排斥される社会に変化している。これがどんどん人間性を歪曲化している。大企業の企業論理は、日本社会の公的秩序を維持する公徳心や家族愛を破壊する方向に強い影響を持ってしまった。小泉政権がアメリカに魂を売り渡して企業モラルをどぶに捨ててしまったからだ。
市場原理だけでは、人間は社会を維持できない。それは人間的な要素すべてを物質的に扱い、安全と思いやりに溢れていた日本型社会を完全に破壊してしまうのだ。その意味で亀井大臣の「家庭内殺人が増えたのは大企業のせい」は、見事に小泉政権の本質を衝いた言い方になっている。企業ガバナンスを従来の日本型に戻す必要がある。管理人は亀井大臣を総理大臣にしたいくらいだ。亀井静香担当相を、今の日本で本当に魅力ある立派な人物だと思うのは管理人だけだろうか。
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2009/10/post-a04f.html
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