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(回答先: アメリカにおいて民営化という美名の下、国民資産が安値で売却されて、値上げ&腐敗している現状について (ビル・トッテンコラ 投稿者 ブッダの弟子 日時 2009 年 9 月 29 日 13:39:13)
「民営化」が《美名》なんでしょうか?
日本で一般的にそう受け取られているとしたら、日本社会全体が、いいかげんな訳語を利用したとんでもない詐欺に引っかかっているのでしょう。
次の拙稿でも申しましたが、
http://www.asyura2.com/09/senkyo71/msg/782.html
『民営』という巨大詐欺
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【引用】
「民営化」は英語のprivatizationの訳語とされるが、この単語は一目で分かるとおりprivateやprivacyと同じ部分を持っている。つまりこの英単語の正確な訳語は「私営化」である。訳語によるゴマカシの見事な例だ。「民主主義」の「民」でもそうなのだが、日本のように人々の一体感が強い社会ではこの漢字を使うだけで何だか自分たちのものになる、自分たちに身近な存在になるかのようなイメージを作ってしまう。しかしこの私営化の「私」とはいったい誰なのだろうか? まさか私ではない。この文章を読んでいるあなたでもない。では誰なのだろうか? そこが問題だ。「民営化」つまり私営化とは、つまり「誰かさんが個人的に運営するもの」なのだ。そこではその「私」=「誰かさん」の自由が十分に保証されるのである。
日本人はよく「公私の別」「公私混同をするな」と言う。この場合の「私」は、大会社の社長さんから私やあなたをも含む各個人個人を指す。しかし「民営化=私営化privatization」の「privat-」は最初から「公」の姿を借りてそれを利用し「公」を食いつぶして利益を上げる「私」、少数の限られた「私」である。そしてそれは「民」とは決定的に異なる、むしろ「民」とは最も敵対性の強い概念に他ならない。ブッシュが誇らしげに掲げた「自由」が「私」の自由であり、その「私」がある限られた個人であることは、もはや議論の対象にすらならない自明な事実であろう。
伝統的に人々の一体感の強かった日本ではなかなかこの資本主義が内包する致命的な犯罪性が大きく表れることはなかったのだが、1980年代(米国レーガン・ブッシュ政権)あたりから徐々にこの「私」が植え付けられていったようだ。「民営化」という猛毒を含むレトリックの陰に隠れて・・・。そしてそれがホッセイン-サデー教授の指摘する米国で貧富の差が再び広がり始めた時期、および中南米地域で紛争と混乱、経済のネオリベラル化が打ち続く時期とも重なることに注目すべきだろう。
【引用ここまで】
http://doujibar.ganriki.net/peace&prosperity-3.htmlより
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日本人は、第2次大戦前の苦い経験から、特に「進歩的」と称する人々によって「官」に対する反発と「民」への礼賛が奨励されてきたように思います。いや、それが本当に「民(たみ)」であるのなら構いません。しかし、privatizationは「経済の私有」を意味します。つまり「社会性を喪失した経済」のことです。中南米やアフリカ諸国の国民がこの実態を最もよく知っているでしょう。
私のサイトからもう一つ引用させていただきます。
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【引用】
『ベネズエラにおけるブッシュ・ファミリーのいかがわしい商売』に登場するベネズエラの富豪ルイス・ヒウスティの『この場で主権だの愛国心だのという概念が振りかざされる。もうたくさんだ』という言葉が彼らの態度を代表するだろう。そして皮肉なことに『資本には良心も思想も無い』と語る世界有数の大富豪シスネロスの言葉が彼らの思想を見事に語っている。それは《終わりのない利益追究》という強烈な思想である。それは一切の歯止めを取り払った資本の原理主義的なイデオロギーなのだ。「市場原理が自動的な歯止めになる」という機械的唯物主義に基づいた「自動進行理論」がいかに狐狸のまやかしに過ぎないのかが、もういい加減で学ばれても良いのではないか。「事実はそうなっていない!」の一言で矢を放つのみである。
【引用ここまで】
http://doujibar.ganriki.net/peace&prosperity-2.htmlより
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『この場で主権だの愛国心だのという概念が振りかざされる。もうたくさんだ』
『資本には良心も思想も無い』
これが1980年代以降に「民営化」を推進してきた者たちの本音のように思えてしかたがありません。
今から見れば、さまざまな批判はあっても、かつての松下幸之助や本田総一郎などが主導していた時代の日本の資本主義は、それなりの社会性を持った「日本型資本主義」だったように思えてきます。しかし、市場原理主義者によって《私の勝手》型経済が「民営化」と称されて以降、特に2001年以降に、「日本型資本主義」は息の根を止められたように感じます。
このような点について、経済学に強い人による真摯な研究を待ち望んでいます。
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