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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu199.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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情報ハイウェイ構想、ヒトゲノムがアメリカにパクられてしまったのである。
そして、日本は完全に国際競争力を失ってしまった。 長尾敬衆議院議員
2009年9月7日 月曜日
大阪14区で初当選した民主党の長尾敬衆議院議員
◆「私が政治家を目指すことになった理由(わけ)」 民主党大阪府第14区総支部長 長尾敬
http://www.tnagao.org/index.html
-大人こそが国家を守らずにどうするのだ-
「長尾さんは国政に出るべきですよ」
キョトンとした私の顔を見つめながら永田町の議員会館で真剣に私に話をする男、阿久津幸彦衆議院議員。翌年に迫った東京都議選の党支部公認候補選定が難航する中で、自分が出てみようと思い意を決したが、「国政でやるべき」との土俵違いの話の流れに、私はかなり戸惑っていた。2000年10月11日のことだった。その後公認獲得に向け動きが始まった。
1999年10月27日、私は通勤途中の駅前で一枚のビラを手にした。「第一回タウンミーティング開催、元石原慎太郎第一秘書・あくつ幸彦」 (小泉より数年前から彼はタウンミーティングを行っていたのだ) とある。そう言えば浪人中の政治家志望と全く接点がなかったなぁと気づき、開催場所も自宅から歩いて一分なので参加してみることにした。28日会場に行くと人はまばら。ここで本当に行うのかと疑われるほど、受付には誰もいない。半分キレそうになる気持ちを押さえ待っていると係りの者 (後の公設第一秘書)がやってきて、受付を済まし入場する。3人くらい集まっている。
私は「財政投融資と郵貯・厚生年金の問題点」について簡単な持論を展開し、彼に意見を求めた。私はどうせ政治家も政治家の卵もマスコミと同じで、本当に言いたいこと、本音、現実の話など喋るはずはないと思っていた。だが、議論の中で私が特殊法人の天下り問題に触れたところで、「この特殊法人の問題、大蔵省資金運用部の問題に政治家が触れるということはタブーではありました。でも、今の日本はそんなことを言っていられる現状にはないのです。何時でも崩壊してしまう危険性をはらんでいるし、我々の世代でこれを軌道修正しなければ、この国はダメになってしまう。過去にも特殊法人の問題を取り上げ、家族や後援会、議員宿舎へも酷い嫌がらせを受けた議員がいたようですが、だからといって黙っているわけにはいかないんですよ。」このやり取りは、 1999年10月のことである。今でこそ特殊法人の何たるかを気の利いた国民は知っているが、当時は資金運用部の存在すらマスコミは取り上げていなかった時代である。彼の骨の太さと、誠実な姿勢は多少のショックではあったが、「なるほど、こういう本音が言えて、骨のある人もいるのか」と感心した程度。継続して参加しHPの情報収集に役立てようと思うくらいであった。
地元にポスターが貼られているものの、まだまだ知名度は低い。故に、第2回タウンミーティングも5人ほど。回を重ねてもなかなか増えないどころか、某所においては遂に、2人という壮絶な現場に立ち会ってしまった。しかし、彼の姿勢は変わらなかった。相手が何人であろうが真剣に切々と語る。元石原第一秘書だから泥臭いんだろうなぁと先入観をもつも、次第にその背景から石原の影が消え、彼自身のパーソナリティーを理解するようになる。後に聞いたことだが、彼は3年間の間に実に5万件もの戸別訪問をこなしていた。まさに、ドブ板中のドブ板、草の根の真髄である。そして、その地道な活動が実り2000年6月の衆議院議員選挙で10万票以上の得票で、見事初当選する。
当選前と当選後とでは人の流れがかくも変わるものかと驚くばかりであった。当選祝賀パーティーでは全く話をできなかったが、「長尾さん、こういうものですよね、人というのは。最近誘惑も多くて自分を律するのが大変ですよ。でも、私の原点は草の根ですから、長尾さんと同じですよ。」と耳打ちした。私は当選後の彼をじっくりと見ていくことにした。
衆議院議員になっても彼の周辺は彼を先生と呼ばない。タウンミーティングは今でも続いており、当然人数は格段に多い。あくつ氏とはいろいろな議論をした。しかし、外国人参政権の問題、石原三国人発言問題 (以外にもべきではなかった論者)では私の意見と彼の意見は真っ向から対立した。そう、彼は議論で「共感できる人」であり「対立できる人」なのである。これは私にとって純粋に感動であった。
気がつけば東京都議選の選挙応援をやっていた。特に私世代の人間は一番政治に関心が低く、同時に社会人として非常に忙しいので人出が不足する年齢層。だが、学生主力の選挙事務所に社会人はピリッとさせる意味で必要な存在であったので、朝6時前に起きて、駅でビラ配りをしてから出勤していた。土日は張りつきで事務所に入り、そして我々が選出した候補は見事初当選した。家内が2人目の子供を出産間近で体調が悪く、事務所で当選の瞬間には立ち会えなかったが、テレビで当選を知り胸をなでおろした。「学生達と大騒ぎしたかったなぁ」と心で呟くと、あくつ議員の奥様から電話が入った。騒ぎの輪に私がいなかったので、電話をくれたようだ。「後ろの騒ぎを聞いてくださいよ」、、、、。学生達の歓声に感動した。大人がまだまだ頑張らなければならない。今の若者、打てば響く奴等はたくさんいるのだ。
我々大人達がしっかりしなければならない。大人こそが国家を守らずどうするのだと心で呟く。
その頃水面下では私の「落下傘計画」の準備が始められていた。
◆「私が政治家を目指すことになった理由(わけ)」
-日米構造協議の存在-
1995年の秋、福島県郡山市のとある講演会で、1990年6月28日、時の海部内閣が調印した日米構造協議の存在を知ったのだ。その衝撃は凄まじく、その後は何かにとり憑かれたように、片っ端から資料を読みあさり、全国で様々な講演会、セミナーに参加し、自分でその是非を確かめたかった。インターネットが普及し始めたのもこの頃で、まだまだ高かった接続料を支払って何時間も資料探しをした。
「これは平成の不平等条約だ。日米修好通商条約に調印した井伊直弼の暗殺、桜田門外の変が何時起きてもおかしくない、いや待て待て待て、落ち着けっ、今は平成だっ、そんなはずはない。」だが、この不平等条約は確かに存在し、その後の日本を水面下でボディーブローのように日本を痛めつける悪法であり、今日の日本経済の堕落を裏付ける元凶のひとつとも言えるのだ。
日本が間違いなくトップランナーであった、1990年6月28日、時の海部内閣は日米構造協議を結んでしまった。これは、日本の国家予算をIT技術を始めとする、技術開発、普及に使わず、公共事業に重点を置くべきとする条約。 3年に一度のフォローアップ会議を行い、日本が本当に条約を励行しているかどうかチェックする。私は、この条約こそ、日本のお家芸である「モノづくり」、「技術開発」をストップさせた最大の原因であると認識している。つまりは、公共事業で儲けたい政治家・企業と、技術力で日本に遅れをとりたくないアメリカの利害が一致したのだ。
表面上、この日米構造協議は、アメリカの膨れ上がった貿易赤字を解消すべく日本側に経済構造を開放するのが目的とされている。具体的には、「大店法の撤廃」「政府、地方自治体による米国製スーパーコンピューターの入札参加の自由化」「商用通信衛星の購入の自由化」「米など農産物の自由化」という「市場開放」を迫るもの。そして、日本の国内においては、何故か、公共投資を、最大限度で増額することが要求されることになる。
農耕社会から、工業化社会へ、そして来る情報化社会へ移行する21世紀突入前に、アメリカは日本に遅れを取りたくなかった。森鴎外はインテリジェンスを情報と訳してしまった。ここに日本人の情報という言葉が伝える本当の意味が分断されてしまった。情報とは「戦略」なのである。日本の情報ハイウェイ構想をいち早く打ち出したのは通産官僚とNTTの若手。噂には現NTTドコモの立川社長も参加していたとも聞く。日本国内に光ファイバーを張り巡らせ、高速情報インフラを世界最高スピードにまで整備する。その情報伝達に呼応できる輸送手段のネットワークも同時に並行構築し、日本全土をネットワークで結んでしまうというものであった。これに特に、ゴア上院議員大変な危機感を覚えたという。
ゴア上院議員の父親も政治家でアメリカ全土に高速ハイウェイを張り巡らし、全米のトラック輸送網を整備した実績を持っていた。息子も来るべき情報化社会において覇権国アメリカの実現の為に情報ハイウェイ構想を持っていた。しかし、日本のその構想がはるかにそれを上回っていたのである。そして、アメリカは国家ぐるみで日本の情報化を遅らせようと躍起になってくるのであった。
日本の政治家が一番金になるもの、それは土木建築を中心とする公共事業である。アメリカはそこに目をつけた。アメリカの提案に、金丸信が今後10年間で430兆円はやれると豪語。しかし、ウェジントン米財務次官補は430兆円は小さいといったとか言わないとか。その時の日本の対外黒字 は1000億ドルを突破しそうなので、内需を拡大して必要がある (この辺の理屈がアメリカ中心主義)。モンデール駐日米大使が600兆円なら歓迎の発言し、公共投資基本計画の発表は総額630兆円と決まった。もうなんでもアリである。公共投資の財源の半分は、国際、地方債財政投融資等の利子付きの資金であり、将来の国民の負担となるなるのだ。
日本国民に対しては、表面上は、景気対策と訴える。馬鹿な国民もフンフンと何も考えずに頷いてしまう。公共投資により公共事業を行うことで、その事業に携わる企業だけでなく雇用も促進され、地域経済の活性化にもつながるという未だ続く理論そのマンマ。全くアホらしい。不勉強な政治家が民間が気づいていたITの重要性を無視し、目先の私利私欲に走り、国益を損ねたのだ。もちろん、公共投資拡大要求には、日本の大規模公共事業へ米企業を参入させる思惑もあったことは言うまでもない。
要は技術立国日本を確立するための予算を公共事業へ投じてしまったのである。お陰で日本のお家芸である技術開発が国際的に遅れをとってしまった。それどころか、情報ハイウェイ構想、ヒトゲノムがアメリカにパクられてしまったのである。 そして、日本は完全に国際競争力を失ってしまった。
私は大前研一氏が主催する政策集団「一新塾」に参加するのだが、ある機会を得て、日米構造協議に関し、尾身大臣に面と向かって質問をしたことがある。大臣は実に嫌な顔をしていた。「長尾さんがおっしゃる日米構造協議はいろいろな論議があった。ただ、当時アメリカは日本に負けまいとしてレーガノミックスの名の元に、数多くの改革を実現した。その結果アメリカの今日の繁栄がある。日本は私が先ほど示したような計画 (これが国立大学の民営化とか、その他たいしたことのない計画)で、アメリカに習い、 10年後には遅れを取り戻しているでしょう。」と、完全にシラバックレタ。大臣という立場である以上ここまでが限界であろう。それ程この問題は今日の日本のあり方に影響を及ぼしたものであるからだ。
あわよくば、当時のゴア上院議員が日本の情報ハイウェーネットワーク構想をパクった事。その延長線上にあるTCP/IP(インターネットの言語) を、アメリカの主導で普及させてしまったこと。エシュロンを可能にさせてしまったこと。ヒトゲノムの開発が特許庁役人のくだらない揉め事でアメリカに持っていかれたことも質問したかった。悲しいかな、これら事実を多くの国民は知らないのだ。
「なぜそんな条約を日本の政治家は結んだのだろうか?」単純な疑問だった。結局はアメリカと利害が一致した一部の政治家、官僚、企業が、今日の国際競争力のない日本を作り上げてしまったのである。我が国は孫子の代にまで借金を背負い、ハンデを背負いつつ勝ち残っていかなければならない現状にあるのだ。今日の自民党議員が未だに公共事業に縛られるのか、これ即ち、日米構造協議の副産物、副作用とも言えるのではないか。
私は日米構造協議の存在に覚醒されてしまった。大学時代モノづくりが支えた高度成長を研究した私にとって、資源のない日本のモノづくりに対する思いは人一倍強い。その「21世紀へのモノづくりを封印」し、「旧態前のモノづくりへと日本を封じ込める」アメリカのやり方が許せなかった。1990年、奇しくも失われた10年の始まりと合致する。情報は明らかに戦略として我々国民の前に君臨している。特に金融には、もはや兌換性など関係なく信用という情報がそのものの価値となってドル中心に全世界を還流している。そして、バブルは仕掛けられハジカサレ、日本は金融敗戦国となってしまったのだ。
私は俄然と、この国の本当の形を知りたくなったのである。父には国家観、歴史観を説かれ、大学では「モノづくり日本」を学んだ私だが、さて一介のサラリーマンに何ができるというのか?本当に我が国はこのままで良いのかだろうかと数年にわたって悶々と自問自答する日々が続く。インターネットでHPを立ち上げ情報発信を試みた。今日27万アクセスを超える大サイトに育てていただき、全国に100人を超える仲間を得た。政党を作ってみんなで立候補しようなどという身のほど知らずのことをのたまってもいた。草の根政治活動は4年ほど続けているが、やはり、不完全燃焼感が残る。現実味がないのだ。
そんな時、一人の人物との出会いがその後の私の人生を決定付けることになる。
(私のコメント)
長尾敬氏は今回の衆議院選挙で、大阪14区で民主党議員として初当選されました。まさに風が吹いたおかげなのですが、本来ならば長尾氏は自民党から出てもおかしくない議員といえます。しかし、自民党がベテラン議員と二世三世の世襲議員によって占められてるので新人はなかなか公認が得られない。
長尾氏のブログに出てくる阿久津幸彦氏も、民主党の衆議院議員ですが元々は石原慎太郎の秘書だった人だ。93年の都議会議員に無所属で立候補して落選して、管直人の誘いで新党さきがけに入党して、2000年の衆院選挙で東京24区から立候補して初当選した人だ。石原慎太郎の秘書でさえ自民党の公認を得るのは難しいのだろう。
長尾氏はサラリーマン時代に過激で保守的なブログを書いていたのですが、あるときに脱サラして大阪の選挙区から民主党で立つ事になった。民主党なら空白選挙区だらけなので民主党で国会議員を目指す事になったのだろう。毎日のように辻立ちをするも二度選挙では落選して今回初当選した。8年近くも肩書きのない民主党員として活動してきた。
今回当選できなければ次回からは公認も得られないかもしれない崖っぷち選挙でしたが、風は民主党に吹いた。ネットウヨから見ると民主党は旧社会党的な左翼政党に見えるのでしょうが、民主党は自民党からはじかれた人材を拾い集めてきた政党であり、旧社会党からの民主党議員は多くなく横道グループぐらいだ。
だから今回の自民党の大敗北は世代交代選挙であり、世襲候補に対する無党派層の反発が民主党に流れた事で生じたのだ。自民党も世襲候補を制限しようという動きはありましたが、小泉進次郎を自民党公認にしたい元総理の圧力で世襲候補が認められた。確かに世襲候補は選挙に強くて若さをアピールする事ができる。今回の選挙でも生き残った自民党議員の半数が世襲議員たちだ。
長尾議員のブログにかかれているように街頭宣伝活動は2500回を越えていますが、日常の辻立ちでは立ち止まって聞いてくれる人もおらず、集会を開いても5人とか2人しか集まらないような時もある。そのような日常にお坊ちゃん育ちの世襲候補者が堪えられるはずがない。政治家はあくまでもやる気のある人でないと務まらない。
長尾敬議員によれば、日本経済の長期低迷の原因は日米構造協議にあるらしい。それなでは日本はハイテク技術でリードしていたのにアメリカの妨害で予算が土木工事に向けられてしまった。だから熊が出るようなところにも高速道路が作られて、誰も通らない橋がかけられ続けた。もしそれだけの金を科学技術振興向けられていれば、ITやヒトゲノムなどで遅れを取る事はなかったはずだ。
ドイツなどでは米独構造協議などというものはなかったからエコロジー科学分野で進歩しましたが、同盟国のアメリカは日本の足を引っ張ることで躍起になっている。道路族議員がアメリカの協力者なら、竹中平蔵のような構造改革論者もアメリカの協力者であり、日本の国際競争力を阻害して科学技術を遅らせる事が彼らの使命なのだろう。
野口悠紀夫教授も物作りは止めて金融立国を目指せと言っていましたが、そうしていれば日本はアイスランドのようになっていただろう。90年の海部内閣では日米構造協議を受け入れ宮沢内閣では年次改革要望書を受け入れた。もはやアメリカは悪意のある同盟国であり、米中はG2で日本を封じ込めようとしている。自民党政権はアメリカに妥協を重ねて日本の国益を害してばかりいる。
先日は鳩山論文がアメリカでは反米だとアメリカの知日派が攻撃していますが、グローバリズムを批判して金融資本主義を批判する事が反米になるのだろうか? このような思想的な流れがあるから民主党が勝った背景にあるのだろう。自民党ではアメリカにNOと言うことが出来ないから民主党にNOと言わせたいのだろう。
今回の民主党内閣の組閣を見れば自民党の経世会が主要なメンバーになり構成されるようだ。経世会は竹下派と小沢派に分裂して小沢一郎は自民党を飛び出して細川内閣を成立させた。それに対して自民党は社会党を取り込んで政権の奪取に成功した。このように見れば自民党も民主党も右派も左派もごちゃ混ぜの政党であり、大して変わりがない政党になりつつある。
民主党が政権をとったことで業界団体も民主党に献金が集まるようになって、朝鮮総連のような怪しげな団体から金を集めなくとも良くなり、金の流れが変われば民主党もまともな政党に生まれ変わるかもしれない。自民党内の総裁選挙のごたごたを見ても自民党の再生はかなり先になるだろう。小泉チルドレンも10名に減り世襲議員も50名ほどに減った。残りの200を超える選挙区で有能な新人をスカウトして選挙に立てるべきだろう。
しかし、おそらくそれは出来ない。昨日のテレビを見ても石破氏や菅氏が出ていましたが、思い切った若手を登用することは無理なようだ。古いボス達も生き残り古い自民党を壊す力は若手にはない。当面は民主党の若い議員に期待するしかないだろう。
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