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2009年9月 5日 (土)
『売国者たちの末路』(祥伝社)の大増刷決定
6月26日付本ブログ記事再掲載
売国者たちの末路
著者:副島 隆彦,植草 一秀
販売元:祥伝社
Amazon.co.jpで詳細を確認する
副島隆彦氏との共著
『売国者たちの末路――私たちは国家の暴力と闘う』
(祥伝社、1680円)
の全国書店店頭での発売が開始されました。
ご高覧賜りますようお願い申し上げます。
お陰さまで、発売開始2日で大増刷が決定されました。
Amazon 等で品薄状況が生じており、ご購読希望の皆様には大変ご迷惑をお掛けしておりますが、順次商品が供給されると思いますので、ネットショップならびに全国書店にお求め下さいますようお願い申し上げます。
すでに、多くの皆さまからありがたい読後感などを賜っております。
副島隆彦先生の学問道場サイトでは、中田安彦様が貴重な書評を掲載下さった。心よりお礼申し上げるとともに、以下にその一部を転載させていただく。
「この本は出来るだけ早めにお求めになることをおすすめします。私は、普段はそういうことは思わないのですが、この本はたぶん、全国の書店で売り切れが相次ぐことになると予感しました。それだけ、この本に書かれている内容は、生々しいものなのです。
生々しい内容としては、94ページに書かれている、ある外資系ファンドの人々の植草評価である。植草先生の知人で外資系の債券回収業を日本で立ち上げた人物がいる。その人が、外資系ファンドの人たちの集まりの中で、参加者の外資系の人々が、口々に、「ウエクサはガリレオだ。ガリレオを火あぶりにしろ!」と叫んだと植草氏本人に話したという。
つまり、外資系金融業者が、竹中路線を否定する植草先生を「火あぶりにしろ」と叫んだというのである。この恐ろしいエピソードは、あの当時、主流派エコノミストにとって、小泉・竹中路線に反対することが命をかける行為だったのかを如実に物語っている。
この本では、副島隆彦先生は持論を述べるというよりは、植草先生の聞き役に回っています。経済学者であり、国策捜査の犠牲者になった、植草一秀先生の緻密な経済分析、そして自ら体験してきた日本の政界との関わりについて、熱心に聞きに回っているのです。
もちろん、聞き手のうまさ、相手から絶妙な答えを引き出す能力というのも対談本ではきわめて重要なのです。その点、副島先生の植草先生に対する合いの手は、要所要所で重要な証言を引き出すことに成功していると思いました。
植草先生は、数年前に、痴漢(ちかん)えん罪事件で警察に捕まってしまい、拘置所に勾留されている際に書きまとめた原稿を集めた本、『知られざる真実−勾留地にて−』(イプシロン出版企画)を出版されています。この本の内容も凄かったのですが、今回はこの本の流れをくみつつも、さらにストレートに「権力犯罪」の真相を語っているのです。」
「私が急いで読んだ印象では、この本の内容は大きく三つに分かれます。
一つ目が、現在アメリカを襲い世界に波及している、アメリカ初の世界金融恐慌についての分析です。ここで植草先生は、的確に数字を引用し、現在の危機の深刻さについて議論を展開します。植草先生は、一級のエコノミストであり、この本でも書かれていますが、おそらく、竹中平蔵や小泉純一郎元首相のような「アメリカの手先」勢力の謀略にはまってしまわなければ、金融大臣になっていただろうと言われる人物です。(本書、83ページ前後)
二番目が、そんな有力エコノミストである植草先生に襲いかかった、痴漢の罪をでっち上げて、「破廉恥(はれんち)罪」というレッテルを貼り、拘置所に閉じこめ、社会的に抹殺しようとした、「国家権力の手先」との熾烈な戦いの記録です。
「対談集なので、三つの論点は、話の流れに沿って随時、説明されていく。植草先生は、大蔵省で働いていたこともある人なので、若い頃の竹中平蔵の姿も実際に見ている。この時代の目撃者である植草先生の証言は、実に生々しいものである。」
「さて、この植草×副島対談本『売国者たちの末路』の内容について、私としては、詳しく引用して紹介したい。そういう欲望に駆られた。しかし、それでは本が売れなくなる。だから、私が読んでみて、強く印象に残った部分を一カ所だけ引用したいと思います。
植草先生は、竹中平蔵・元金融大臣と小泉純一郎・元首相の二人が実際に政権担当していたときに起こった権力の乱用(りそな銀行救済を巡る自民党議員のインサイダー取引)、そして、最近の「かんぽの宿」の安値払い下げの問題までカバーしている。
植草氏は、「かんぽの宿」のオリックス(宮内義彦会長)への安値払い下げ問題には、払い受け企業の選定、その払い下げ価格を巡る資産価格査定について、外資も関与した不可解な状況があるとして次のように述べている。本書の一〇〇ページ以下から引用してみよう。」
本文はぜひ、「副島隆彦の学問道場」様の「今日のぼやき」をご覧くださいますようお願い申し上げる。長文の極めて示唆に富む講評を賜った。改めて深く感謝申し上げたい。
また、「植草事件の真相掲示板」にも、トミ様、「Aobadai Life」様をはじめ、多くの皆さまから感想を寄せていただいている、深く感謝申し上げたい。
以下に、トミ様と「Aobadai Life」様のご寄稿を転載させていただく。
「拝啓
たった今、『売国者たちの末路』―私たちは国家の暴力と戦う―を読み終えました。副島先生が、本書の冒頭に書かれた一節を拝読し、涙が溢れてきました。
「この対談本は、植草秀一氏と、私が現下の重苦しい金融・経済情勢、およびやがて来るべき民主党政権誕生への“生みの苦しみ”の最中に編まれた。植草さんは、“小泉・竹中構造改革政治(2001〜2006)”の荒れ狂った嵐の中で、日本国でいちばんひどい目にあった人である(後略)」と書かれています。
「生みの苦しみ」「日本国でいちばんひどい目にあった人」という文字が胸に迫ってきました。こうした現実の中に植草先生がおられる。厳しい状況であるのに、先生は毎日ブログを発信して下さり、私たちはそのことを励みにしている。そんな日々の光景が急に蘇り、胸がいっぱいになってしまったのです。
本書は、政治・経済の過去と現在の真実が凝縮されています。私たちは未来をどうしなくてはならないのかも分かりやすく書かれています。日本が忘れてしまった「信念」と「勇気」が溢れています。
特に、箱崎のロイヤルパークホテルで、小泉純一郎氏に激しく攻撃された場面は壮絶なるものでした。それでも一歩も信念を曲げなかった植草先生に、私の心は揺さぶられました。目の前においしい地位と名誉がありながらも、先生は魂を売ることをしなかったのです。その結果、日本で一番ひどい目にあったのです。何も語らなくとも、このことが先生の全てを語っている、と強く感じた部分です。
本書の「あとがき」で、植草先生は、「私は幸せな人間だと痛感する。思えば、筆舌に尽くせぬ日々を送った過去5年間だったが、苦しみに勝る喜びを得ることができた(後略)」と、本書出版にあたり、副島先生への感謝の意を述べられておられます。
日本で最も秀でた識者であられ、なおかつ、心の温かい、心の深さを同時に兼ね備えた植草先生と副島先生の存在は、私たち一般国民の輝きそのものです。日本の未来は明るい、と今確信を持つことができます。植草先生、そして、副島先生にこころより感謝申しあげます。どうも有難うございます。
敬具 トミ」
「まさに、これ以上ないタイミングで、すごい本が出版されたものだ。
今週発売したばかりの副島隆彦氏と、植草一秀氏の共著、
『売国者たちの末路 -私たちは国家の暴力と闘う- 』
を、いっきに読み上げた。
この本は一人でも多くの人に読んでいただきたい。
amazonの書評レビューの勢いも発売間もないのにすごく、
間違いなくベストセラーになると確信しているが、
願わくば、インターネットで真実を知ることのできない
お年寄りや、情報弱者の人々にこそ、
の本を手にとって、今、日本がどういう状況にあるか、
ということを知ってほしいのである。
僕は昨日、アマゾンより入荷。読み終わりました。
内容は教えません。営業妨害になるからです。^^」
多くの皆様のご支援に心から感謝申し上げたい。
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売国者たちの末路
著者:副島 隆彦,植草 一秀
販売元:祥伝社
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知られざる真実―勾留地にて―
著者:植草 一秀
販売元:イプシロン出版企画
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2009年9月 5日 (土) 著書・動画配信紹介 | 固定リンク | トラックバック (0)
[新世紀人コメント]
植草さんは菅原道真公のような人であると考えている。
尤も、道真公は重用されてか追放されたのだが、植草さんはまだ重用されてはいないので、道真公とは逆の運命を辿るのかもしれない。
そのようになって貰いたいものだ。
道真公は学問の神とされているが、首肯できるものである。
副島氏が植草氏とは意見の異なる処があっても(私も副島氏と意見を事にする場合がある)彼を支援・応援するのは彼の中の根底的な学問への愛の為せるものであろう。
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/shiru/kankou.htm
菅原道真公
菅原氏は、古代豪族の土師氏の出身で、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったのです。時代は、嵯峨天皇の時代を頂点として、「文章経国」すなわち学問を盛んにして国をつくるという方針のもと、唐風の文化の最盛期を迎えていました。
道真公は清公(きよきみ)公、是善(これよし)公と続く文章博士(もんじょうはかせ)の家系に生まれました。母は、少納言伴(大伴)氏の出身です。わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格し、30歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けました。一時、讃岐守という地方官へまわされましたが、そこで、むしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われたのです。京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。そして、55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられましたが、その直後、急転して大宰府左遷となりました。
大宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、天を怨まず国家の安泰と天皇さまの御平安をお祈りし、ひたすら謹慎され、配所から一歩も出ることはなかったようです。劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真公を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜3年(903)2月25日、白梅の花びらが散るように亡くなったのです。
御遺骸は、門弟の味酒安行によって、大宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が創建されました。その後、朝廷でも罪なきことが判明し、人から神の御位に昇り、天満天神、学問の神・文化の神として現代に至るまで永く人々の信仰を集めています。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F/
菅原道真(すがわらのみちざね) (845―903)
平安前期の律令(りつりょう)官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善(これよし)の子で母は伴(とも)氏。本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。従(じゅ)二位右大臣に至る。
承和(じょうわ)12年6月25日、父祖三代の輝かしい伝統をもつ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ向学心も旺盛(おうせい)で、862年(貞観4)18歳で文章生(もんじょうしょう)となり、870年対策(たいさく)に及第、877年(元慶1)文章博士(はかせ)となった。その間、少内記に任じて多くの詔勅を起草、また民部少輔(しょう)として朝廷の吏務に精勤する一方で、文章の代作や願文の起草など盛んな文章活動を続け、880年父是善の没後は、父祖以来の私塾である菅家廊下(かんけろうか)を主宰、宮廷文人社会の中心となった。886年(仁和2)讃岐守(さぬきのかみ)に転出したが、翌年宇多(うだ)天皇の即位に際して起こった阿衡(あこう)事件には深い関心を寄せ、入京して藤原基経(もとつね)に良識ある意見書を提出、橘広相(たちばなのひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのである。890年(寛平2)国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢(ばってき)され、893年参議、左大弁に登用されて朝政の中枢に携わることになった。たとえば894年遣唐大使に任命されたものの、唐朝の混乱や日本文化の発達などを理由に奈良時代から続いた遣唐使を廃止し、895年渤海使(ぼっかいし)を応接、その翌年には検税使の可否を再評議するべき奏状を奉るなどの事績を残している。その間も官位は昇進を続け、中納言(ちゅうなごん)、民部卿(きょう)、権大納言(ごんだいなごん)、春宮大夫(とうぐうだいぶ)、侍読(じとく)などの任にあたっていた。897年宇多天皇は譲位したが、その遺誡(いかい)により醍醐(だいご)天皇は藤原時平(ときひら)とともに道真を重用、899年(昌泰2)時平の左大臣に対して道真を右大臣に任じた。しかし当時の廷臣には儒家としての家格を超えた道真の栄進をねたむ者も多く、900年には文章博士三善清行(みよしきよゆき)の辞職勧告に接している。また他氏を着々と排斥してきた藤原氏にとって道真は強力な対立者とみなされており、901年(延喜1)従二位に叙してまもなく、政権と学派の争いのなかで時平の中傷によって大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された。そして大宰府浄妙院(俗称榎寺(えのきでら))で謹慎すること2年、天皇の厚恩を慕い望郷の思いにかられつつ、延喜(えんぎ)3年2月25日配所で没した。福岡県太宰府(だざいふ)市安楽寺に葬られる。
このように政治社会では挫折(ざせつ)したが、学者・文人としての道真は死後学問の神と崇(あが)められてきたように、当時から高く評価されていた。独自の構成をもつ『類聚国史(るいじゅうこくし)』の撰修(せんしゅう)はとくに有名であり、『日本三代実録』の編集にも参加。文学上の業績は「文道の大祖、風月の本主」と尊敬され、その詩文は『菅家文草』『菅家後集』にまとめられている。和歌にも巧みで、配流されるとき詠んだ「東風(こち)吹かば――」の歌は古来人口に膾炙(かいしゃ)した。その晩年が悲惨であっただけに死後の怨霊(おんりょう)に対する怖(おそ)れは強く、まもなく本位本官に復し、993年(正暦4)正一位太政(だいじょう)大臣を贈られるとともに、天満天神(てんまてんじん)として全国的に信仰された。京都北野天満宮(てんまんぐう)は道真を祭神として10世紀なかばに創立されたものである。
[執筆者:谷口 昭]
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菅原道真
伝説
1. 伝説
その説話は、『大鏡』巻2時平伝や『北野天神縁起』などにみえる。右大臣まで異常な昇進をするが、大宰権帥に左遷され、悲劇の一生を終えたために付加された後人の伝説も多い。死後の霊は天満自在天となり青竜と化して、時平を殺す。彼の霊が雷神として祟(たた)ったり、神と化した話は、当代の御霊(ごりょう)信仰からきたものである。荒(すさ)ぶる神としての性格のほかに、飛梅(とびうめ)や飛松の伝説も各地にある。左遷にあたって「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」と詠んだ自邸の庭の梅の木が、後世に筑紫(つくし)などに飛んでいったとするものである。また左遷の途次の道筋に沿っての地名起源伝説なども、その哀れさをとどめる。雷神が天神として田の神として祀(まつ)られる地方が、東北、北陸など道真と関係のない地域にも残っている。雷雨によって水をもたらす利益が農神としての性格を残したものであろう。そのほか一夜(いちや)天神や渡唐(ととう)天神などの伝説もある。
[執筆者:渡邊昭五]
目次:菅原道真
伝説
カテゴリ一覧:歴史 > 日本史古代 > 平安人名
文学 > 日文古典人名 > 中古
関連情報参考文献
坂本太郎著『菅原道真』(1962・吉川弘文館)
阿部猛著『菅原道真』(教育社歴史新書)
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[日本大百科全書(小学館)]
関連項目
「菅原道真」の関連項目
菅家後集
菅家文草
北野天満宮
太宰府天満宮
天神信仰
お知らせ
2009年8月31日
海外企業などの項目、関東大震災の記録写真や浮世絵などを追加しました
2009年7月30日
「サーチャージ」などの時事項目、イタリアの写真などを追加しました [ 一覧 ]
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