今まで誰にも言わなかったことだ。言えなかったのだ。26年間、胸の中に閉じこめてきた。言えば「卑怯者め!」「それでも男か!」と糾弾されただろう。それが怖くて言えなかった。でも、今なら言ってもいいだろう。 小林正樹監督の超大作映画「東京裁判」が封切られた時だ。5時間ほどの長い映画だ。記録映画だ。戦争に突き進む日本。その日本を取りまく世界の情勢。戦争、敗戦、裁判…と。日本の近代史の全てがここにあった。日本史の教科書など読まなくてもいい、この映画さえ見ればいい。そう思った。 この映画が公開されたのは1983年だから、もう26年前だ。一般公開に先がけて試写会があった。何回かに分けて試写会場でやるのではない。大きな会場で、ドカンと一回やる。試写会そのものが一大イベントだ。政治家、学者、評論家、作家、映画人…など多くの人が招かれた。そんな有名人に混じって、何故か、無名の僕も呼ばれた。その会場で、バッタリと「あの人」に会ったのだ。 場所はどこだったんだろう。映画館かホテルではなかったと思う。いや、九段会館か東條会館か。まさか日比谷公会堂ではないだろう。あそこは、 1960年に社会党委員長の浅沼稲次郎が17才のテロリスト・山口二矢に刺殺された場所だし。(ネットで調べたら、有楽町よみうりホールだった) ともかく、試写会は始まった。超満員だ。長い映画だから途中に休憩がある。ロビーに出た。その時、バッタリと「あの人」に会った。混雑してたので、体が触れる位の近さだ。正面から会ったのだ。アッと叫んだ。その瞬間、SPが二人の間に割って入った。そして、「その人」を取り囲むようにして、サーッと去ってゆく。一陣の風だ。 日本共産党の野坂参三だった。日本共産党のトップだ。「しまった!」と思った。チクチョウ、殺(や)ればよかった!と思った。本気で思った。本気で悔しかった。こんなチャンスは、めったにない。神が与えてくれた絶好の機会だ。天佑神助だ。それなのに、そのチャンスを逃した。自分で自分を責めた。呪った。 勿論、右翼仲間にも言えない。言ったら罵倒されるに決まっている。「そんなチャンスを逃すなんて、それでもお前は右翼か!」「卑怯者め!」「恥を知れ!」と言われる。「責任を取って自決しろ!」と言われるかもしれない。そこまで考え、自分を責めた。 「国賊・野坂参三」を殺したら英雄になれたのに…。一瞬の判断が出来なかった自分の不甲斐なさに苛立った。刑務所に行くのは怖くない。むしろ、勲章だ。日本を救った英雄なんだから…。 刃物は持ってない。出会うのが分かっていたら持って行ったのに。でも、素手だって、殴りかかる事くらいは出来る。1975年に、三木武夫首相は愛国党の青年に殴り倒されている。だから、やる気さえあれば素手だって襲撃できるし、<天誅>を加えることは出来る。 それに、こんなビッグなターゲットはいない。1960年、山口二矢は浅沼委員長を刺殺したが、この時、実はターゲットを三人にしぼっていた。「国賊」三人だ。日本共産党議長の野坂参三と、日教組委員長の小林武。そして社会党委員長の浅沼稲次郎だ。一番殺したかったのは野坂だった。沢木耕太郎の『テロルの決算』(文春文庫)に詳しく書かれている。山口は、共産党の支援者のふりをして偽名で野坂の自宅や共産党に電話をした。でも野坂の日程はつかめない。そんな時、共産党の衆議院候補の演説会のポスターを見つけた。電柱に貼られていたのだ。そこに応援弁士として野坂が来ると書いてあった。1960年 10月13日、新宿生活館だ。この時しかないと山口は思った。 ところが前日の10月12日、読売新聞の告知欄で三党首立会演説会の開催を知る。山口は迷う。「翌13日、新宿生活館で野坂参三を殺す」と決めていた。でも、共産党員が多く来る。山口は街頭で左翼の隊列に何度も襲いかかっている。顔を知られているかもしれない。それに比べたら、三党首立会演説会は公開のものだし、一般を対象にしているのだろうから自由に入れるはずだ。それで急遽、ターゲットを変える。野坂から浅沼に変えたのだ。 もし山口が読売新聞を見なかったら、当日、日比谷公会堂には行かなかった。浅沼は殺されなかった。翌13日に野坂を殺しに行った。しかし、テロルに成功したかどうか。多分、難しかっただろう。しかし、命拾いした野坂は晩年、90才を過ぎてから「スパイ」だと決めつけられ、共産党を除名された。哀れだ。60年に山口に殺されていれば、右翼にとっては「国賊」でも、一般の人にとっては「殉教者」だ。共産党の輝ける星として、英雄として死ねたのに…。かわいそうだ。テロからは逃れたが、もっと酷い屈辱が待っていた。 僕が試写会でバッタリ会った時も、野坂はまだ輝ける星だった。その時、テロリストの刃に倒れていた方が、幸せだっただろう。野坂の名誉を守る為にも殺してやればよかった。 勿論、そんな考えは間違っている。僕もクレイジーだった。今なら冷静にそう考えられる。でも、26年前は「獲物を逃した!」という悔しさで、夜も眠られなかった。男になりそこねた。殺していたら、俺も英雄だ。野坂だって英雄のままに死ねたんだ。そう思った。 右翼にとっての「国賊」は、社会党、共産党、日教組のトップだ。実に分かりやすい。そのうち一人でも殺せば英雄だ。又、一人でも斃せば世の中が変わる。そんな「手応え」のある時代だった。 今は、そんなことはない。「こいつさえ殺せば世の中は変わる」という大物はいない。テロのターゲットはいない。26年前の「テロリスト志願の青年」(僕だ)にとっては、それは淋しいことでもある。 世の中も変わり、この「青年」も変わった。今では「ターゲット」たちに会っても、ニコニコと笑って話している。殺気などない。向こうだって全く警戒しない。日教組の歴代委員長の何人かとテレビで一緒に出て話をした。2005年には『論座』(6月号)で日教組委員長の森越康雄さんと対談し、「国旗・国歌強制反対」では意気投合した。共産党の人たちともテレビ討論でよく一緒になる。日本共産党のNo.4だった筆坂秀世さんとは、『私たち日本共産党の味方です』という本まで出した。そして社民党の人達だ。何と、一番友人が多い。土井さん、福島さん、保坂さん、辻元さん、阿部さん… と、皆親しい。「同志」のような感じだ。土井さんなんて、テレカまで持っている。大切にしている。 今年の7月25日、岩波ホールに「嗚呼満蒙開拓団」を見に行って、バッタリと村山富市さんに会った。感動して一緒に写真を撮った。まるでミーハーだ。26年前、試写会場で野坂参三に会った時の衝撃・動揺・殺意といった激越な思いはない。思い詰めた、純心なものもない。「堕落したんだ!」と26年前の「テロリスト志願の青年」に叱られた。
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