★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK69 > 229.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090811/173838/?P=1
2009年8月11日
米国では原爆投下を正当化する意見が多数派を占める
日本では8月には核兵器についての議論が高まる。言わずもがな、8月の6日が広島、9日が長崎と、それぞれ原爆投下の記念日だからである。一瞬にして無数の無辜の同胞の生命を奪い、後世代にもむごい傷跡を残した核兵器の使用を改めて否定する敬虔な儀式には心からの敬意を表したい。
今年の広島、長崎での記念の追悼式典は特に盛り上がりをみせた。米国のオバマ大統領が4月のチェコの首都プラハでの演説で核兵器の廃絶を求める意図を示す演説をしたからだろう。オバマ大統領はこの演説で「米国は核兵器を実際に使用した唯一の国として、核廃絶への行動を起こす道義的責任がある」と言明した。この言葉からは直接ではないが、広島や長崎に原爆を投下したという行為にも「道義上の問題がある」とする認識がおぼろげながらにじむようにも受け取れる。
だが米国側ではなお現在にいたるまで、「日本への原爆投下は正しかった」という意見が多数派である。米国政府は公式にもその立場を崩していない。8月5日に日本の新聞各紙でも報じられた米国の大学の研究所による世論調査でも、広島と長崎への原爆投下は「正しかった」と答えたのが全体の61%、「まちがいだった」と答えたのが22%という結果だった。米側の論理としては、原爆投下は日本の降伏を早め、その結果、多数の人命が救われた、というのである。だがこれはあくまで戦争の一方の当事者の考え方である。日本側としては、あの大規模な無差別殺戮を「正しかった」とは絶対に言えない。人道上や道義上の観点から、米国の原爆投下を判断のまちがいだとして糾弾すべきだろう。
なぜ、広島や長崎は米国への非難声明を出さないのか
だが被害者である広島や長崎の側からは少なくとも例年8月の式典での宣言などを聞き、読む限り、米国の原爆投下自体への非難は明確には浮かんでこない。米国の核兵器使用への人道的や道義的な責任を追及する声が聞こえないのだ。広島市の秋葉忠利市長は毎年8月6日の「平和宣言」では米国の近年の政権の核政策などを非難はしているが、肝心の原爆投下自体への糾弾は述べていない。秋葉市長自身とは異なるが、ソ連や中国との連帯を土台に日本での反核運動を動かしてきた活動家たちの間では、むしろ「日本の軍国主義が悪いから原爆投下という事態を招いた」という見解が珍しくないようだ。
広島市の原爆死没者慰霊碑の碑文も、原爆を投下した米国を責めずに、逆に日本側を非難する傾向をうかがわせる。碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。ごくふつうに読めば、「過ち」を犯したのは日本側だという意味にとれる。つまり文章の主語は日本側だと受け取れる。日本側が被爆者をも含めて、ひたすら「過ち」を謝罪しているように読めるだろう。米国への非難はツユほども感じられない。この碑文は慰霊碑が1952年8月に建立されて以来、何度も論議の的となってきた。一般市民からも「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」とか「原爆を投下したのは米国側だから『過ちを繰り返させない』とすべきだ」というような批判が出ていた。
しかし碑文を書いた当時の雑賀忠義広島大教授や浜井信三広島市長は「過ちとは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味する」と主張した。そして、「過ちは繰返しませぬ」という文章の主語は「人類全体」だとする解釈を打ち出したのだった。だがもし主語が人類ならば、なぜ人類と書かなかったのか、という疑問が残る。それになによりも、この日本語を日本人が普通に読めば、大多数が「過ち」を犯したのは日本側だという意味に受け取るという現実が残るといえよう。
東京裁判で日本人被告の無罪を主張したインドのパール判事も建立後まもない慰霊碑を訪れた際、通訳を介して碑文の内容を聞いて「日本人が日本人に謝罪している」と述べ、「原爆を落としたのは日本人ではない。落とした米国人の手はまだ清められていない」と語ったという。パール判事は原爆投下の正当化論をも激しく非難したのだった。だがその種の非難は日本側の被爆者サイドからはまず出てこないといえる。
テレビ討論会で原爆投下への非難を明確に表明
実は私自身は米国のこの原爆投下への非難を米国CNNテレビの討論会で明確に表明したことがある。そのことにはささやかな誇りを覚えている。CNNの「クロスファイア」という討論番組に招かれた際だった。そのときの論題がずばり「広島、長崎への原爆投下は必要だったのか」だった。この番組は「十字砲火」というタイトルが示すように時の話題への賛否を激しく自由に討論するという内容である。私が出演したのは1994年12月の番組だったが、テーマの今日性は現在もまったく変わっていない。
番組の司会役は先代ブッシュ大統領の首席補佐官だったジョン・スヌヌ氏と政治評論家のマイク・キンズレー氏、ゲストは広島と長崎の原爆投下の両ミッションに加わって、出撃したチャールズ・スウィーニー退役海将、『原爆外交』という書を出した歴史学者カール・アルペロビッツ氏、それに私だった。
討論の冒頭ではスヌヌ氏が「原爆投下は日本の戦意をくじき、戦争を早く終わらせたから、必要だった」と述べ、「日本軍の不屈の戦闘による犠牲者の数の多さ」を強調した。スウィーニー氏も「翌年の始めに予定された日本本土上陸作戦での死者の多さの予測を考えれば、当時のトルーマン大統領の原爆使用の決断は正当化される」と語った。米国側からみての投下正当の主張だった。その論理はすでに私もよく知っていた。だが日本側に立っての原爆投下への非難を正面から表明した。
「原爆投下の時点では米側はもう日本の降伏を確実だとみていた。ソ連の参戦もあり、とくに2発目の長崎への投下は戦争の早期終結が目的ならば不必要だった。もし日本側に原爆の威力を示すことが目的ならば、無人島にでも過疎地にでも、投下すれば、十分だったはずだ。合計20万以上の民間人の犠牲は、戦争継続の場合の戦死者の予測数では正当化はできない」
日本側だけが反省する必要はない
思ったことを一気に語った。すると、アルペロビッツ氏は歴史学者の立場から発言すると予告したうえで、米国政府首脳は当時、日本の全面降伏が近いことを知っていたし、当時の米軍最高部にも投下への反対意見が存在したのだ、と語ったのだった。日本側の民間人の少ない海軍基地に示威投下をするという計画もあったのだと言う。私の主張には支えとなった。
だがスヌヌ氏やキンズレー氏は日本軍のパールハーバー奇襲や中国などアジア各地での殺戮を持ち出してきた。もし日本軍が原爆を保有していれば、まちがいなく使っただろう、とも断言した。だから原爆投下はやむを得ず、正当でさえあった、というのである。私は主張は変えなかったものの、スヌヌ氏らの意見も米国の立場に立てば、それはそうだろう、と内心、感じた。異なる国同士が総力で戦い、殺しあう戦争では一方にとってのプラスは他方にとってはそのままマイナスとなる。
戦争にまで考えを致さなくても、伊藤博文を殺した安重根はテロリストか、英雄か、を考えれば、この種の議論の正解がただ一つだけではありえないことがよくわかる。ゾルゲは邪悪なスパイか、それとも救国の革命家か。現代のテロでも、一方にとってのテロリストは他方にとっての殉教者となる。原爆投下の適否も考える側が自らを日本側におくか否かがキーなのだろう。広島や長崎から、日本側に立っての原爆投下自体への非難が発信されても、決して不自然ではないであろう。むしろ日本側が悪いと示唆する姿勢が不自然に映ってくる。日米関係の成熟度を考えれば、そのあたりの日本側としての本音の思考や心情を述べてもまったく支障のない時代がすでにきているのではないだろうか。
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK69掲示板
フォローアップ: