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植草一秀・副島隆彦共著 「売国者達の末路」より抜粋。
植草
(前略)
私は自分の事件の後、知人にこんな話を聞かされました。その知人は外資系の会社を日本で立ち上げて、日本で不良債権の買い取りと資金回収などをやっている人です。いわゆる外資一族とツーカーの関係にあるのですが、彼によると外資系ファンドの人々の集まりがあったとき、私のことが話題になった。そしてそこにいた人々が口々に言ったそうです。
「ウエクサはガリレオだ。ガリレオは火あぶりにしろ!」
副島
ガリレオは「天動説」を否定して「地動説」を唱えた。そしてその考えを曲げなかったから宗教裁判にかけられ、死ぬまで厳しい試練(Ordeal オーディール。異端審問)と苦悩を味わいました。
植草さんは今の日本で、まさしくガリレオと同じような目に遭ったことになる。
(後略)
http://www.tm-a.co.jp/cityInfo/Italy/pisa/galileo_New.html
ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei 1564-1642
ガリレイ家はフィレンツェ出身の小貴族であったが、ガリレオが生まれたのは父の仕事の都合で一家がピサに住んでいた1564年のことだった。10才の時に家族とともにフィレンツェに戻るが、17才でピサ大学に入学し医学を志す。大学在学中にピサ大聖堂の天井から下がっているランプの揺れを見て、「振り子の等時性」を発見した。のちに数学・物理学に転向し、25才でピサ大学の専任講師の職を得、数学を教えることとなる。この頃ピサの斜塔から「落下の実験」を行うが、これは当時の物理学で最高権威とされていたアリストテレスの著作に反していたため認められなかった。28才から46才までの18年間、パドヴァ大学の教授となり数学を教える。その傍ら、自ら制作した望遠鏡を用いて天体を観測し、「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見し、コペルニクスの地動説を証明した。このためローマの異端審問所に召喚され宗教裁判にかけられ、地動説に関する一切の著述・講義を禁止されてしまう。それでも所信を曲げずに書き上げた「天文対話」は出版禁止となり、再び宗教裁判にかけられ投獄されてしまう。69才という年齢に達していたガリレオは地動説を唱えることを放棄させられた。判決の際「それでも地球は動く」と言ったのは有名である。晩年のガリレオは長女を亡くし、失明するという不幸に見まわれる。71才で書き上げた「新科学対話」はイタリアでの出版が許されず、オランダから出版されている。1642年1月8日77才でその生涯を閉じるが、亡くなった時、彼の亡骸は家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。現在その墓は、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれている。
ガリレオの学問は「実験によって数学上の理論を証明する」という、近代自然科学の基礎を築いた。1980年、現在の法王ヨハネス=パウロス2世によりガリレオの宗教裁判が見直され、法王庁はこの裁判の誤りを認めた。法王によりガリレオの破門がとかれたのはなんと、その死から350年もたった1992年のことである。
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「振り子の等時性」
1583年のある日の夕方、ガリレオはピサの大聖堂に入った。中は薄暗く、天井から吊した大きな青銅のランプに灯がともり、大きく揺れていた。「灯をともすときに揺らしたのだな」と何気なくランプを見ている内にガリレオは気がついた。「だんだんと揺れはおさまってくるが、大きく揺れるのと、小さく揺れるのと、ランプがいって戻ってくるまでの時間は変わらないようだ」ガリレオは手首の脈を取り、時間を計ってみた。ランプは高い天井から鎖で吊されているのでゆっくりいって戻ってくる。揺れが小さくなっても脈の数はほぼ同じである。振り子が揺れて往復する時間は、振り子が揺れる幅で違うのではない。おもりの重さでもない。振り子の長さによるものだ。という「振り子の等時性」を発見したのはこの時だと言われる。
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「落体の法則」
2000年前のアリストテレスに始まり、キリスト教が認める学問では、地上の世界と天上の世界はまるで違うと信じられてきた。アリストテレスはこう言った。
「地上と天上ではものの動き方の決まりが違う。地上では火は上へ行き、土は下へ行く。石を持ち上げ、手を離すと下へ動くのは石を作っている土の元素が元々中心にある土へ帰ろうとするからで、たくさんの土の固まりは少しの土の固まりよりも早く元の所に帰ろうとするから、早く落ちる」
大学の講義でこれに疑問を持ったガリレオは実験を試みる。小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を持つと、ピサの斜塔に上っていった。294段の螺旋階段を上り、てっぺんに出ると、ガリレオは2つの玉を同時に落としてみた。地面に着いた音は1つだった。
アリストテレスはまた「地上のものは土・水・空気・火の4つの元素からできており、動き方はまっすぐ直線である。しかし天上は第5の元素エーテルでできていて動き方は太陽のようにまるく円を描く」とも言っている。アリストテレスに間違いがあると困るのは、尊い神のいる天上と罪深い人間のいる地上を分けておかねばならないキリスト教だった。
ガリレオの実験はアリストテレスの著作を批判するとして認められなかった。ガリレオが「落体の法則」を発表したのはこの実験から15年たった1604年のことだった。
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http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9/
(前略)
1501年コペルニクスはいったん帰国し、改めて留学延期の承認を得、ただちにイタリアに戻ってパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、03年フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、06年にはその学位を受けるまでに上達した。
この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めたに違いないのであるが、その直接の動機となったといわれる古代ギリシアのアリスタルコスの手記にどこの大学で接したかは明らかでない。
(後略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC
地動説(ちどうせつ)とは、地球が動いている、という学説のこと。ニコラウス・コペルニクスが唱えた。天動説に対義する学説である。太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。
(中略)
古代の地動説 [編集]
古くアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。
しかし、コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた。
特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことだ。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった[1]。
広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。これらは初期地動説とも呼ばれる。[要出典]
http://www.ffortune.net/social/seso/seiyo-kin/copernicus.htm
コペルニクスの地動説(1543)
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1543年5月23日、コペルニクスが「天球の回転について」を発表。この中で
事実上地動説を提唱しました。
数学的には回転運動に中心点は存在しませんので(回転する平面はどこを中
心点とみなしても構わないのが数学上の定理です)地球と太陽の内どちらが
どちらの回りを回っていると考えた方がいいのかについては、古来議論があ
りました。しかし中世のヨーロッパでは偏った宗教論議によって、太陽が地
球の回りを回っているという考え方(天動説)のみを教会は認めていました。
このため、コペルニクスの100年後に登場したガリレオなどは地動説は異端
であるとして宗教裁判に掛けられており、その名誉が回復されたのは現代に
なってなんと1985年のことです。
この天動説をもとにした場合、惑星の動きは「周転円」という複雑な手法で
計算されていました。各惑星は地球のまわりを回る円の上に中心をおく回転
する円の上を動いている、というややこしい話です。地球と太陽の相互関係
においてはどちらがどちらのまわりを回っていると考えても構いませんが、
他の惑星は太陽との関係で運動していますので、地球から見ると、こういう
めんどくさい話になってしまう訳です。
ここでコペルニクスは逆に地球の方が太陽のまわりを回っていると考えた方
がすっきりすることに気づきました。しかしコペルニクスは今はまだそれを
世に問う時期ではないと判断、これを単なる「天体位置の簡易計算法」とし
て発表します。お陰で彼はガリレオのように面倒な目にあわずにすみました。
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[新世紀人コメント]
この様な訳で、いわゆる地動説は古代からのものであり、それに接してコペルニクスはそれを理論的に彼なりの組み立てをしたわけです。
植草さんをガリレオだと叫んだ連中は天動説信者だったのか中世カトリック信者だったのでしょうかね?
他の例えをしなかった理由は何だったのでしょう?
まさかジャンヌ・ダルクとは言えなかったではありましょうが。
それで焦げ付きの火あぶりになったのは…誰?
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