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[希望のトポス]ウオール街『強欲金融ハゲタカの罠』を漫画版・郵政改革劇で見せたKY麻生の逆説的功績の活かし方(チェコ伝統の批判精神に学ぶ)
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090723
【参考画像】ブロンツィーノ 『愛のアレゴリー』
[f:id:toxandoria:20090723065406j:image]
Angiolo Bronzino(1503-1572)「An Allegory - Venus, Cupid」 Oil on Wood Completed in 1545 116.0cm x 146.0cm National Gallery London 、England
(参考画像の解説)
・・・ブロンツィーノ は、ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari/1511-1574)らとともにメディチ家の分家筋にあたるトスカーナ大公国のコジモ1世(Cosimo I de' Medici/1519-1574/スペイン皇帝の妹エレアノーラ・デ・トレド を后として迎えハプスブルグ家の支援を受けながらトスカーナ大公国の絶対君主制を確立した人物/現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設した)の宮廷画家を務めた人物で、博学な知識人でもあった。
・・・そのスケールは小ぶりながらもコジモ1世には、神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)のカール5世やフェリペ2世らと同様の精神的に偏ったフェティッシュかつパラノイア的な側面があった。それは、マニエリスム時代(反宗教改革の時代)に特有の擬似宗教体験に呪縛され一種のカルト化したアンバランスで異様な観念の存在であった。
・・・言い換えれば、それは「絶対王制時代の権力者」たちに共通する傾向であり、社会の底辺層や弱者層の人々に対する冷酷な“錯誤のリアリズム感覚”と洗練された極上の美意識との共存が救い難いほど深い断絶の影を落としているということだ。もはや、これら権力者たちは、多層社会化しつつ近代への一歩を歩み始めた、当時の社会的現実を直視す能力を失っていたのである。
・・・ブロンツィーノの『愛のアレゴリー』は、数多くの寓意的図像と洗練されたエロティシズムがモチーフで、その解釈には様々なものがある。その上、この『愛のアレゴリー』は、やはり紛れもなくマニエリスム時代の絵画であり、そこには、かつて一定の精神的な高みと理想を極めた盛期ルネサンス絵画とはまったく異質な空気が充満している。また、このブロンツィーノの頃から、絵画を学術的に解釈する方法として、従来の宗教図像学的なイコノグラフィー(Iconography)に代わり、イコノロジー(Iconology/絵画と社会背景や時代精神を結びつけて解釈する手法)が次第に意識されつつあったことも理解しておくべきである。
・・・個々の図像の象徴的な意味の詳細は省くが、現代イコノロジー理論の大成者であるパノフスキー(Erwin Panofsky/1892-1968)によれば、この絵画は「欺瞞・虚偽・嫉妬」などに囲まれ、「権力者が嵌った甘美な悦楽の世界」を「時間と真理」が罰するという倫理的教訓を描いているということになっている。
・・・しかしながら、近年の様々な研究の成果はパノフスキーとは異なった解釈を可能としている。例えば「真理」の象徴は左上端に描かれた仮面を被ったプロフィールで、「時間」の象徴は右上端の老人である。中央に書かれた様々な図像は「エロティシズム・不倫・近親相姦・嫉妬・倒錯・快楽・陶酔・欺瞞」などを表しており、老人の「時間」がカーテンを引いてこれらの姿を白日の下に暴こうとするが、なぜか左上端の「真理」は、それを思い止まらせるような仕草をしている。
・・・謂わば、コジモの宮廷(絶対的政治権力)が誇示してみせる「真理」(または正義)自身が曖昧で両義的なエロティシズムの罠に嵌っていたということになる。従って、これは当時の第一級の知識人でもあった画家ブロンツィーノが、絶対権力者コジモが君臨する堕落的な宮廷生活への批判を、密かにそのパトロンのための絵画の中に仕込んだということになる。そこには、現代的な意味でのジャーナリズム精神の原型が垣間見えるようである。
・・・少なくとも、このブロンツィーの『愛のアレゴリー』には、“嘘乳”(“郵政民営化”による偽装改革)を“巨乳”に(本物の改革)に見せ掛けた「小泉・竹中ポルノ劇場」の香具師(やし)的な詐欺行為のお先棒を担ぎ、今度は、その衣鉢を引きずる故のジレンマの苦しみで断末魔の雄叫びを上げた「麻生マンガ政権」の救済のため“東国春スケベ劇”の広報・宣伝に加担した現代日本のマスゴミに欠けるジャーナリズム精神が宿っているように見えるのだが、果たしてどうであろうか?
(グズでKYな麻生太郎・宰相の逆説的功績とは?)
ヴィジョンなき権限行使の失敗であったのか、あるい「小泉ポルノ劇場」の主役(小泉純一郎、竹中平蔵ら)の如き“詐欺師的な投機感覚の欠落が「10カ月に及ぶ無意味な迷走」を呼んだのか、そして挙句の果てに「腐れ果てた自民党に相応しく最悪時期(底値)の選択=7/21 “衆議院解散”」となってしまったのか・・・、いずれにせよ、小泉〜安倍〜福田に続き、グズでKYな我が麻生太郎・宰相に日本国民が、再び、莫大な“歳出の蕩尽”を伴うムダ飯を喰わせる結果となったことは慙愧に堪えないことだ(関連参照、下記★)。
★腐れ自民党にたかる“お笑い東国春とマスゴミ(=ねじまき住血吸虫クロニクル)の強欲劇”が意味するアフォリズム、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090708
ただ、唯一の救いと思われることがある。それは逆説的な意味ではあるが、このグズでKYな麻生太郎・マンガ宰相でなければ出来なかったと思われることだ。つまり、それは、小泉政権(小泉ポルノ劇場)が「2005.9.11郵政選挙(第44回衆議院選挙)」で計略的に築いた「美人局(つつもたせ)国家」のカルト的空気の背後に潜む米国型『マネー市場原理=強欲の罠』の存在を図らずも漫画チックに暴露してみせたことだ。なお、小泉の「美人局(つつもたせ)国家」がオボッチャマクン世襲政治家・安倍の「美しくも見え透いたヤラセ国家」という恥ずべき結末に繋がったことは未だ記憶に新しいはずだ(関連参照、下記◆)。
◆「美人局」から美しい「ヤラセ国家」へ変身したのか?暴政・ニッポン、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061104
このグズでKYな麻生太郎・宰相は、“漢字が読めない”など漫画ネタとなりそうなボロ(襤褸)を仰山アチコチでとり散らかしてくれたが、何といっても、その中の“白眉”は『郵政民営化のボロ=実はボロならぬ強欲の罠』の漫画的で理解しやすい示唆であった。一時は、“怒るというよりも、笑っちゃうくらい、ただただあきれている!“という小泉純一郎の恫喝的な逆襲に麻生がタジタジする場面もあったが、そこでは、鳩山・前総務相と麻生総理との間の掛け合い漫才風のコラボレーションガ功を奏した。
ともかくも、「郵政民営化」問題=西川社長vs鳩山総務相・対決の構図」で麻生首相が“鳩山更迭”を決断したことは、ウオール街のハゲタカ連中の計略に取り込まれ米国の“マネー市場原理主義の悪性ウイルスに感染してマネー市場原理主義カルト”と化した「小泉ポルノ劇場」が「米国政府+ウオール街」のソール・エージェント(総代理店)であったことの暴露に少しだけ接近したと見なすことが可能だ。つまり、漸く今頃になって・・・過半の日本国民が「郵政民営化問題」の底なしの闇(小泉劇場がハゲタカ市場原理の傀儡であったこと)と「小泉カルトの罪深さ」(それが非情な派遣切り、年3万人超の自殺者、福祉・医療・弱者切捨てなどの病源であること)に気づいたのは間違いなさそうだ。
(マスゴミが“コイズミの郵政民営化選挙”を煽って隠蔽したものとは)
そもそも初めから、少数派の意識的な人々にとっては周知のことであったのだが、コイズミ(小泉純一郎&竹中平蔵)とマスゴミが結託して隠ぺいしたのは、他ならぬ「米ウオール街の強欲=マネー市場原理主義」そのものである。その悪性ウイルスが異常増殖し、それがもたらす“ポンジー金融の大痙攣”(=金融世界における信用崩壊)が世界を覆い尽くしたのが、サブプライムローン問題に端を発し、リーマン・ブラザース破綻(2008.9.14)を引金に全世界へ伝播した「米発大金融パニック」だ。
大方の日本国民が、コイズミ(小泉純一郎&竹中平蔵)とマスゴミの結託が煽りまくった郵政民営化への雪崩込み現象なるユーフォリア(euphoria/なんら根拠がない上っ面の幸福感)の結果として、今や、「日本郵政株式会社」傘下の総計・約340兆円(郵貯銀行+かんぽ生命)の資産がウオール街の「強欲ハゲタカ」が仕掛けた罠の射程に入りつつあるという構図は、今も何ら変わっていない。それどころか、表面的な米国経済の復活傾向が囁かれ始める今こそ、その危機的状況は弥増すばかりだ。
(オバマ支持率低迷下で復活を狙う“強欲金融システム”の仕掛け人たち=マスゴミが小泉・郵政改革と結託し隠蔽したもの)
7/21付・ロイターは、オバマ政権の主要政策課題である「ヘルスケア改革」(医療面における国民皆保険制導入)に対する大統領の取り組みについての支持率が4月の57%から49%へ低下し、初めて50%を下回ったと伝えている。共和党と一部の保守派民主党議員が民間保険会社等の圧力下で、推定1兆ドル以上の同プログラムは財政赤字拡大の原因となり、多くの国民に医療の質の低下をもたらすと脅かしたことが効いているようだ。しかし、このような現実は、アメリカにおける市場原理主義と自由原理主義の根深さと底力の大きさを窺わせて、まことに不気味である。
しかも、更にそれより恐るべき事実がある。それは、あれだけ声高に「ウオール街の強欲」を非難し国民の大きな支持を得たはずのオバマ大統領が、実は、その「チェンジ体制」から“ウオール街の強欲金融システムの仕掛け人”たちを徹底排除できなかったという事実があることだ。例えば、オバマ政権の「米国国家経済会議」(NEC/National Economic Council)委員長に就任したローレンス・ヘンリー・サマーズは、首尾一貫してグローバル市場原理主義を強く主張してきた人物であり、彼はクリントン・民主党政権後半期に第71代アメリカ合衆国財務長官(在任、1999年 - 2001年)を務めている。
しかも、このサマーズ人脈の中枢には、1998年に巨大ヘッジファンドLTCM(Long Term Capital Management/ノーベル経済学賞受賞者2人、マートンとショールズらのスタッフによる高度な金融技術で高収益率を記録した1998年に破綻し投資家に巨額の損害を与えた/その契約総額は1.25兆億ドル(現価換算で約120兆円)に達した)の錚々たる経営幹部が名を連ねており、そのLTCM幹部の一人ロバート・マートン(同LTCM幹部のマイロン・ショールズと共にノーベル経済学賞を受賞)が、シティ・グループ傘下の「Travelers Group」(自らが投資部門担当重役を務めた)で金融工学を駆使し開発したのが今回の「米発金融大パニック」の犯人とされる「サブプライム・ローン」である。
更に注視すべきは、米国の五大商業銀行(シティ、バンカメ、J.P.モルガン・チェース、ワコビア、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー)のうち、直近の決算期についてワコビアを除く4行が好決算を発表していることである。しかも、「7/21・NHKニュース(AM7時〜 )」によると、その好決算の中身は、再び高度な『金融工学』を駆使した「カタストロフィー・デリバティブ型金融商品」だということである(バンカメは資産運用部門の売却が主とされるが・・・/関連参照、下記▲)。
▲米Mスタンレー第2四半期決算への楽観的見方強まる、ゴールドマンなどの好決算受け、http://jp.reuters.com/article/resultsNews/idJPnJS850270720090721
「カタストロフィー・デリバティブ型金融商品」と聞くと我われ門外漢にとっては耳新しく驚かされるかも知れぬが、この種の金融商品はかなり以前から存在していたもので、例えば「カタストロフィー・ボンド」(Catastrophe Bond)、「エネルギー・アービトラージ」(Energy Arbitrage/割安ポジション購入と割高ポジション売却の同時実行で大きな差益を得る取引)などがある。いずれも、その基本構造は、何らかの自然災害や事故が発生した時の一次的損失(直接損失)と二次以上の派生損失(間接的・波及的損失)をポートフォリオ的、分散的に組み合わせた商品パッケージである。
問題は、「マネー市場」の中で、これらのファクターが高度な金融工学理論とコンピュータ技術の活用によって並みの人間の頭脳では理解不能な水準まで限りなく複雑化し、広域化したことである。別に言うならば、それは無限の未来時間をも取り込みつつヴァーチャル化したことである。その結果、必然的にもたらされたのが実需を前提とする「実体経済」と際限ない欲望とヴァーチャルな時空を自由気ままに駆け巡る「自由原理主義の鬼(悪魔)?と化したマネー経済」の乖離ということである。
ところで、この「7/21・NHKニュース(AM7時〜 )」などが報じるところによれば、昨今におけるシティなど米国・商業銀行の好決算の背景には、今のアメリカでは、自然災害のみならず「テロ、戦争、地政学的リスク(地域紛争)」などをも対象とする新たな「カタストロフィー・デリバティブ型金融商品」が金融工学を駆使して続々と開発されつつあり、そのような傾向が、再び、世界のマネーをウオール街へ呼び戻しつつあるという驚くべき現実があるそうだ。
toxandoria(筆者)は安易に陰謀論へ与する立場ではないが、これでは、第二の「9.11」で米国経済を復興させ、併せて一儲けのビジネス・チャンスで私腹肥やしを企む不謹慎な輩が胎動してもおかしくはない。それこそ究極的な背徳の「マッチ・ポンプまたはポンジー・ビジネス(ネズミ講・詐欺ビジネス)」であり、さぞかし「郵政民営化選挙」で日本国民をまんまとペテンにかけた「小泉・竹中ポルノ詐欺劇場」も、あるいは スティーブン・スピルバーグまでもが被害者となった「マドフ詐欺事件」 の主人公・マドフ元NASDAQ会長もビックリであろう(関連参照、下記▼)。
▼「国家理性」を詐称し「雇用切り派遣村」(Jap. Shanty Town)を創った「小泉純一郎・竹中平蔵改革」の罪と責任、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090104
▼投資詐欺のマドフ氏、罪を是認する方向へ-最高150年の懲役に、http://jp.ibtimes.com/article/biznews/090311/31025.html
ともかくも、我われ日本国民は、米国オバマ大統領の「チェンジ体制」が、サマーズに限らず“国家的ポンジー・ビジネスの考案者”と思しき人物らの多くを政権中枢に呼び込まなければならなかった現実を直視すべきである。なぜなら、アメリカという国は、紛れもなくサマーズらの如き「自由原理主義と市場原理主義」に魂を捧げた“優秀なエリート”たちが支えてきた国であり、これら両原理主義に批判的なジョセフ・E・スティグリッツのようなアカデミズムの存在はむしろ少数派である。故に、だからと言ってオバマを今の段階で激しく非難することは短慮というべきものであろう。
(NHKスペシャル『マネー資本主義(全5回)』の締めくくりの不甲斐なさ)
世界を揺るがしている金融危機はなぜ起きたのか(強欲な投資銀行の実態、グリーンスパンらカリスマ指導者たちの誤算、金融工学の暴走など)をテーマとするNHKスペシャル『マネー資本主義(全5回)』は良い企画番組であったが、最終回の締めくくり方には不満を覚えた。つまり、それは「マネー資本主義の暴走の実態」をここまで的確に抉りながら、最終回では、殆ど素人に近いコメンテータらに、これからあるべき未来の資本主義経済と金融市場主義は“規制と自由原理の真ん中のホニャララを目指すべき?”という非常に幼稚で曖昧なメッセージを語らせるのに止めたことである。
米国オバマ大統領の重鎮であるローレンス・ヘンリー・サマーズらハーバード大学系の大物たちや「小泉・竹中ポルノ詐欺劇場」の機関車格であった竹中平蔵(ハーバード留学でサマーズの薫陶を受けたことが大いなる誇りらしい?)らへの政治的配慮かも知れぬが、ここまでドギツク暴走してポンジー・ビジネスの醜悪で悪魔的な姿を見せつけ、世界中の無辜の人々に非人道的な大被害を及ぼした以上は、その「マネー・金融市場」に一定の規制を課すべきだと明言すべきでなかったか?
あるいは、そこまで行かずとも、よりマネー市場原理主義に批判的な良識ある日本アカデミズム界で責任ある立場の人々を前面へ押し出す演出か、または「欧州連合の規制強化への傾斜の実態」などの現状、例えばマクロ・プルーデンスの考え方に基づく中央銀行の機能強化を視野に入れた欧州全域内金融市場のリスク監視に当たる「早期警戒システム」の創設、あるいは「社会的責任投資(SRI)」と「社会的金融」の実情などについて、より積極的な紹介が必要ではなかったか(関連参照、下記◆)。
◆NHKスペシャル(これまでの放送)、http://www.nhk.or.jp/special/archives/index.html
◆NHK「マネー資本主義」 投資銀行の大物次々、http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20090414et03.htm
◆EU、金融規制案を承認 「早期警戒」制度を創設、http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/103434
◆社会的責任投資(SRI)とは、http://www3.keizaireport.com/sp/socialinvestment.html
◆日本で初めて開催の「社会的金融」を考える国際フォーラム(東京)に近畿ろうきんが登場、http://www.rokin.or.jp/news/common/2008/0206_1100.html
(チェコ・アカデミズムの伝統を鏡とするKY麻生の逆説的功績の活かし方)・・・今こそ、マスゴミの汚名を晴らすべきメディアの出番だ!・・・
既に述べたことの繰り返しになるが、日本の主要なマスコミが「小泉ポルノ劇場が掲げた郵政改革の旗印」と結託しつつ隠蔽してきたのは、他でもない「ウオール街の強欲なハゲタカ(≒米国政府)が日本郵政株式会社(改革前は同公社)の傘下にある総計・約340兆円(郵貯銀行+かんぽ生命)もの巨額資産を狙っている」という恐るべき現実(最終的に株式の占有支配による経営権剥奪で、この巨額の円資産を米国債等ドル資産へ転換することが目的)であり、それは政権与党との蜜月下でマスコミ自身が批判力を抑制しつつ自己利益を優先させた結果でもある。
それこそ彼らがマスゴミ呼ばわりされた所以であり、そこへ日本アカデミズム界のアダ花とも言うべき大勢の御用学者らが加担してきたのが、その後の「小泉〜安倍〜福田〜麻生」の“自民党たらい回し政権”の舞台裏であった。それは、見方を変えれば、マスゴミと御用学者の共同演出による「詐欺〜偽装〜ヤラセ〜マンガ」劇場という国民騙しの連続であったとも言えよう。そして、KY麻生マンガ首相は、図らずも、その「ウオール街の強欲なハゲタカの代理人が小泉&竹中であったこと」を実に分かりやすく、ポンチ絵(漫画)風に国民の前に開陳してくれた訳である。それは、麻生首相の漫画好きによるというよりも、彼の“言語能力の稀に見るほどの希薄さ”故であったのかもしれないが・・・。
歴史的な経緯の詳細は省くが、チェコ・アカデミズムには、ロシア・フォルマリズム(Русский формализм/参照 → http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no23/11kondo.pdf)の遺産を受け継いだ世界でトップクラスの言語学である「プラハ言語学派」の伝統が今も息づいている。そして、そのチェコには、11世紀の“ドイツ人植民時代”以来の約1000年に及ぶ、ドイツ語圏(主に神聖ローマ帝国領)内における非常に長い時間の中で、チェコ語がドイツ語に決して埋没し得なかった(意志的に埋没させなかった!)という現実があり、このようなチェコの歴史は現代の我われに何か重要なメッセージを発しているようだ。
「プラハ言語学派」の基礎を築いたのはソヴィエトから移住したロマン・ヤコブソン(Roman Jacobson/1896−1982/モスクワ生まれだがチェコのプラハ大学で活躍した世界的言語学者)であるが、この学派の基本的考え方の中にあるのが「世界の明視」(ビジョンの把握)、「日常言語」、サブカルチャー的あるいはアバァンギャルド(avant-garde)的ニュアンスでの「詩的言語」の役割ということである。
因みに、20世紀前半のチェコを代表する作家で「ロボット」(robot/チェコ語で奴隷・賦役労働を意味するコトバからの転用)を造語したことで知られるカレル・チャペック(Karel CAPEK/1890−1938)は、「プラハ言語学派」の研究者たちと交流があったが、チャペックのテーマは“人間の愚かさが高度な技術と結びついた時に何が起こるか?”ということであった。そして、このテーマは「金融工学とコンピュータ・Web技術」が跋扈する現代でこそ、ますます重いものとなりつつある。
言うまでもなく、国語としての日常言語は、市民生活の全てを規定するが故に、安定的な市民社会の維持のために求められる正確な情報伝達の役割を担うと同時に「政治権力」に仕える規範の道具になり易いという宿命的な脆弱性を帯びている。しかも、規範の道具と化した日常言語で覆い尽くされた日常世界がいかに窮屈で息苦しく生きにくいものであるかは言うまでもない。
また、市民生活の日常は「会話と口語」で満ち溢れており、それも広い意味での「詩的言語」と見なすことが可能だが、この「詩的言語」の役割は日常言語の世界を絶えず活性化し、その自在性と意外性の性格から規範的文脈を無視することもあるが、実は、そのような場面からこそ「新しい現実世界の発見」と「現実世界の明視」を可能にする機能が発見されることになる。後の「プラハ言語学派」は、言語そのものから次第に美学・社会学的な領域へ視点を移し、より広い意味での「世界の明視」を考察するようになる。
我われが生きる世界を堅固な一つの現実と見なすのは誤りである。例えば、我われ一般市民が仕事や家庭で喜怒哀楽を感じつつ日常を生きる現実、新聞等の文字ジャーナリズムが伝える現実、テレビ等の映像メディアが伝える現実、美術・彫刻・音楽・文学等の芸術作品が伝える現実、Webネットワークが伝える現実、法曹界・法律・行政規範等が構成・示唆する現実、各種学会等のアカデムズムが構築する現実、政治・経済など何らかの権力が構想する現実・・・云々ということになる。
ところで、「新聞等の文字ジャーナリズムが伝える現実」と「テレビ等の映像メディア・ジャーナリズムが伝える現実」を纏めれば「マスコミが作る現実」ということになるが、この「マスコミが作る現実」と「アカデムズムが構築する現実」に共通するのが“客観”、“中立”、“公正”の原則だ。マスコミは第三の権力と呼ばれることもあるが、その権力たる所以が「言語」(テレビでは映像と口語)であることは論を待たない。そして、今こそ「プラハ言語学派」を生んだチェコ・アカデミズムが何故に「言語」を特に重視してきたかを想起すべきである。
つまり、マスコミないしはアカデミズムが「言語」の自律的役割を放棄して権力サイドへ魂を売り払うのは完全な自己否定に等しく、そのような事態が導く現実の恐ろしさは、もしチェコ人がチェコ語を放棄していたならチェコ人と彼らの文化が間違いなく完全にドイツ化していたであろうことを思えば理解できよう。その恐ろしさは、紛れもない一つの歴史的事実の重みとして実感できるはずだ。このような意味で、「小泉〜安倍〜福田〜麻生」のヤラセ劇場下でマスコミとアカデミズムの一部が“御用化”し日本国民を欺き続けてきたのは万死にも値する罪だと言っても過言ではない。
おそらく、今回の衆議院議員選挙で民主党に追い風が吹いていると言われる背景の一つには、「グズでKYな麻生首相の逆説的功績」が、図らずも“小泉・竹中ポルノ劇場の真相をマンガ的に分かりやすく日本国民へ説明してしまった”という現実がある。つまり、過半の日本国民が、実は“小泉と竹中がウオール街の強欲なハゲタカの代理人がであった”という現実を漸く理解し始めたということである。そして、今こそマスコミは、“マスゴミ”の汚名を返上すべく“客観”、“中立”、“公正”の原則に立ち戻り、一般国民へ正確な情報を伝えて、彼らが、正しく客観的に「世界の明視」(ビジョンの把握)ができるよう貢献すべきである。
これは何も「東国春スケベ騒動」(関連参照、下記★)でマスゴミと共に墓穴を掘ってしまった自民党だけのことではないが、総選挙の結果を左右することになる無党派層の心は、“女心と秋の空”の類であり、彼らのリアリズム(現実感覚)は“通時(過去-現在‐未来の時間軸)と共時(日常生活の現実、マスコミが作る現実、アカデミズムが作る現実、テレビ映像が作る現実など複数の現実空間を同時的に横に貫く水平面に沿って伸縮する空間)という多次元の現実空間を揺れ動き、絶えず右往左往するという意味で“交流と緊張の連続”である。文字と映像言語を道具とするマスコミは、このような「言語機能の性質」についての理解と、それ故にこそ求められる「日常言語を操る仕事の重要性と責任」を徹底的に自覚し直すべきである。
★腐れ自民党にたかる“お笑い東国春とマスゴミ(=ねじまき住血吸虫クロニクル)の強欲劇”が意味するアフォリズム、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090708
ついでながら、ロマン・ヤコブソンに次ぐ「プラハ言語学派」の大立者であるヴィレーム・マテジウス(Vilem Mathesius/1883‐1945)は、1911年に行った有名なプラハ大学(英文学)教授就任時の講演『言語現象における潜在性について』で次のようなことを語っている。なお、このような言語機能の特性につての考え方は、後になり(およそ1960年代以降)レヴィ・ストロース(C.Levi‐Strauss/1908- )の構造主義やロラン・バルト(Roland Barthes/1915‐1980)のエクリチュール批判などに大きな影響を与えている。
・・・言語現象には一定の揺れがあり、そこに変化の潜在性を認めるべきである。これは、そもそも我われプラハ言語学派が前提としてきた「言語は構造をなす」というテーゼのアンチ・テーゼであるが・・・[出典:千野栄一著『言語学のたのしみ』(大修館書店)]
【Disinfection】Lara Fabian - Tout
[http://www.youtube.com/watch?v=OPrWz_C2a3c:movie]
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