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2009年07月12日(日)
今日深夜に大勢が決まる東京都議選しだいで、今後の自民党内政局は大きく動くといわれる。
不毛な総裁選をまたぞろ見せつけられるかもしれない。しかし、麻生首相はせめて最後だけは毅然とした態度を示すべきだ。でなければ、歴史に汚名を残すことになる。
麻生首相は、あいかわらず、自分の手で解散すると繰り返している。もはや聞き飽きたが、自民党議員が国民の意思とは無関係に、自信を持って担ぎ出した総理なのだから、「麻生降ろし」の無定見のほうがお粗末だ。
早期解散をめざした細田幹事長を軽視して、衆院任期切れ近くまで麻生首相を引っ張ってきた菅義偉も「間違いなく麻生総理自らが解散する」と今朝のテレビで断言した。
臓器移植法改正案や貨物検査特措法案などが今週中に成立する見込みで、麻生首相は17日の解散をめざしているといわれる。
「政局より、政策」といい続けてここまできたのだから、党内で反対の嵐が吹き荒れようと、法案が成立しだい一刻も早く解散しなければスジが通らないだろう。
解散の権限は内閣が持つ。総理大臣はすべての大臣の署名を集めなければならない。しかし、大臣が何人署名を拒否しようと、首相がその気になれば、罷免し、兼任して、閣議書を完成させればいい。
要は、麻生首相のやる気しだいなのだ。
解散しようとしてできなかった例として、引き合いに出されるのがいわゆる「三木降ろし」である。参考のために、経過を見てみよう。
三木武夫という反主流、弱小派閥の領袖が総理大臣になった背景には、田中角栄の意思があった。
土建国家化の推進によるインフレと金脈問題で退陣した田中角栄が、返り咲きの余地を残しておくために、福田赳夫、大平正芳という実力者をあえて避け、椎名裁定で首相にしたのが三木であった。
その三木が、ロッキード事件の発覚にともなって、フォード大統領に親書を送り、あらゆる資料の提供を求めた。
そして、三木の了解のもと、検察の手で1976年7月、田中角栄が逮捕された。
党内の田中支持勢力の反発は、挙党体制確立協議会(挙党協)の結成、署名運動につながり、衆参議員393人のうち277人が署名した。事実上の退陣要求である。三木内閣の閣僚20人のうち15人もその中に含まれていた。
これに対する三木の戦略は、党と内閣の人事を刷新して早期に臨時国会を召集し、懸案の法案を処理する。それによって、解散・総選挙の体制を整えようというものだった。
麻生政権も似たようなことを考え、人事で思うようにならなかったのは周知の通りだ。
三木は党と内閣の人事を断行したが、希望通りの陣容にならなかった。一方、福田、大平は話し合いの末、次期総裁を福田とし、二年後に大平に譲るという約束を交わし、挙党協の「三木降ろし」はさらに勢いを増した。
三木は解散の機会をうかがった。やろうと思えばできた。福田は解散の署名を拒否して閣外に去るハラを固めていた。
そうこうしているうちに、時は過ぎ、臨時国会最終日の11月4日を迎えた。
社会党は内閣不信任案を夜の10時になって提出した。しかし、もはや遅く、時間切れで国会は閉会した。この瞬間、三木の手による解散は消え、任期切れ解散となり、総選挙の結果、自民党は初めて単独過半数を割り込んだ。
麻生政権と条件がまるで違うのは、三木政権が田中角栄の意思によってできた内閣であること、自民党に福田、大平という本命が存在したということである。いまの自民党に、自信をもって担ぎ出せる人材がいるとは思えない。
自民党が選挙目当てに総裁選という茶番をまたしても繰り返せば、いっそう国民の信頼を失うことになる。そういう事態にならないよう、一刻も早く、自らの手で衆院を解散することが、麻生首相の最後の政治的責任であろう。
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