いよいよ始まる裁判員裁判について、今考えるために
2009年5月21日、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下「裁判員法」という)が施行され、この日以降に起訴された刑事事件で、裁判員裁判対象事件は、自白事件か否認事件かを問わず、すべてが裁判員裁判として行われることになる。既に、東京地方裁判所では、2009年8月3日から4日間にわたって、裁判員裁判の全国で第1号の事件が行われることになっており、それを皮切りに、8月中旬以降、全国の地方裁判所において、裁判員裁判が行われることになっている。やがては全国各地で、裁判員裁判が普通の風景となる日がくるだろう。
裁判員法は2004年5月に成立しており、その後、裁判所、検察庁と弁護士会は、全国各地で模擬裁判を行ったり(最高裁判所によると全国で600回以上だという)、協議会や研究会を重ねてきたが、準備を重ねれば重ねる程、それぞれの思惑の違いが徐々に明らかになってきており、その思惑の違いがあるままで、裁判員裁判が始まろうとしている。
最高裁判所や検察庁は、元々、これまで行われてきた刑事裁判について、概ね、問題なく行われてきたと認識しており、そのため、裁判員裁判についても、これまで行われてきた刑事裁判のあり方を根本的に変えるのではなく、その延長線上で考えようとしている。
これに対して、日弁連や全国の弁護士会は、これまで行われてきた刑事裁判には大きな欠陥があり、そのために多くの無辜の冤罪を生んできたと認識しており、裁判員裁判は、これまでの刑事裁判のあり方を根本的に変える契機になる、又はそうしなければならないと考えている。
この認識の違いは、例えば、証拠書類(書証)に対する考え方の違いに現れている。
裁判所や検察庁は、これまで通り、証拠書類を活用するつもりであり、裁判員に対しては、これを法廷で全文朗読することで足りると考えている。
これに対して、日弁連は、証拠書類は不同意にして、なるべく証拠としては使用すべきではなく、原則として、全て、証人に対する尋問によって立証すべきであると考えている。
英米で行われている陪審制度は、日弁連が主張するような方法で行われているが、最高裁判所や検察庁では、従来の証拠書類中心の刑事裁判を維持しようと考えているのである。
最高裁判所は、裁判員制度は、「見て、聞いて、分かる」裁判であり、市民の健全な常識があれば、誰でも裁判員になれると宣伝している。
しかしながら、裁判員裁判対象事件は、殺人、強盗致死傷、傷害致死、危険運転致死などの重大事件が予定されている。そして、裁判員は、事前に法律の知識について研修を受ける訳でもなく、突然に呼び出された選任された者である。
ところが、裁判員にとっては、この被告人を死刑にすべきか無期懲役にすべきかという量刑上究極の選択が迫られる場面も予想されるし、それ以外でも、故意があるか否か、正当防衛が成立するか否か、責任能力があったか否か、被告人である少年をもう一度家庭裁判所に移送すべきか否かなど、法律についてのある程度の知識や理解がなければ、それについて議論すること自体が、極めて困難な事件も多数あると考えられる。
市民から選ばれた裁判員としては、単なる常識だけでは、到底、対処できないことは明らかであるが、今のままでは、裁判官からの説明を鵜呑みにして、裁判官の考え方を押し付けられたり誘導されたりして、右も左もよく分からないままに、裁判官の意見に同調させられ、結局、裁判官の判断にお墨付きを与えるだけの役割をさせられないとも限らないのである。
2009年1月に、最高裁判所は、「模擬裁判の成果と課題」と題する文書を公表しているが(判例タイムズ1287号に掲載されている)、この中では、いかに裁判員の権限を限定して、裁判官の独自の権限を維持するかという観点が強く打ち出されており、裁判員を「お客様」として扱おうとしている姿勢が強くうかがえるものとなっており、最高裁判所の本音が垣間見える文書となっている。
実は、裁判官と裁判員との間には、圧倒的な情報格差がある。
裁判員制度では、必ず、公判前整理手続が行われる。公判前整理手続は、公判期日の前に、裁判所、検察官、弁護人だけが集まり(被告人も出頭する権利があるが、出頭しないこともできる)、主張と証拠の整理を行うための手続である。
裁判官は、この手続の中で、検察官や弁護人が公判においてどのような主張を行い、その立証のためにどのような証拠を提出するかを確認し、どの証拠(証拠書類と証人等)を採用し、証人や被告人について、どのような順番で、どの位の時間をかけて尋問を行うかを全て決定する。
この意味において、公判期日の前に、裁判官は全ての証拠の概要を把握するとともに、公判期日での進行予定を全て認識していることになる。
これに対して、裁判員は、第1回公判期日の朝に呼び出されて、その午前中に裁判員選任手続が行われて選任され、その日の午後から刑事裁判に立ち会うことになる。
その冒頭では、公判前整理手続の結果が裁判官から簡単に告げられるが、裁判員にとっては、公判前整理手続において予め決められた進行予定通りに、目の前の公判廷で、次から次へと証人尋問が行われるのを見せられるだけとなり、予めお膳立てされたメニューに従った刑事裁判を見せられるだけということになりかねない(模擬裁判においても、裁判員役をやった人からそのような不満が多く出されていた)。
また、裁判員法は施行前に改正されており、「区分審理制度」が導入されている。
これは、ある被告人が、3つの殺人事件で起訴され、いずれの事件も否認しているような場合において、裁判員裁判でこれを審理すると審理が長期化し、裁判員の負担となるということから、この3件(便宜上、A事件、B事件、C事件と呼ぶ)について、裁判官3名は交代しないが、裁判員は事件毎に交代しながら審理を行っていくという制度である。
具体的には、まず、A事件について裁判官3名と裁判員6名が審理して有罪か無罪かだけを決めて判決を言い渡し(量刑は言い渡さない)、次に、B事件について、同じ裁判官3名と新たに選任された裁判員6名が審理して有罪か無罪かを決めて判決を言い渡し(ここでも量刑は言い渡さない)、最後のC事件について、同じ裁判官3名と新たに選任された6名の裁判員が審理して、C事件についての有罪か無罪かを決めるとともに、A事件・B事件・C事件の3つの事件についての量刑を審理して、量刑も含めた最終的な判決を言い渡すことになる。
この区分審理制度においては、裁判官は最初から不動で交代しないのに、裁判員は、事件毎の審理にしか関わることができず(裁判員が望んでもできない)、裁判官と裁判員との間に、圧倒的な情報格差が生じることを当然の前提として、本来、対等であるべき裁判官と裁判員の関係を否定している。
しかも、この場合、C事件の裁判員は、A事件とB事件の量刑も行うが、それらの事件の審理には直接関わっていないので、記録を読んで把握するしかなく、裁判員制度が目指している直接主義・口頭主義は完全に形骸化することになる。
このように、裁判員制度は、最初から、裁判官と裁判員との間の情報格差があることを認め、対等でない関係であることを認めた制度として成立しているのである。
マスコミは、市民が刑事裁判に参加することから、概ね裁判員制度には好意的・肯定的な評価をし、その報道においても、幻想を振りまいている。
しかしながら、裁判員制度においては、裁判官と裁判員との間に圧倒的な情報格差が生じることを認め、裁判員は裁判官と対等な立場で議論することができないという制度的な欠陥がある。
しかも、前述したとおり、最高裁判所は、その運用において、従来の刑事裁判を根本的に変える気はなく、裁判員を「お客様」として扱おうとして裁判員の権限を運用上極力限定しようとしており、結局、裁判官の判断にお墨付きを与える「補完勢力」として利用しようとしているとすら考えられる。
このような裁判員制度は、マスコミが喧伝するようにうまくいくとは考えにくい。意欲を持って参加した裁判員も、実際に参加した後に、自分たちの権限や役割が限定され、自由に意見を述べられたことに対して失望する人が多いのではないかと考えられる。
私たちは、これからは、実際の事件を通して、裁判員制度が、元々、何を意図して作られた制度なのか、市民から選ばれた裁判員がどのような扱いを受け、いかに不自由な立場に置かれているのかなどについて、徹底的に検証していく必要がある。
その上で、私たちは、そのような裁判員制度が、市民社会にとって本当に必要で有益な制度なのか否かに関する議論を始める時が来ている。
(本稿は、2009年7月7日発行の「反天皇制運動あにまる31号」への投稿を加筆・訂正したものである。)
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