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http://www.news-pj.net/npj/uchida-masatoshi/20090624.html
内田雅敏の 「君たち、戦争ぼけしていないか?」
弁護士 内田雅敏
目次 プロフィール
〈疑わしきは被告人の利益に〉を本当に受け入れることができるか
――真犯人を社会に放免することもあり得る覚悟を持てるか――
1.2009年5月21日裁判員制度がスタートした。この制度が司法への市民参加を謳い文句にしながらもその実態は、市民 (だけ) が陪審員として事実認定をする、陪審員裁判制度と似て非なるものであり、従来からの官僚裁判制度を補完するにすぎないものであることは、本誌 (月刊times) 2008年12月号 「陪審員裁判と似て非なる裁判員制度……裁判員制度によって司法の民主化はできるか」 で述べたところである。
裁判員制度の導入によって、裁判の迅速化が至上命題とされるようになり、あらかじめ 「市民」 を排除し、裁判官、検察官、弁護人三者による密室の中で行われる公判前整理手続によって裁判の枠組が決められ公判が形骸化される恐れがある。裁判は生き物であり、審理の過程で当初予定していなかった新たな証人調べをなす必要が生じる可能性があるのだが、その場合でも公判前整理手続で決められた枠組みの範囲ないでと制約される可能性がある。
また審理に際しては、裁判所は予断を排除して起訴状だけを見て、他の証拠等を一切見ずに臨む 〈起訴状一本主義〉 という刑事裁判の原則にも反する。さらに、昨今のメディアによる過剰な事件報道を背景にした重罰化の傾向は避け難いものと思われる。
2.本稿はそのことについて直接論じようとするものではない。本稿で論じようとするのは 〈疑わしきは被告人の利益に〉 という、刑事裁判の原則を私達が本当に受け入れる用意があるかということについてである。
〈疑わしきは被告人の利益に〉 が刑事裁判の原則であることについて、異論を述べる刑事法学者はいないであろう。しかし、私が敢えてこの原則を 「社会が本当に受け入れる用意があるか」 と問うたのは、裁判の実務の現場では 〈疑わしきは被告人の利益に〉 でなく、〈疑わしきは被告人の不利益に〉 が実態ではないかと思うからである。
人権が全く無視されていた戦前のことでなく、人権が一応保障されるようになった戦後の憲法、刑事法下においても、死刑が確定した判決が、再審裁判の結果無罪となったものが4件もある。無期・有期刑の確定判決が再審によって無罪となったケースはさらに多数ある。
また再審無罪となってはいないが、被告人の自白がないなかで有罪の決め手とされた判決当時のDNA鑑定が誤りであったことが明らかとなり、再審開始必至の栃木県足利幼児殺人事件、あるいは、名古屋地裁で再審決定を受けたが、検察側の抗告によって名古屋高裁でその決定が取消された三重県名張の毒ブドウ酒殺人事件もある。
再審請求裁判だけではない。あるいは逆に地裁、高裁の有罪判決が最高裁で破棄され無罪とされた防衛医大教授の電車内痴漢事件等々、疑問を呈する裁判は無数にあると言ってもよい。先頃最高裁で地裁、高裁の死刑判決が維持された和歌山カレー殺人事件も、自白もなく動機も明らかとはなっておらず情況証拠だけで死刑判決がなされている。
3.かつて東大総長も務めた刑事法学の泰斗、故平野龍一東大名誉教授は、起訴された事件のうち、有罪率が99.86%という統計 (注1) を前に、刑事裁判は絶望的であると述べた。今般導入された裁判員制度の謳い文句である司法への市民参加の考え方は、この平野発言に触発されたという面もある。
もっとも逆の視点から見ると、無罪判決の中にも、もしかすると本当は真犯人であったケースもあったかも知れない。
まさに 〈真実は神のみぞ知る〉 である。前述の防衛医大教授のケースは、最高裁で逆転無罪とはなったが、その判決は3対2という際どいものであった。
最高裁の多数意見――といっても一票差にすぎないものだが――は、被害者たる高校生の供述には不合理なものがあると判示しているが、しかし、最高裁の判事達が直接被害者の供述を聴いて審理したわけではない。供述調書を読んだだけで判断しているのである。これで本当に真実に迫れるのであろうか。
この裁判に関わった裁判官は、地裁の1人、高裁の3人、最高裁の5人であるが、高裁の合議が全員一致だとすると、地裁、高裁で小計4名、最高裁での2名、合計6名の裁判官が有罪と判断したことになり、これに対し無罪としたのは、最高裁の3人だけということになる。教授があくまでも無罪を主張し、最高裁まで争わなかったならば有罪が確定した。これは恐ろしいことではないか。やってもいないことをやっていないと認めてもらうためには、膨大なエネルギーを必要とするのである。
さらに再審無罪を勝ち取るには、これに数倍するエネルギーが必要となる。献身的な支援者、弁護士、そして再審請求者の訴えに真摯に耳を傾けてくれる裁判官 (残念だがそう多くはない) の存在という僥倖だけでなく、無実を訴え続ける本人の不屈な精神があって初めて可能となることなのである。
だからといって、この世に犯罪がある限り裁判をしないわけにはいかない。
しかし、その裁判は全知全能でない人間が行う以上、誤ちが避けられないものであることはこれまで述べてきたとおりである。この 〈誤ちを避けられない裁判〉 という大前提に立ち、少しでもその弊を少なくするために取り入れられたのが 〈疑わしきは被告人の利益に〉 という刑事裁判の原則なのである。「刑事裁判で冤罪が絶えないのは、裁判官の中にこの原則を忘れ、神の叡智をもって、真実を発見できると錯覚する人がいるからにほかならない。」 (鈴木勝利弁護士。法律新聞2009年6月12日号)
ところで、この 〈疑わしきは被告人の利益に〉 という刑事裁判の原則を社会が単なるお題目としてでなく本当に受け入れるということは、私達がたとえ死刑相当の凶悪犯人も含めて、真犯人を社会に放免することがあっても、真犯人でない者を犯人として裁いてしまうという冤罪を絶対に出さないという覚悟を持つことができるかどうかということである。
法律家の間では例え10人の真犯人を見逃すことがあっても、1人の無辜の者を罪に陥れてはならないといわれるが、しかしそれは人数比で語られる類のことではないはずである。
4.日本国憲法第13条は、個人の尊重と国民の幸福追求の権利を保障している。犯罪を犯していないにもかかわらず、犯人として逮捕・勾留され、取調べを受け、裁判でも有罪とされ懲役刑ばかりか場合によっては、死刑判決を受ける、このようなことが個人の尊重と幸福追求の権利を保障している憲法下で起きてはならないことは誰しも異論はないであろう。
しかし、そのような誤ちを避けるために、場合によっても死刑相当の凶悪犯人でも見逃すことになることになるが、それでもよろしいかということについて、異論はないとすべての人が言い切れるであろうか。
ポイントは二つあると思う。
その一つは、人々が自分は絶対に刑事被告人となるようなことはないと考えるか、それとも今日のような社会にあっては、或る日突然、自分が刑事被告人となる可能性があるということを考えるということである。電車内の痴漢冤罪事件に遭遇することを考えてみれば分かりやすい。誰しもが或る日突然、逮捕・勾留され、刑事被告人となる可能性があるのである。
司法への市民参加が求められるのはこの点にある。職業裁判官は、まず自分が被告人になる場合もありうるなどとは絶対に想定しないであろう。そして、もう一つは、裁判は真犯人を追及する場ではなく――それは捜査機関がすることである――、当の被告人が真犯人であるかどうかを判断 (注2) し、かつ真犯人と判断したならば、その犯罪の程度に見合う刑罰を課する制度であるということの理解である。
「一般の人は刑事裁判の目的は悪いやつを裁判にかけて処罰をする、そして社会を防衛する、これが目的だろうと思うだろう。しかし、法律をかじったことのある人ならば刑事裁判の目的をそうは捉えない。確かに刑事裁判の目的には広い意味での一般予防ということはある。しかし本来の刑事裁判の理念は冤罪の防止、つまり自分がやっていないにもかかわらずやったとされることから防止する。もし、やっていた場合でも、やったこと以上の責任を負わされることのないようにするのが裁判制度だ」 (井上達夫東京大学教授)
憲法第32条が 「何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪われない。」 と規定していることに留意すべきである。
市民は 〈裁判にかけられる〉 のでなく、〈裁判を受ける権利〉 すなわち 〈裁判によって無実を晴らしてもらう権利〉 が保障されているのである。
5.冤罪防止には、現行の捜査の取調のあり様について、再検討することが不可欠でもある。すなわち虚偽自白の問題である。強姦未遂容疑で懲役3年の判決を受け、服役後真犯人が見つかり、2007年10月再審裁判で無罪が確定した富山県氷見事件のケースを考えてみたい。
この事件では被疑者は逮捕直後は否認したが、その後警察の苛酷な取調べの中で認め、裁判でも認めたため有罪判決となったものである。このような場合、被告人が虚偽の自白をしていると見抜くことはプロの裁判官でも難しい。ましてや市民の裁判員にとってではある。
何故やってもいないことをやったと認めてしまうのか、それは現在の密室での取調の実態を見ないと理解できない。社会から隔離され、圧倒的な国家権力を背景にした捜査官の前では、虚偽の自白が容易になされることを理解すべきである。
このような事態を避けるためには、現在の自白偏重の捜査を改め、かつ、取調過程の全てが可視化されることが不可欠である。
6.ところで、〈疑わしきは被告人の利益〉 の原則を徹底した場合に真犯人を逃がすこともあり得ると述べたが、そのような場合にも被害者の蒙った損害、被害感情をどうするかという問題がある。つまり被害者の幸福の追求権が侵害されたまま、それを放置しておいてよいのかという問題である。被害者の権利と被告人の権利、双方を完全に実現することはなかなか困難である。
社会が冤罪だけは絶対に避けなければならないとして 〈疑わしきは被告人の利益に〉 と被告人の権利を重視する選択をする以上、被害者の権利の保護は、他の方法すなわち犯罪被害者補償法などを整備し、また社会が犯罪の根絶は無理にしても、その減少のために財政的措置を講じ、社会的資源を投入するなど積極的な努力――コストをかける――をすべきであろう。その場合留意しなくてはならないことは、それが安易な治安的発想に依ってはならないことである。
犯罪は社会が病んでいることから生ずるものである以上、その病巣に対する根本的な治療なくしては、犯罪もなくすことはできない。
そして今一つは、誰もが犯罪の被害者となり得ることを想定して対処することである。
つまり、刑事裁判は誰もが被告人になり得る可能性、被害者となり得る可能性を前提としつつ、しかし冤罪だけは絶対に防ぐという決意の下に、他方そのことによるマイナスの側面を決して被害者個人にだけ押しつけず、社会全体で負担するという考え方に立って、運用されなければならないのである。
それが司法への市民参加の狙いではないだろうか。
しかし、それでも冤罪は避けられないのであるから、その救済のための再審手続の見直しをすることが必要である。現行の再審要件をより緩和すべきである。
また、死刑の廃止、停止も含めて死刑制度の再検討も不可欠であろう。前述した4件の死刑再審無罪判決、もし死刑が執行されてしまっていたら再審無罪判決は極めて困難であっただろうし、そもそもそれでは冤罪とされた者の救済とはならない (注3)。
【追記】
2009年6月4日、足利幼児殺人事件で有罪となり、懲役刑を執行されていた菅谷利和さん (62歳) が、 17年ぶりに釈放された。東京高裁の再審開始決定を待つことなしにである。東京高検は、当時のDNA鑑定の誤りを自ら認め、菅谷さんに 「無罪を言い渡すべき新証拠」 が発見されたとしたのである。現在62歳の菅谷さん、17年の奪われた歳月――この間父母も死亡――は限りなく重い。
(注1)
「私は裁判所に勤務した40年間のうち、35年を刑事裁判官として過ごしました。その経験から言うと、今の刑事裁判で最大の問題点は、裁判官の多くが 『有罪慣れ』 していることだと思います。
被告のうち9割は捜査段階で罪を認めます。このため、裁判官は 『自白』 調書をもとに判決を書くことが多い。『刑事裁判は無罪を発見するためにある』 と考えながら、経験を積むうちに 『自白調書は基本的に信用でき、強要して作られることはほとんどない』 と身につけてしまうのです。」 (安原浩弁護士・元判事・2009年6月11日朝日新聞朝刊)
(注2)
「警察・検察は、犯罪を摘発し、有罪を勝ち取るのが仕事だ。無実だと分かっていながら自白を強要したり、証拠を捏造することは絶対に許されないが、そういう暴走事例も起こす立場にある一方当事者にすぎない。
しかし裁判所の仕事は全く違う。一方当事者である警察・検察の持ってきた事件を吟味して、もう一方の弁護側の意見も聞き、有罪にして間違いない事件だけを有罪にし、間違いないとは言えない事件は 『証拠が不十分』 として無罪にする。
その任務を果たすことによって、たとえ警察・検察が間違っても、『国』 を間違わせないことが、裁判官の仕事なのだ。」
(五十嵐二葉弁護士・2009年6月5日・南日本新聞)
(注3)
東の足利、西の飯塚、1990年代前半、足利事件と同じく被告人否認のまま初期DNA鑑定によって有罪とされた飯塚幼児殺害事件がある。死刑判決を受けた後も無実を主張し続けていた久間三千年死刑囚、昨年10月、70歳で死刑が執行された。
足利事件の菅谷さん釈放を受けて、今、再審請求の準備中というが、死刑が執行されている中で、しかもすでに鑑定資料も失われており、再審の途には厳しいものがある。
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