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日米両政府の「秘密の了解」の存在を、村田良平・元外務次官が報道機関のインタビューで明らかにした件について、読売新聞は7月1日付社説の冒頭で、以下のように書いている。 「米軍の核持ち込み容認の密約はないとする政府見解の維持は、もはや困難だ。政府は、密約の存在を認め、国民に事実関係を説明すべき時だ」 (JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」) そろそろ国民に、明らかにしてもよいのではないか、という内容だ。 しかし政府及び自民党は、米軍による核兵器の持ち込みは日米両国の事前協議の対象であり、その「事前協議がない」のだから「核持ち込みはない」との立場を示してやまない。 読売新聞が1日付社説に「核持ち込み 政府は密約の存在を認めよ」と掲げたのは、その隠蔽してきた「密約」をそろそろ認め、国民に事実関係を説明すべき時だといいたいからである。 読売社説は、逆にここで、政府のこれまでの「密約隠蔽」を擁護し、赦してさえいる。 それでは、なぜ「政府は、密約の存在を認め」るときであると、姿勢を転じたか。 米側が明らかにしているのだし、日本でも55年体制が崩壊して、より「健全な」安全保障論議ができる環境が整いつつあるのだから、この際「国益」を考えるべきだ、というわけである。 読売新聞の言う「国益」とは、国民への貢献ではなく、「国」という機構を形作っている既得権益を指すものといわざるをえない。それはとりもなおさず、ブッシュの戦争に積極果敢に与した自公与党が、ブッシュの戦争の破綻、そして核兵器の廃絶を打ち出したオバマ米政権の登場によって、足元からその支持基盤を崩落させているが、イラクへの自衛隊派遣を「ひるむな」とあおった同紙としては、ともにその路線の復活をめざすためにも、ここで「密約」を認めて、日本も堂々と「核配備」の議論をおこすきっかけにしようじゃないか、それが「国益」というものだ、といっているに等しい。 第一義的には、そのような立場に立つ政府御用新聞さえ、これ以上「密約はない」と政府が言い張るのは得策ではないというところに追い込まれたという客観的情勢について、歓迎してよいのではあろうが、公文書の公開の仕組みと思考法が、日本は(いま何時代にいるのかと問い直さねばならないほどに)立ち遅れたままであることに呆然とさせられることもまた事実である。日本の閉鎖的「密約」体質と、米国の情報公開の体質の違いについても、私たちは正しく認識・評価しておくべきであろうし、この読売新聞の社説がいみじくもそのまま露呈しているように、公的メディアまでもが「密約」は場合に応じて正当化されるという立場をとったり、「密約の開示」の必要性について、まるで政府が国民に「下賜」するものであるかのように取り扱おうとすることは、到底ゆるされることではない。 長く戦後の日本政治を担い、「国民のため」と称して「密約」や「事実の隠蔽」や「談合」や「贈収賄」を繰り返して、政治を真っ黒に塗りつぶしてきた自民党は、そうした「密約」さえ「国民のため」であると勝手に内部で正当化し、公権力を駆使して記者を断罪してその体質を保持し続けるなど、実に独りよがりの政治を繰り返しながら、政治を腐敗させ、堕落させ、劣化させ、日本社会を崩落の時代へといざなってきた。読売新聞の社説が、これ以上「密約はない」と政府が言い張るのは得策ではないという立場をとったことは、その手法がもはや通用しなくなっているということの証ともいえる。それは、いかに自ら世界の指導者などに大部数を誇ってやまない「読売」であっても、国民世論の変化を無視し続けることはできないということの証明でもあるだろう。 その意味では、過去の「密約」が暴かれ、これまでの実態を市民が共有する時代の到来をようやくむかえるかもしれないところに至っていることは、喜ばしいことではあるものの、米国のFOXTVだって躊躇すると思われるような、民主主義社会の基礎をゆがめて論じるような密約擁護・密約解除下賜説はいただけない。産経新聞が3日付けで、密約を「当時の政治の知恵」としたり、密約論議は「不毛」と断じたり、「国会の場でも、過去を蒸し返すよりも現代の緊急課題に即した抑止論議を最優先」すべきとしたりしているのは、およそメディア企業として論外というほかない。 この問題は、民主主義の根幹にかかわる問題であり、そのまま国民の生活に直結している。 ブッシュの戦争に加担して、インド洋で給油活動に従事した海上自衛隊補給艦の航海日誌は、保存期限が切れる前に破棄されていた。薬害肝炎の被害者リストは放置されたままだった。国際・国内と規模は違えども、そこには必ずカネと利権がとりもつ政・官・業の癒着の構造が横たわってきた。参院本会議で、6月24日に全会一致で可決、成立した「公文書管理法」も、そうした事態が続々と明るみに出るなかで、ようやく法整備が進められることになったものである。 この公文書法成立について東京新聞は、6月25日付の社説で取り上げ、<実態は各省任せで、役所にとって「不都合な資料」は破棄されているのではないか、との疑念を少なからず抱かれてきた。法整備は遅すぎた印象だ>と評している。<成立した管理法は、公文書の作成から廃棄・保存まで、各省統一のルールをつくるのが狙い。公文書を「国民共有の知的資源」と定義し、役所側の説明責任を明記した。修正合意で、政策決定過程を検証できる形での公文書作成を求め、文書廃棄には首相による同意が必要とした>と解説したうえで、以下の点を指摘する。 1)首相判断の基準があいまい 6月27日付でこの公文書法の件を取り上げた琉球新報も、<公文書は「国民共有の知的資源」である。同法は、そのことを基本とし、役所の説明責任と国民の主体的な利用を明確化した。その意味は大きい>としつつ、懸念材料として以下を指摘する。 1)一定の保存期間が経過した公文書廃棄の際に首相の同意を必要としたが、膨大な文書の存廃を首相が適切に判断できるのか。 歴史の記録を改ざんしようといそしんでやまない政治家がいる。国民に「知る権利」などないとでもいわんばかりに、自ら行ってきた犯罪的行為でさえ、それをあらためるのに「下賜」の発想が抜けない政治家がいる。小泉の暴走政治への糾弾をうけて、そのお詫び賃にほかならない麻生の「定額給付金」でさえ、財源は税金でありながら「ありがたがれ」といわんばかりの姿勢をとる政治家がいる。アメの見返りに「票をくれ」と要求してやまない政治家がいる。与党の連立パートナーの公明党筋では、まるで自分たちが「あげるのよ」「おかげなのよ」といわんばかりに宣伝してまわる姿が、報告されている。 「国」のうえにあぐらをあき、利権をあさり、暴利をむさぼり、戦争の利権にとびついて国を滅ぼし、市民の生活を破壊してきたにもかかわらず、医療・福祉制度の再構築には消費税の大幅値上げが必要で、一方では軍事費のさらなる上積みが不可欠と言い続ける。「国」にあぐらをかいて亡国に追い込んできた張本人たちに、だれがその再構築をゆだねるだろうか。その権限を手にしたとたん「みそぎは終わった」といいだして、税の徴収と軍備の拡張にそのまま突っ走ることは目に見えている。それでは何も変わらない。少しばかりの反省が政策(やマニフェスト)に盛り込まれようとも、それはせいぜい弱肉強食の論理(=ムチ)を弱めたイメージを打ち出すだけで、日本社会全体としての前進も、未来に向けた再構築の歩みも、何も始まることなどないのである。改憲志向の後ろ向きの政治が、そのままさらなる停滞へともつれこむだけで終わりだろう。 たくさんの人が、さらなる地獄へと日本社会を引きずり込みかねないと、その脆さと危険を感じてきたはずである。その危険は、彼らが国民に植え付けようとしてきた危機感や恐怖感ではない。彼らそのものに対して抱く「オイオイ、大丈夫か?」といぶからずにいられない危なっかしさ、もどかしさ、無策・無能がばれないように繰り返されるウソやごまかし、その隠ぺい工作、話題そらし、それらが積み重なっていくうちにわいてきた違和感や、人によっては異物感にも近い、そうした感情のごく周辺に位置するものである。それはきょうも、メディアを巻き込みながら繰り返されている。 政治とカネの問題とは、単に贈収賄だ、犯罪だと政治家や官僚や企業人たちを追及して終われる性質のものではないのだろうと思う。ものの見事に時代から取り残された自民党政治は、単に自民党だからと表面的に忌み嫌うだけでは、本当に必要な批判といえるところまで格上げすることはできないのではないかと思う。それは児童や生徒たちが「文句だけじゃなく、案を出しなさいよ案を」と語り合うような水準ですむものではけっしてないだろう。次の時代をつくりあげていくために必要な情報を共有し、現在の状況と課題を明確に直視し合い、グローバルな視点と地域社会に密着した視点を交互に行き交わせながら、知恵と工夫と勇気(けっして蛮勇ではない)が多種多様な分野から、多様に湧き上がってくるのをサポートし、それぞれをぞれぞれに尊重しながら成長を期していくべきものであるはずだが、長く政権という温室にあぐらをかいてきた自民党の政治とカネの問題は、米軍産複合体への依存と政・官・業の共依存の構造とを支えてきた。 戦時社会において公権力が暴力と専制をふるえば、それに対抗し押しつぶされそうになる側もその専制に似た顔をもつようになる。その時代を幸い卒業できれば、次には公権力の監視がいかに大切であるかを共有する時代が訪れるのだろう。だが残念ながら、第二次世界大戦敗戦後の日本社会は、米ソ冷戦という世界構造の再編をむかえるなかで、米国の下請けのような、米国の前線基地のような、米国の腰ぎんちゃくのような、みじめな政治をはびこらせてきた。それと同時に、政治的無関心をはびこらせ、社会の主人公も、「国」の主体も、政治家の雇い主も、私たち自身であること、そして「国」の未来も、日本社会の行く末も、地球社会の存亡も私たち自身の、それぞれの手にかかっていることから、逃避しようとしてきた。あの手この手を使って、そう仕向ける政治家たちがいたし、現在もそういう人たちがたくさんいる。 「現実をみろ」といいながら、その現実を直視しようとせず、自らの利益と保身のことしか頭にない、軍備増強と弱肉強食を標榜する改憲主義に立脚する人々などは、それを典型する方々といえるのではないだろうか(彼らにとっての民主主義社会とは、自らの都合に役立たない者は「自己責任」の名で排除するシステムのことでしかない=ゆえに、自ずとそのまま崩壊への道をたどる=自分たちのせいですでに崩壊しているのに、それでもそこにしがみつく)。 無策・無能、時代ズレした感覚のまま、態度だけふんぞりかえっている人に対して、頭を下げて「学んでいただく」必要などない。国民が自民党を教育しながら、政権につかせておかねばならない理由など存在しないのである。それだけでもいかに無駄なコストと時間をかけているか。そういう政治家は、選挙で選出しなければよいだけの話なのだ。だからこそ、彼らは自己保身のためにも「政治的無関心」を必死ではびこらせようとする。態度だけはだかれに教わって、だれかのマネをして尊大でありながら、実際には官僚に丸投げ、官僚は政治家の顔色をうかがいながら、考えを忖度して枠を設けて、そのなかで自分たちの権限を死守しようとする。 世論の厳しい批判にさらされても、政治をお手軽なもの、表面的なものとして扱えば、それだけですでに目的の半分は終えたようなものである(と、彼らは思い込んでいる)。それでは時代をとらえることはできない。社会をどんどん悪化させることはできても、前進させることなど到底できないのは、当然の理といえるだろう。 最悪なことは、社会をどんどん悪化させていることに、そういう輩は(そういう輩だからこそ)、まったく気づいていないし、気づこうともしないことである。厳しい指摘を受けても、それをごまかし、責任をだれかに押し付けて逃げることだけに終始する。政治家をうまく使いこなしてきたつもりの善良な国民が、ひどい裏切りにあってきた理由は、彼らの崩壊過程の責任を、彼らは国民全体になすりつける以外に方法がなくなっているからである。 それにマスメディアが平然と手を貸す。なぜそんなことをするのか。その理由もカラクリもメディアの表面に出てこない。メディア自身によるメディアの検証も、企業の枠を超えたものとはなっておらず、実に限定的である。だからこそ、メディアをチェックし、メディアを監視し、表面的な報道や番組の背後でうごめく実像を、常に広く共有していく必要がある。だからこそ、いい番組やいい記事には拍手と賛同の声を寄せていく必要がある。私たちはいま、その拮抗の時代をようやくむかえようとしているところである。 「密約」を「当時の知恵」と呼んで水に流し、それより「密約」そのものが指し示す国家の危機に目を向けて、軍備をもっと増強しようじゃないか、米国の「核」は日本にとってとても大事なものなのだから、核廃絶を言い出したオバマ米大統領の考えを変えるように仕向けようじゃないか、と言い出すメディアが出てくる。そこにも表面には現れない事情や都合やカラクリや仕掛けが存在しているのだ。 それこそ「不毛」であり、重たい公的責任を背負っているはずのマスメディアが、公権力の構造にへばりついてその一部と化し、利益のおこぼれにあずかろうとするだけの姿のように思えてならないのである。 もはやそんな時代ではない。そんなことをやっていてすまされる時代ではないはずだ。 (つづく) (JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造) |
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