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解散の大義
http://news.www.infoseek.co.jp/special/j-is/hotjournal0907_004.html (全文転載)
2009.7.9
麻生総理は「解散はしかるべき時期に私が決めます」と壊れたレコードのように繰り返してきた。政局を自在に操れる総理なら「私が決めます」とは言わない。黙って思い通りの時期に解散してみせる。わざわざ言うのは、決められない事を自分が決めたかのように見せたいからだ。そう思って見ていると、麻生総理は本当に解散できるかどうかが怪しい情勢になってきた。
仮に麻生総理が解散を「決めた」とする。しかしそれはもはや麻生総理が主導する解散とは言えない。衆議院議員の任期が迫ったための「追い込まれ解散」と言われる。なぜなら総理が掲げるべき「解散の大義」がどこにも見えないからだ。
解散とは国民から選ばれた衆議院議員全員の首を切る事である。日本国憲法では7条と69条にその規定がある。69条解散は衆議院で内閣不信任案が可決された場合、それに対抗する手段として内閣が行うもので、7条は天皇の国事行為としての解散である。憲法を作ったGHQは解散を元々69条に限定して考えていた。しかし1948年に麻生総理のご先祖である吉田茂総理が政権基盤を固めるために解散をやろうとした。ところが野党は解散をしたくないので内閣不信任案を出さない。そこで吉田は7条を適用して解散しようとした。野党はこれに反発したが、GHQが仲裁に入り、結局野党が内閣不信任案を出す形にして解散を行った。「馴れ合い解散」と呼ばれる。ところがその後は7条解散が普通となり、解散は「総理の専権事項」と言われるようになった。しかしだからと言って総理が自由に国会議員の首を切れる訳ではない。それにふさわしい理由がなければならない。それが「解散の大義」である。
今度の解散は、そもそも小泉政権以降、安倍、福田と国民の審判を受けない総理が二代も続いたことで、麻生政権は誕生と同時に選挙を行うことが求められていた。ところが世界金融危機が勃発したことを口実に麻生総理は選挙を先送りし、景気対策を小出しにしながら有利なタイミングを探ってきた。そうした流れから言えば、金融危機への対策が一段落したところで、その政策を巡って国民の信を問うのが常道である。従って予算関連法案が国会で成立した6月19日が解散を断行する節目であった。それなら立派に「解散の大義」が成り立った。
ところが麻生総理は解散に踏み切らなかった。これで何を「解散の大義」とするのかが見えなくなった。9月10日に衆議院議員の任期は切れるから、8月も半ばを過ぎた選挙は事実上の任期満了選挙と見なされる。仮に解散をしても解散権を行使したとは見なされない。権力行使が出来ない麻生総理は退陣を迫られる可能性がある。それを避けるためには解散を早めて8月上旬に選挙するしかないが、これにも「解散の大義」はない。「麻生降ろし」を避けるための解散は、総理が勝負に打って出る事にならず、これも「追い込まれ解散」である。つまり麻生総理にはもはや「大義なき解散」しか残されていない。それは総理の首を他の誰かにすげ替えても同様である。
何とも情けない解散・総選挙を我々は迎えようとしている。しかし情けないからと言って興味を失ってもらっては困る。何故このように情けない政治権力を誕生させたのか、国民は真剣に考える必要がある。そうしないと日本は本当に破綻する。冷戦後の世界は仁義なき戦いの世界である。日米同盟が日本を守るという幻想は通用しない。国民がきちんとした権力を育て上げ、自立を図らなければ国の未来は危うい。だから次は日本を再生させるための選挙である。大義なき総理に代わって国民が「救国再生」の大義を掲げ、一票を投ずる選挙にすべきなのである。
(転載終わり)
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