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昨日衆議院で「臓器移植法改正のA案」が可決されました。
ニュース映像によれば、そのとき会場には大きな拍手が湧き、
小泉元首相や中山議員などの笑顔なども大きく映し出されていました。
傍聴席には、臓器提供を待つ親の姿も見られましたから、
「良かったね! これで希望が叶えられるね!」という思いが、
議場の拍手と歓声を誘ったのだと思います。
しかし、それは「臓器提供を待つ立場」への激励の拍手ではあっても、
臓器を提供する側の気持ちは全く無視したものと言わざるをえません。
よく「善悪問答」が行われます。
「善とは何か」「悪とは何か」
こう聞かれたとき、ぼくは決まって、
「それは立場によって違うよ。損得勘定で違ってくるよ」
と答えるようにしています。
すなわち、
自分にとって都合の良い人は「いい人」であり、
自分にとって都合の悪い人は「悪い人」…。
要するに「自分を勘定に入れ」つまり「損得勘定」によって、
多くの場合、「善悪を判断」しているのではないでしょうか。
それは多くの場合、子供に対しても同じように作用しがちで、
自分のイメージや希望や価値観に沿う子供は「いい子」、
そして、自分の思うどおりにならない子は「悪い子」と感じます。
このように「良い・悪い」「善悪」の判断の基準にあるものは、
自分にとって、都合がいいか、それとも悪いか。
つまりは「自分を勘定に入れている」のです。
これに対して宮沢賢治は、「雨ニモ負ケズ」の詩の中で、
自分を勘定に入れずに、
よく見聞きし、分かり、そして忘れず…
と言いました。
この詩の中で、ぼくはこの言葉がいちばん好きです。
いえ、好き嫌いというよりは、
いちばん心に響くといったらいいでしょうか。
自分を勘定に入れずに、
よく見聞きし、分かり、そして忘れず…
それこそが「そういう人に私はなりたい!」と思うゆえんです。
この宮沢賢治の言葉からすれば、
子供に臓器を提供してくれる親にとって、
今回のA案は、実に「都合のよい(ありがたい)法案」でしょう。
しかし、医師から「脳死」と言われながら、
なおも生き続けている長期脳死状態の子供を持つ親にとっては、
この法案は非常に恐い、そして「都合の悪い法案」に違いありません。
都合の善し悪しは、それぞれの立場によって違ってきます。
要するに「自分を勘定に入れた」とき、はっきりとしてくるのです。
この問題は、決して「臓器移植法案」だけに限りません。
ほとんどすべての分野で「都合の善し悪し」が違ってきます。
以前、田舎で大地震が起きたとき、
被害に遭った人々は地震をひどい悲運と感じたに違いありませんが、
その一方、ぼくの知る工務店や墓石販売会社などの一部の人は、
「お陰さまで大繁盛です」とこっそり耳打ちしてくれました。
同じ大地震でも、このように全く違った判断を下します。
自分にとって都合がよければ「善的な出来事」であり、
ちなみに誰かの成功のように、そこに嫉妬が感じられれば「嫌なこと」。
どうやら人間というやつは、「自分を勘定に入れる呪縛」から、
なかなか抜け出せないやっかいな存在のようです〈笑〉。
こうした視座から今回の「法案通過」を考えるとき、
それ以前に、非常に大きな問題があることも分かります。
すなわち、何をもって「死」を判定するかという問題以前に、
「いのちとは何か?」「脳とは何か?」という問題をこそ、
みんなで真剣に考え尽くさなければならないということです。
「いのち」って、いったい何でしょう?
それは単なる細胞や物質、臓器等々の固まりなのでしょうか。
「脳」の機能もまた、
神経細胞やニューロン、シナプスなどの総合作用、
すなわち単なる電気現象や化学反応にすぎないのでしょうか。
物質的・現象的に見ればその通りかもしれません。
しかし、いのちは単に物質の固まりではなく、
そこには目には見えないものも作用して生き物は生きています。
つまり、エーテル体、アストラル体、コーザル体等々、
単なる物質を超えたものの存在もまた考えざるをえないのです。
「脳死」の事例をいろいろ調べてみますと、
脳死判定を受けた妊婦が、無事に出産した事例もあるようです。
もしも脳死が人の死であったとしたら、
これは「死人が子供を産んだ」ということです。
そんなこと、果してありうるでしょうか。
「いのち」を生み出すのは、いのちある者であるのが当然です。
また「長期脳死」と判定されながらも、赤ちゃんはどんどん育っていきます。
しかも、状況に応じて違った声を出して「反応」するのですから、
これを「死」と断定するのは間違いです。
「脳」は機能していなくても、いのちはちゃんと作用(反応)している。
その事実は、非常に重いと思われます。
このように「脳死」をもって「人の死」とするのは犯罪にも等しい行為です。
なのに昨日の衆議院では、非常に残酷な可決をしました。
「脳死」の問題を考える前に「いのちとは何か」を議論することが不可欠です。
誰かの都合、何かの損得、自分の勘定(感情)によって「死」を決めるのは、
ある意味で「合法的殺人」を推奨するものとなるでしょう。
まぁ、もっとも、こうなって当然だったのかもしれません。
「ガンとは何か?」がほとんど分かっていないにもかかわらず、
今の医学は、ガン細胞を切ったり殺したりすることを「善」としているのですから。
「ガンとは何か?」も分からぬままガン細胞を殺すことを善とする考え方が、
「いのちとは何か」をほとんど真剣に考えぬまま、
「脳死を人の死」と断定しているような気がします。
しかし、以下のように脳死状態から蘇った事例もあります。
★「脳死確実」と言われた息子が、ここまで回復した!
http://fps01.plala.or.jp/~brainx/20010210_1.htm
人間の死を「それぞれの都合(損得)」によって法制化するのは、
人間のいのちの尊厳と神を冒涜する行為とは言えないでしょうか。
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