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Web制作現場の“非常識” 足利事件のDNA鑑定で考える 技術導入で「してはならないこと」(2009/06/17)
DNA鑑定は絶対の思いこみの背後にあるもの
正直なところ足利事件にふれるのはつらい。なにがあったにせよ、無実の人間が17年間も獄につながれていたのだ。その事実は重すぎる。いくら検察や警察が「申し訳ない」と謝罪しても、17年の歳月は戻ってくるわけではない。
だからこそ、どうしても「なぜDNAの誤鑑定を信じたのか」が気になる。もちろん「自白の強制」などの要因があったのは想像がつく。当たりまえだが、冤罪の根拠を誤鑑定ひとつに求めるのは間違いだろう。
それでも気になるのは、「DNA鑑定」という技術が「取りかえしのつかない過ち」につながったからである。けっして技術は万能ではない。どんなに画期的な技術でも、使い方によっては弊害をもたらす可能性はある。
にもかかわらず、「DNA鑑定は絶対」と信じてしまったのだ。「『澄んだ目の記者』を目標に(足利事件の報道)栗田亘氏」によれば、当時の新聞報道も「重要参考人を近く聴取 毛髪の遺伝子ほぼ一致(91年12月1日 朝日新聞社会面トップ)」としている。「ほぼ」と逃げてはいるが、とても「DNA鑑定」に疑問を抱いているとは読めない。
さらに「??」になるのが、毎日新聞の「足利事件:毎日新聞記事検証 事件報道、重い課題 「犯人」前提の表現も(09年6月11日)」である。それによれば「当時のDNA鑑定について『100%の個人識別はできない』とも指摘した」のに、「取材班は、当時のDNA鑑定の証拠能力を過信し、容疑者特定の決め手ととらえていた」とある。これでは「100%ではないと指摘したが、決め手ととらえていた」になってしまう。
いまも昔も警察発表を無批判にタレ流す体質は同じ──そういってしまうと身もフタもないが、「DNA鑑定」を客観的に追求したとは、とうてい思えない。だから「現在の『4兆7000億人に1人』と比べると(前出 毎日新聞)」といわれても、「ホントかね」と疑心暗鬼になってしまう。
伝えられているように「昔は精度が低かったが、いまは大丈夫」だけでは、「DNA鑑定は絶対」という発想は同じままである。すくなくとも「4兆7000億人に1人は、DNAを誤鑑定する(DNAの型が一致する)」可能性はあるのだ。
というのも、「DNA鑑定」だけでなく新しい技術の導入には、この華々しい「成果や意義」が強調されるからである。たとえば、OSやソフトウエアの新バージョンでも「処理速度は飛躍的に向上し、操作性も一段と優れ」となることが多い。そのうえで弱点(?)については「大きなメモリが必要」ではなく「必要メモリ○○○GB」的な表現にとどめる。
けっして褒められる方法ではない。しかし「必要メモリ」という条件を隠すのは「してはならない」ことである。システム屋やWeb屋の世界では、条件を隠すのは「ズル」であり「ユーザをだます」と同じである。
さすがに「だます」は穏当ではないが、「DNA鑑定は絶対」の背後には数多くの「してはならないこと」が積みかさなっているような気がしてならない。
評価ぬきの導入の典型で、まさしく「あとの祭」
報道によれば、足利事件の時代「DNA鑑定」の精度は、「1000人に1.2人」とも「800人に1人」ともいわれている。当時、マスコミがこの精度を大きく報じていたら、裁判の結果も大きく違っていたかもしれない。その意味で、足利事件は「DNA鑑定は絶対」が生んだ冤罪という側面もある。
それにしても、「DNA鑑定」でポイントになる精度が、どうして問題にならなかったのか理解に苦しむ。もし「新しい技術なので精度がわからなかった」としたら、そんなアヤフヤな鑑定を証拠として採用したのか疑問が残る。あるいは「精度は無視した」という可能性もある。だとすれば、犯人にするために都合のいいデータを集めただけで、証拠としての価値はない。
警察や検察にしても、客観的な証拠から犯人を割りだしていくのではなく、完全に「こいつが犯人」という主観で証拠を揃えたことになる。まして、裁判はそれを見抜けなったどころか、再鑑定を拒みつづけてきたのだから、批判されるのも当然だろう。しかし、なんといってもマスコミが警察や検察と同じ視点で、犯人として報道したのは罪深い(参照:前出記事)。
もっとも、新しい技術の導入には「実証のない成果」がひとり歩きする傾向はある。新しいハードウエアの導入でも「効率的な管理」にはじまり、最近では「省エネ効果」などの成果が謳われる。そこで「必要メモリ」ではないが、成果の前提条件も同時に検討することは意外なほど多くはない。まして「アクセス数を倍増させる」新技術などと称されると(具体的なものではなく例です)、成果が期待になってひとり歩きする。
同じように「DNA鑑定」は「個人を特定できる」という成果ばかりが注目され、その前提となる精度や判定方法の難しさは見逃されてきたのだろう。「わからなかった」か「無視した」のかは別として、いまになって「当時は」というのは、ハードウエアを導入してから「期待はずれ」と嘆くのに似て「あとの祭」でしかない。
これこそ「評価ぬきの導入」であり「してはなならないこと」である。新しい技術などの導入には評価がなければならない。完璧に遵守されているかはともかく、基本的には導入のプラス面とマイナス面を列挙して判断するのが、通常の導入方法である。
いくら調べても「DNA鑑定」の説明はあるものの(参照:平成20年警察白書)、プラス面はともかくマイナス面を評価した形跡は見あたらない。プラス面だけを評価すると、往々にして運用上で破綻する傾向にある。足利事件の冤罪は、その典型なような気がしてなならない。
導入と同時に信頼をかちとった(?)DNA鑑定
しかも、足利事件の逮捕があった91年は、「DNA鑑定」の日本導入と重なっている。たしかに1986年には、イギリスで「DNA鑑定」を犯罪捜査に活用した事例はあったが、日本での実績は皆無だっただろう。つまり、海外から、原理と若干の事例は伝わってきていたが、日本ではこれから実績を積みあげていく段階だったのである。
それなのに「DNA鑑定は絶対」となっていったのは、驚くべきことで「ありえない」といってもいいだろう。運用もしないうちに信頼を集める新しい技術など、存在するわけはない。
決定的だったのは、91年12月3日付の朝日新聞朝刊「ニュース三面鏡」だろう。「スゴ腕DNA鑑定」と読むほうが恥ずかしくなるような見出しに、「100万人から一人を特定」とまで断定している。これが端緒になって「すべての裁判関係者が目を眩まされ(足利事件の問題点)」たのもわかるような気がする。
やはりマスコミの責任は大きい。この記事を書いた朝日新聞の記者はもちろん、「負けてはいられない」とばかり「DNA鑑定は絶対」を流布した記者は、警察や検察よりも前にご本人に謝罪すべきだろう。
しかし、この種の記事は独自に「DNA鑑定」を調べた結果なのか──とてもそうとは思えない。見出しや内容のもそうだが、警察発表を鵜呑みにする体質から考えると、足を使った取材ではない印象が残る。誰かはわからないが、「DNA鑑定」を導入した側が記者に耳打ちした結果なような気がしてならない。
だとすれば、新しい技術を導入した側が「信頼させるよう仕向けた」ことになり、これも「してはなならないこと」である。技術への信頼は、成果を積みあげることでかちとるものであって、けっして仕向けるものではない。
街で見かけるATMだって自動改札機だって、いまは信頼して利用しているが、当初は新しい技術だった。現在のように疑うこともなく利用するまでには、トラブルはあったにせよ、概ね安定した運用がつづけられているからであって、プレスリリースや記者への耳打ちによって仕向けたからではない。
それを考えると、耳打ちがあってもなくても、「DNA鑑定」は導入と同時に信頼をかちとったという尋常ではないスタートをきったことになる。どんなに海外で実績があろうとも、新しい技術を日本に導入すると、初期トラブルは避けれない。というよりも、それらのトラブルに対処してこそ、新しい技術は信頼されるまで成長するのである。
はじめから完璧に信頼されていたとしたら、技術の成長はありえない。そこが「もっともしてはならないこと」につながっていく。
「DNA鑑定は絶対」だけでは信頼されるまで技術は成長しない
おそらく、足利事件で誰もが指摘するのは、「DNA鑑定」再鑑定を拒みつづけてきたことだろう。「間違いを認めない裁判所」などのような指摘は多い。たしかに、それらの要素も大きいとは思う。しかし、「DNA鑑定」だけに限っていえば、はじめから「信頼できる」としてきた反動も無視できない。
なにしろ、導入のときから「スゴ腕」で「DNA鑑定は絶対」としてきたのである。いまでこそ「800人に1人」という精度が明らかになってしまったが、「信頼させるよう仕向けた」側にとっては、とても「そんなこと公表できない」心境だったに違いない。
これが最悪の「もっともしてはならないこと」である。ATMや自動改札機もトラブルがなかったわけではない。たしかに「隠せない」条件があったとはいえ、批判をあびながら謝罪し対処をしてきたからこそ、信頼されるまで技術は成長したのである。
導入と同時にふりまかれた「DNA鑑定は絶対」という虚像は、その成長を閉ざしてしまう。かたくなに情報の公開を拒み、批判に耳を傾けないままでは、新しい技術の問題と真剣に向き合うのこともできないし、問題に対処しながらの改善もありえない。
たしかに「800人に1人」から「4兆7000億人に1人」は進歩だろう。しかし、それは過去の「DNA鑑定」の限界を体感し改善したものではない。あくまでも、DNAのパターンを分析し一致か不一致かを確率から推定したものである。したがって、どうしても全幅の信頼をおく気にはならない。
ところが、再びマスコミでは「いまは精度も高く」と「4兆7000億人に1人」がひとり歩きしはじめている。まさに、過去に自らふりまいた「DNA鑑定は絶対」の虚像に、しがみついているようにしか見えない。実証的な根拠もないまま「一卵性双生児以外は全て結果が異なる」という情報を伝える前に、赤の他人であってもDNA型は一致する確率を、書籍やデータで自ら考え判定していくことが先決だろう。
まさに「DNA鑑定」の導入は「してはならないこと」ばかりである。しかし、それを批判するどころか、逆にマスコミは手をかしてきたといっても過言ではない。その間に、足利事件と同じように「DNA鑑定」で犯人とされた飯塚事件では、死刑が執行されたしまった。もちろん「してはならないこと」をしてきた側の責任は大きい。だが、それを助長してきたマスコミにも責任の大半はある。
しかも、いまや「4兆7000億人に1人」のひとり歩きである。これでは原理的には有効と思われる「DNA鑑定」を、確実な技術として定着させるどころか、「とにかく絶対だ」で終わらせてしまうことにもなりかねない。
警察白書によれば「DNA型記録検索システム」というデータベース構築されているらしい。しかし、照合系のデータベースが機能するためには、精度の高いデータを、いかに正確に数多く蓄積しているかが前提となる。足利事件の悲劇を繰りかえさないためにも、新たな冤罪事件を起こさないためにも、「DNAデータベースは絶対」だけには陥らないでほしい。そのためには「してはならないこと」をさせないマスコミの努力は欠かせない。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/bpnet.cfm?i=2009061702705dl&p=1
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