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2009年6月12日 (金)
民主党第三者委員会報告の限界を克服する方策
西松建設違法献金事件に関連して民主党が設置した有識者会議「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に関する第三者委員会」(座長・飯尾潤政策研究大学院大教授)が6月10日に提出した報告書に関して、私の見解を捕捉する。
6月11日付記事
「読売社説 民主「西松」報告批判は的外れだ」
は、読売社説に対する批判を主眼にして記述したために、報告書の優れている点を強調したが、報告書には大きな限界と欠陥が存在し、この限界を踏まえた対処が不可欠である点を捕捉しなければならない。
報告書は第5章、第6章で、民主党の対応について論じている。
第5章 政党の危機管理の観点からの分析
第6章 政治的観点から見た民主党の対応
に、今回のような問題が生じた場合の対応についての分析が示された。
報告書は昨日付記事
「読売社説 民主「西松」報告批判は的外れだ」
に示したように、
「民主的正当性を持たない検察の不当・違法な捜査権限の行使による政治介入が行われ得ること、それが、とりわけ時の政府に都合の良い形で行使される傾向があることは、第3 章の3−1.で述べたとおりであり、そのような権限行使が行われたた疑いがあるのであれば、民主主義を担う政党として、憲法及び法令によって認められた手段を駆使して、検察の不当な政治介入に対して毅然たる姿勢を示すことも重要である」
との基本判断を示した。
ところが、第5章、第6章の分析では、政党としての検察批判に対するスタンスが著しい「揺らぎ」を示す。
この点は、「カナダde日本語」の美爾依さんも鋭い指摘を示されている。
報告書は第5章に、
「露骨な検察批判を行うことによって、司法軽視との批判を招いたり、誤解を受けたりすることがないよう十分に留意する必要がある。捜査の容疑事実や捜査手法等に対して疑問な点があれば端的に指摘すべきであるが、「国策捜査」「不当捜査」などと主観的なコメントをすることは差し控えるべきであろう」、
「露骨な検察批判を行うことによって、司法軽視との批判を招いたり、誤解を受けたりすることがないよう留意する必要がある」
と記述する。また、第6章では、
「当事者的立場にある政治家が、総選挙の時期とからめて検察の措置を批判し、さらに進んで、検察のあり方そのものを直接批判することは、控えるべきであり、慎重な言い回しが求められる。総選挙の結果次第では、内閣総理大臣になることが予想される民主党の代表として、検察の独立性に疑問を呈するのは、政権の座に着いたら、逆に検察の活動に介入するのではないかという疑いを抱かせかねないからである。」
「民主党、とりわけ幹部は、先に述べた当事者的立場にある政治家と政党の立場を区別するという観点から、検察批判的な発言を抑制することが、より強く求められる。ところが、幹事長など党の幹部によって「国策捜査」という言葉が使われ、また検察に圧力を加えると誤解されかねない発言が相次いだのは、適切ではなかった」
と記述している。
このように指摘した後で、今度は逆に、
「ただ、検察の措置に問題があるということを、全く論じていけないわけではなく、そうした問題の所在に人々の関心を向けさせる発言は認められる。政治的有効性からすれば、民主党関係者が抑制の効いた発言を続けるなかで、第三者の間から、検察の措置に関する批判がわき起こるといった事態の方が、より民主党にとって、好ましい事態であったと考えられる」
と指摘し、逆の見解を付け加えている。
第三者委員会の座長代理を務めた郷原信郎氏は、今回の事件で、法律の専門家として極めて適切な見解を示し、民主党の被害を最小にとどめるうえで、大きな貢献をした人物である。
しかし、郷原氏自身は、当初から「国策捜査」的な背景については否定的な見解を示し続けてきた。個人の見解は人によって異なるのであり、郷原氏の見解は郷原氏の見解として尊重されなければならないが、郷原氏とは完全に異質の見解を持つ人々が多数存在することを見落としてはならない。私もその一人だが、同種の見解を示してきた代表的な識者の一人に元自治大臣の白川勝彦氏が存在する。今回の事案を「紛れもない政治謀略」と判断する。
検察捜査が常に適正に行われているとの「性善説」に立つのか、それとも政治権力が検察権力を不正に使用することがあり得るとの「性悪説」に立つのかによって、政党や政治家が示すべき対応はまったく異なってくる。
報告書にはさまざまな留保条件が付されているが、第三者委員会のメンバーは、基本的に「性善説」に立った主張を展開しており、この基本的な立ち位置が今回の報告書に大きな限界をもたらしている。
「性悪説」に立つことが、政権交代が実現する場合に現在の野党が必ず検察権力を不正利用して報復を行なうことを意味するわけではない。これまでの現実を反面教師として活用し、過去の誤りを正して適正な検察行政の在り方を追求する行動も考えられる。これがあるべき対応だろう。
郷原氏は検察出身者であり、正義の論陣を張られてはいるが、検察当局全体に対する強い配慮を保持しているのだと考えられる。私は飯尾氏と「21世紀臨調」で数年間、佐々木毅部会長が統括する政治部会の主査として、一緒に仕事をさせていただいた経験を持つ。飯尾氏は優れた学識を有する「良識の人、常識の人」である。これらの人々が報告書をまとめれば、「性善説」に立った総括になることはやむを得ない。
本来は第三者委員会に、白川勝彦氏のように警察・検察行政を熟知し、国家公安委員長として警察トップを務め、さらに弁護士として辣腕をふるわれているような方がメンバーとして加われば、「性悪説」を前提とする正しい対処の方法についても意義深い提案が示されたと考える。
報告書は「国策捜査」などの言葉を用いるべきでないとのスタンスを示すが、これは、警察・検察当局の激しい焦燥感を反映したものであるとも言える。
現実には、多数の「国策捜査」、不当な警察・検察権力行使の存在を隠し切れない状況が広がっているからだ。「性善説」だけでは説明のつかない多くの事例が存在することを、多くの人々が気付き始めているのが現実である。
「性悪説」の前提を排除し切れないことを踏まえれば、「性悪説」を前提とする危機管理の在り方が論じられなければならない。
報告書は、事件が表面化した段階で小沢代表が辞任しないとの意向を示したことを前提としたケースについて、具体的な対応方法を提示しており、これはこれで参考になる部分が多くある。この意味で、報告書の有用性は小さくないが、「性悪説」を前提とする対処方針がほとんど示されていないことが最大の欠陥である。
報告書は検察捜査の問題点を縷々(るる)指摘している。総選挙を目前にした時期に、次期総理大臣候補である野党党首を狙い撃ちにした、犯罪の構成要件をも満たしていない恐れの高い微罪案件が、このような騒ぎに発展させられた現実を踏まえれば、第5章、第6章の主張の前提が著しく「性善説」に偏っているのは、いささか不自然だ。
私は今回の事案が、政治的背景を持つ検察権力の行使である可能性が極めて高いと判断する。この前提に立つと、第5章、第6章の記述は、適正さを欠いていることになる。
民主党や小沢前代表が詳細な事実を開示して、積極的に国民に実情を説明してゆくべきであったことは、報告書の提言に賛同する。そのうえで、民主党が結束して、不正な検察権力が行使された可能性について、丁寧に国民に説明するべきであった。
この場合には、事情を分かりやすく説明するために、「国策捜査」や「政治謀略」などの言葉をむしろ多用すべきだと考える。
「清冽な水」が流れているのに、それをあえて「濁った水」と言う必要はない。しかし、「水がドロドロに濁っている」と多くの人々が証言しているなかで、「水が濁っている」と言ってはいけない、とするのはリアリズムを欠いた行動と言わざるを得ない。
報告書は問題を丁寧に分析し、詳細な提言を盛り込んでいる点で高く評価できるが、警察・検察当局が忌避(きひ)しようとする「正義の警察・検察神話の否定」に一歩も足を踏み入れていない点に欠陥がある。
警察・検察当局はテレビメディアを駆使して、さまざまなドラマやドキュメンタリーで「正義の警察・検察神話」の流布(るふ)に務めている。
御用メディアも警察・検察との癒着(ゆちゃく)が大きな利得になることから、「正義の警察・検察神話」流布に尽力する。
しかし、今回の足利事件をはじめ、無数の現実が「正義の警察・検察神話」を粉々に打ち砕(くだ)きつつある。
民主党は今回の報告書の有用な部分を積極的に活用するべきだが、報告書が政府や警察・検察の性善説に立脚していることに伴う限界を十分に認識する必要がある。その欠陥を補うため、可能であれば、「性悪説」に立脚した危機対応策を追加的に検討するべきである。
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