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民主主義を壊す「説明責任」
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/05/post_191.html
27日の党首討論で麻生総理は「小沢秘書逮捕」を追及する事が民主党攻撃の最大ポイントと考えていたようで、「民主党は西松問題で説明責任を果たしていない」と鳩山民主党代表を追及した。
これまで新聞やテレビで民主主義を知らない愚かなジャーナリストや学者が「説明責任を果たしていない」と小沢代表や民主党を批判していた事は知っていたが、まさか一国の総理が議事録に残る国会でその発言をするとは思っていなかった。日本の民主主義がいかに未熟なものであるかを麻生総理は国会の記録に残した。
「説明責任」は英語でアカウンタビリティと言う。アカウントと言う言葉から分かるように元々は会計学の用語である。「他人の財産を受託している者がそれをいかに管理し正しく使ったかを証拠を示して説明する義務」の事だと言う。それが政治の世界で使われるようになったのは1970年代のアメリカである。
「反共主義」を錦の御旗に介入したベトナム戦争で苦戦が続き、国の内外から批判されたアメリカは「政治改革」を行う必要があった。いかに共産主義と戦う事が正義でも、民衆に支持されない政権を擁護する事は誤りである。「反共」よりも「民主主義」が大事だと考えられた。納税者の権利の尊重や、行政府の「透明性」が「政治改革」の大きな柱となった。
そこで「政府は納税者に対して税金の使い道をきちんと説明する義務がある」と考えられるようになる。それを「説明責任」と言う。「納税者が主人で官僚は下僕である」という極めて民主主義的な考えが根底にある。同じ頃、官庁など税金で成り立つ組織には国民に「情報公開」を行なう「透明性」も求められ、「情報公開法」が制定された。
ところがこの考えが官僚国家日本に入ると意味がすり替わる。「情報公開法」が制定されても官僚はあらゆる口実を駆使して国民にはほとんど情報を公開しない。一方で官僚支配を認める特別の者だけに情報の一部を漏らす。「資産公開制度」が出来ても国会議員だけに適用され、裁判官や高級官僚には適用されない。要するに官僚を縛る道具を国民の代表である政治家を縛る道具にすり替え、行政、司法の官僚には及ばないようにした。
「説明責任」も同様である。本来は政府に求められる「責任」をあらゆる分野に拡散して、政府への追及をぼかすようにした。ぼかす役割はメディアにやらせた。メディアは取材対象に「説明責任がある」と言って迫れるので、誰にでも「説明責任」を求める。バカな取材に応えない自由は誰にでもあるのに、それをさせない口実に「説明責任」が使われた。最近ではプロ野球の監督にまで「説明責任」を求めるバカなメディアがある。その裏側でメディアは本来やるべき政府の「説明責任」を追及していない。
今回の小沢秘書逮捕で「説明責任」を求められるのは何よりも検察である。選挙直前に政界捜査を行なう事など先進民主主義国では考えられない。民主主義で最も尊重されなければならない選挙に影響を与える捜査などやってはならない。それが犯されれば国民の権利より捜査機関が上位に立つ事になり、捜査機関と結んだ政治権力が権力を欲しいままにできる。かつてファシズムはそうして生まれ、民主主義を破壊した。
選挙が行なわれる年に、国民の権利を奪ってまでやらなければならなかった検察の捜査にどれほどの国益があったのか、その「説明責任」を検察は果たさなければならない。それが税金で養われる検察官の納税者に対する義務である。ところが検察はそれを拒否した。裁判で説明をするので事前に手の内は明かせないと言う。これで「説明責任」は全て裁判の場に持ち越される事になった。
民主主義社会では裁判で決着するまで被疑者は無罪である。従って検察が「説明責任」を裁判に持ち越した時点で「小沢秘書逮捕」は裁判が終るまで見守るしかない事件となった。ところがである。驚く事にこの国には民主主義を知らない人間が続々と現れて、小沢氏や民主党に「説明責任を果たせ」と迫ったのである。
検察が果たさない「説明責任」を何故政治家にだけ求めるのか。政治家は国民の代表である。国民が選挙で落とす事も選ぶ事も出来る。生殺与奪の権は国民が握っている。その政治家に対して官僚以上の説明責任を負わせる考えが果たして世界の民主主義国家に存在するだろうか。
新聞とテレビはご丁寧にも「世論調査」を行なって「小沢氏は説明責任を果たしているか」と聞いた。しかし「検察は説明責任を果たしたか」とは決して聞かない。検察が「説明責任」を果たしていないのに小沢氏の「説明責任」だけを問えば、誰も「説明責任を果たした」と答える筈はない。するとその調査結果を大々的に宣伝して再び世論操作に利用する。これはまさにゲッべルスの世界、ナチスを誕生させた時代の再来だと私は思った。
政治家にも学者にもジャーナリストと称する人間にもいた。検察を棚に上げて小沢氏や民主党に「説明責任」を迫った人間の顔と名前を国民はよく覚えておくと良い。それが民主主義を破壊する人間の顔である。それらの集大成が党首討論での日本国総理大臣の発言であった。まさか記録に残る国会の場であれほど「説明責任」に固執するとは思わなかったが、それが最も効果的な攻めどころだと思ったのだろう。しかしそれだと麻生総理は後世「民主主義の破壊者」として記録される事になる。残念だが官僚の振り付けどおりに動くとそう言う事が起きる。
(転載終わり)
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